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新年を前にお墓の掃除に行きました。

八事霊園名古屋市天白区)は、お墓参りの人たちで賑わっていました。

八事霊園201112

お墓参りは、お彼岸以来(2011年9月23日の日記参照)でしたが、今年は結構草が生えていて、思っていたよりも掃除に時間がかかりました。

同じく八事霊園にある母方の祖母の墓にも参ってきました。


今朝、ようやく年賀状を書き上げて投函する事ができました。
元旦にはとても着かないと思います。この場を借りて、お詫び申し上げます。


今日の謡の稽古は、『鞍馬天狗』の2回目。

今日からの稽古は、『鞍馬天狗』2回目でした。
今日の場面は、一人の稚児が残り、客僧と親しくしますが、その稚児が亡き源義朝の三男の牛若であることがわかる場面です。

牛若「げにや花のもとの半日の客。月の前の一夜の友。
   それさへよしみはあるものを。あら痛わしや近う寄って花ごらん候え。

シテ「思いよらずや夏虫の。音にだに立てぬ深山がくれを。
   おん訪いのありがたさよこの山に。

牛若「ありとも誰か白雲の。立ち交わらねば知る人もなし。
シテ「誰をかも知る人にせん高砂の。
牛若「松もむかしの。
シテ「とも烏の。
地謡「おん物笑いの種まくや。言の葉茂き恋草の。
   老をなへだてそ垣おの梅.さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。
   人にひと夜を馴れそめて。のちいかならんうちつけに。心空に楢柴の。
   馴れはまさらで。恋のまさらんくやしさよ。

シテ「いかに申し候。今の少人たちはみなみなおん帰り候に。
   何とておん身一人おん畄まり候ぞ。

牛若「さん候今の児たちは平家の一門。中にも安芸の守清盛が子どもたるにより。
   一寺の賞翫他山の覚え時の花たり。みずからも同山には候えども。
   万面目もなき事どもにて。月にも花にも捨てられて候。

シテ「あら痛わしやおん身と申すは。源氏の頭領常磐腹には三男。
   毘沙門の沙の字をかたどり。おん名をも沙那王殿と申すぞかし。
   痛わしやおん身を知れば。所も鞍馬の.木陰の月。

地謡「見る人もなき山里の桜花。余所の散りなんのちにこそ。
   咲かば咲くべきにあら痛わしの.おん事や。


今日の箇所にも、それほど難しい謡はありませんでした


一方、仕舞の稽古は、『吉野静』のキリの通しの稽古の2回目でした。
※『吉野静』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yoshinoshizuka.htm(名古屋春栄会のサイトから)

動作が途中で止まらないように、流れるように舞うようにとの指導を受けました。
特に前半、ゆったりと舞えるようにしたいと思っています。

今日は午前中、体調が思わしくありませんでしたし、夜はクリスマス会の予定があったので、稽古を休もうかとも考えましたが、今年最後の稽古なので思い切って出かけました。
あと発表会まで今日も入れて3回しか稽古がないので、やはり行って良かったです。
夜になって体調は再び悪化してしまいましたが……。



水仙の花が咲いていました。

実家の庭の片隅で水仙の花の香りがしていました。

水仙201112

名前はニホンズイセン(日本水仙)ですが、原産地は地中海沿岸だそうです。
中国を経て日本に入ったとされ、学名は、Narcissus tazetta var. chinensisです。

漢名の“水仙”を音読みして“スイセン”になったと言われています。
漢名の“水仙”は、きれいな花の姿と芳香がまるで仙人のようなことから名付けられたそうです。
また、学名でもある“Narcissus”はギリシャ神話の美少年・ナルキッソスのことで、彼は泉に映った自分の姿に恋をして、毎日その姿を見つめ続けた末に衰弱して死んでしまい、その後、泉のほとりに咲くスイセンの花になったと言われています。

洋の東西を問わず、人はスイセンの花の美しさとその香りに人知を超えたものを見出したようです。

日本でも、昔からその香りは多くの人を魅了してきました。

其のにほひ 桃より白し 水仙花 (芭蕉



初雪でした。

今日の名古屋は、寒い一日でした。
市内では夕方にも雪が舞いましたが、名古屋地方気象台の発表では午後11時過ぎに初雪を観測したそうです。
平年より4日早く、昨年より15日早いとのことです。

雪のあまり降らない太平洋側の地域では、初雪は何となくめでたい雰囲気があるようで、初雪を詠んだ句もそんなめでたさを詠んだ句が多いようです。

初雪や 幸ひ庵に まかりある (松尾芭蕉

初雪は 盆にもるべき 詠哉 (宝井其角

初雪や 正月物を 着て座る (小林一茶



明日からは寒い週末になりそうです。


今日は、忠臣蔵討ち入りの日です。

忠臣蔵で有名な元禄赤穗事件で、浅野内匠頭長矩の遺臣、大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(“四十七士”)は、元禄15年12月14日の深夜に吉良屋敷討ち入り吉良上野介義央を始めその家人、警護の者を殺害しました。

この元禄15年のことを、新聞などでも1702年と表記している例が多く見られますが、この12月14日は、西暦では1703年1月30日にあたります。
さらに、この“深夜”というのも、今の表現では“未明”にあたり、討ち入りの日付は、正確には1703年1月31日になります。

今日は、この西暦旧暦の違いについて述べた坂口安吾随筆月日の話』を紹介します。


月日の話』(坂口安吾

 歳末にコヨミをもらってページをくりつゝ新しい年を考える。
 今月の歴史というところを読むと、異様な気がするのである。このことは一般の人々は気付かないことで、それが普通なのだが、小説家、特に歴史小説を書いている私などから見ると、大変奇妙に思われることが多い。
 たとえば、義士の討入はころは元禄十四年極月(十二月)十四日とナニワ節にうたわれていることはたれも知る通りである。
 けれども、これは太陰暦でいってのことで、今日通用している太陽暦からいうと、たぶん、翌年の一月十何日ぐらいに当るのではないかと思う。
 今日の太陽暦というものは明治政府が採用したもので、それ以前は太陰暦であるから、一ヶ月以上のヒラキがあるのが普通である。私がこのことを肝に銘じたのは、私が島原の乱を書こうと思って文献を調べはじめた時からで、切支丹の文献は、資料が日本側と外国側と二種類あり、日本側の日付は太陰暦であるが、西洋側は太陽暦なのである。したがって、事件の発端が十二月にかかっている天草の乱の如きは、太陽暦では翌年にかかっており、太陰暦の元旦に天草の切支丹組が油断していると思って総攻撃した時、切支丹側には何でもない平日で、ために日本側は総大将が戦死するほどの大損害をこうむった。そして今日のコヨミに至っても、太陰暦の日付がそのまま太陽暦の歴史として伝えられているのである。日本の学者のズボラさ、非科学性もはなはだしというべし。
 ただ紀元節の二月十一日だけは太陰暦の元旦を太陽暦に逆算して算定したものだそうである。すべてがこのようでなければ、記念日などというものは実は全く日付違いなのである。



旧暦の12月の日付を西暦に直すときは、注意しないといけませんね。


kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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