2008/06/24 19:31:04
ランキング依存症候群について考えました。
今月(2008年6月)5日のNHKの番組「クローズアップ現代」で、“ランキング依存症候群”が取り上げられていました。この番組で取り上げられていたのは出版の分野でしたが、私は、今や多くの分野が“ランキング依存症候群”に陥っていると感じています。
私が、この言葉を初めて目にしたのは、昨年(2007年)4月16日付の日本経済新聞の朝刊1面のコラムで取り上げられた“ランキング症候群”でした。
このコラムでは、『どこに自分の欲しいもの があるのか。人はさまようが、迷ったときはちょっとキーボードをたたけば順位が分かる。本来は参考指標にすぎないランキングに身をゆだね、 「決めてもらう」 人も増えている。』と、主にネット上に氾濫するランキングに依存する人が増えていることを取り上げていました。
しかし、テレビや新聞、雑誌で報じられるさまざまなランキングに依存する傾向はますます強まっているように感じます。
こうした傾向の最大の原因は、何が良いかが自分で判断できないということだと思います。
しかし、自分で判断すべきだとわかっていても、あまり詳しくない分野のことだと、ついつい他人の判断、特に専門家といわれる人の判断を鵜呑みにしがちです。
ただ、こうした傾向は、別に最近、始まったことではないようです。
今日は、芥川龍之介の短編『沼地』を紹介します。
『沼地』(芥川龍之介)
ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えないほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。画は確か、「沼地」とか云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。
その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊(ポプラア)や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。
しかしその画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑な淤泥の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。
今月(2008年6月)5日のNHKの番組「クローズアップ現代」で、“ランキング依存症候群”が取り上げられていました。この番組で取り上げられていたのは出版の分野でしたが、私は、今や多くの分野が“ランキング依存症候群”に陥っていると感じています。
私が、この言葉を初めて目にしたのは、昨年(2007年)4月16日付の日本経済新聞の朝刊1面のコラムで取り上げられた“ランキング症候群”でした。
このコラムでは、『どこに自分の欲しいもの があるのか。人はさまようが、迷ったときはちょっとキーボードをたたけば順位が分かる。本来は参考指標にすぎないランキングに身をゆだね、 「決めてもらう」 人も増えている。』と、主にネット上に氾濫するランキングに依存する人が増えていることを取り上げていました。
しかし、テレビや新聞、雑誌で報じられるさまざまなランキングに依存する傾向はますます強まっているように感じます。
こうした傾向の最大の原因は、何が良いかが自分で判断できないということだと思います。
しかし、自分で判断すべきだとわかっていても、あまり詳しくない分野のことだと、ついつい他人の判断、特に専門家といわれる人の判断を鵜呑みにしがちです。
ただ、こうした傾向は、別に最近、始まったことではないようです。
今日は、芥川龍之介の短編『沼地』を紹介します。
『沼地』(芥川龍之介)
ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えないほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。画は確か、「沼地」とか云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。
その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊(ポプラア)や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。
しかしその画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑な淤泥の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。