2008/12/15 20:23:10
芥川龍之介の漱石の思い出
今日は、芥川龍之介が漱石の書斎を訪れて、漱石のことを思い出す『漱石山房の冬』を紹介します。
“漱石山房”というのは旧牛込区早稲田南町にあった明治40(1907)年の9月から亡くなるまでの10年間、漱石が暮らした旧居のことです。
この随筆は大正11(1922)年の12月にに発表されていますので、その年の出来事だとすると漱石の死後6年経っていることになります。
『先生の歿後七年の今でも……』とあるのは七回忌のことでしょうか。
『年少のW君』というのは、渡辺庫輔のこと思われます。
渡辺庫輔〔1901〜1963〕は、長崎生まれで、大正8(1919)年に長崎を訪ねた芥川と菊池寛を知り、大正11(1922〕年から大正14(1925)年にかけて上京して、芥川の指導を受けています。後に長崎に帰り、郷土史家として大成したそうです。
『旧友のM』というのは、松岡譲のことでしょう。
松岡譲文字色は、芥川龍之介、久米正雄とともに東京帝国大学在学中に同人誌「新思潮(第三次)」を創刊し、その後、3人とも漱石の門人となります。漱石の死の2年後の大正7(1918)年、漱石の長女・筆子と結婚し、漱石山房に同居します。しかし、久米も筆子に恋をしていたため、2人の間には確執が生まれ、当時の世間を騒がせたそうです。
したがって、『Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。』とあるKは、久米正雄のことでしょう。
『漱石山房の冬』(芥川龍之介)
わたしは年少のW君と、旧友のMに案内されながら、久しぶりに先生の書斎へはひつた。
書斎は此処へ建て直つた後、すつかり日当りが悪くなつた。それから支那の五羽鶴の毯も何時の間にか大分色がさめた。最後にもとの茶の間との境、更紗の唐紙のあつた所も、今は先生の写真のある仏壇に形を変へてゐた。
しかしその外は不相変である。洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。銅印もある。瀬戸の火鉢もある。天井には鼠の食ひ破つた穴も、……
わたしは天井を見上げながら、独り言のやうにかう云つた。
「天井は張り換へなかつたのかな。」
「張り換へたんだがね。鼠のやつにはかなはないよ。」
Mは元気さうに笑つてゐた。
十一月の或夜である。この書斎に客が三人あつた。客の一人はO君である。O君は綿抜瓢一郎と云ふ筆名のある大学生であつた。あとの二人も大学生である。しかしこれはO君が今夜先生に紹介したのである。その一人は袴をはき、他の一人は制服を着てゐる。先生はこの三人の客にこんなことを話してゐた。「自分はまだ生涯に三度しか万歳を唱へたことはない。最初は、……二度目は、……三度目は、……」制服を着た大学生は膝の辺りの寒い為に、始終ぶるぶる震へてゐた。
それが当時のわたしだつた。もう一人の大学生、――袴をはいたのはKである。Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。これは世間も周知のことであらう。
今日は、芥川龍之介が漱石の書斎を訪れて、漱石のことを思い出す『漱石山房の冬』を紹介します。
“漱石山房”というのは旧牛込区早稲田南町にあった明治40(1907)年の9月から亡くなるまでの10年間、漱石が暮らした旧居のことです。
この随筆は大正11(1922)年の12月にに発表されていますので、その年の出来事だとすると漱石の死後6年経っていることになります。
『先生の歿後七年の今でも……』とあるのは七回忌のことでしょうか。
『年少のW君』というのは、渡辺庫輔のこと思われます。
渡辺庫輔〔1901〜1963〕は、長崎生まれで、大正8(1919)年に長崎を訪ねた芥川と菊池寛を知り、大正11(1922〕年から大正14(1925)年にかけて上京して、芥川の指導を受けています。後に長崎に帰り、郷土史家として大成したそうです。
『旧友のM』というのは、松岡譲のことでしょう。
松岡譲文字色は、芥川龍之介、久米正雄とともに東京帝国大学在学中に同人誌「新思潮(第三次)」を創刊し、その後、3人とも漱石の門人となります。漱石の死の2年後の大正7(1918)年、漱石の長女・筆子と結婚し、漱石山房に同居します。しかし、久米も筆子に恋をしていたため、2人の間には確執が生まれ、当時の世間を騒がせたそうです。
したがって、『Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。』とあるKは、久米正雄のことでしょう。
『漱石山房の冬』(芥川龍之介)
わたしは年少のW君と、旧友のMに案内されながら、久しぶりに先生の書斎へはひつた。
書斎は此処へ建て直つた後、すつかり日当りが悪くなつた。それから支那の五羽鶴の毯も何時の間にか大分色がさめた。最後にもとの茶の間との境、更紗の唐紙のあつた所も、今は先生の写真のある仏壇に形を変へてゐた。
しかしその外は不相変である。洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。銅印もある。瀬戸の火鉢もある。天井には鼠の食ひ破つた穴も、……
わたしは天井を見上げながら、独り言のやうにかう云つた。
「天井は張り換へなかつたのかな。」
「張り換へたんだがね。鼠のやつにはかなはないよ。」
Mは元気さうに笑つてゐた。
十一月の或夜である。この書斎に客が三人あつた。客の一人はO君である。O君は綿抜瓢一郎と云ふ筆名のある大学生であつた。あとの二人も大学生である。しかしこれはO君が今夜先生に紹介したのである。その一人は袴をはき、他の一人は制服を着てゐる。先生はこの三人の客にこんなことを話してゐた。「自分はまだ生涯に三度しか万歳を唱へたことはない。最初は、……二度目は、……三度目は、……」制服を着た大学生は膝の辺りの寒い為に、始終ぶるぶる震へてゐた。
それが当時のわたしだつた。もう一人の大学生、――袴をはいたのはKである。Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。これは世間も周知のことであらう。

