竹取物語(6)

大納言大伴御行への難題

大伴御行(おおとものみゆき)にかぐや姫が与えた難題が「龍の首の珠」。
大伴御行は家臣を呼び集め、龍の首の珠とってきたものには、願い事をかなえようと伝え、どこを探せばよいかわからないと渋る家来に、屋敷にある全てのものを与えて、見つかるまでは帰ってくるなと言って送り出します。
家臣たちは、どうせ見つからないともらうものはもらったものの、龍の首の珠など探さずどこかへ行ってしまいます。
そんなことと知らない大伴御行は、妻と別れ、かぐや姫と暮らす屋敷を建てて待っていたが、何の連絡もないので、難波の港に出かけ、船人に尋ねるが、龍神様を殺すような船はいないと言われます。
それを聞き、大伴御行は、自ら船に乗り込み、海という海をさまよい、大時化にあって、浜に打ち寄せられてしまいますが、そこは播磨の明石の浜だったので、輿で屋敷に戻ります。
屋敷に戻ってきた家臣が、龍の首の珠を取れなかったので戻ってこれませんでしたと言うと、龍神を捕らえようとして、多くの人々の命が危うくなったのは、かぐや姫のせいだと言い、かぐや姫の家には近づくなと命じます。

大伴御行が海で嵐にあう場面が、「竹取物語絵巻」に描かれています。
『高島藩主諏訪家伝来 竹取物語絵巻 中巻 絵3』(諏訪市博物館蔵)

『竹取物語』「龍の首の珠」

大伴御行の大納言は、我が家にありとある人を召し集めて、宣はく、
「龍の首に五色の光ある玉あなり。それを取りて奉りたらむ人には、願はむ事を叶へむ」と宣ふ。
男ども仰の事を承りて申さく、
「仰の事はいとも尊し。但しこの玉容易くえ取らじを、况や龍の首の玉は如何取らむ」と申し合へり。
大納言宣ふ、
「君の使といはむものは、命を捨てても、己が君の仰言をば叶へむとこそ思ふべけれ。
この國に無き天竺唐土の物にもあらず。この國の海山より龍は下り上るものなり。
如何に思ひてか、汝等難き物と申すべき」。
男ども申すやう、
「さらば如何はせむ。難き物なりとも、仰言に從ひて求めに罷らむ」と申す。
大納言見笑ひて、「汝等君の使と名を流しつ。君の仰言をば如何は背くべき」と宣ひて、
龍の首の玉取りにとて、出し立て給ふ。
この人々の道の糧食物に、殿の内の絹、綿、錢など、ある限り取り出でて添へて遣はす。
「この人々ども、歸るまで齋をして我は居らむ。この玉取り得では家に歸り來な」と宣はせけり。
おのおの仰承りて罷り出でぬ。
「龍の首の玉取り得ずば歸り來な」と宣へば、いづちもいづちも足の向きたらむ方へいなむとす。
斯かる好事をし給ふ事、と謗り合へり。
賜はせたる物はおのおの分けつゝ取り、或は己が家に籠り居、或はおのが行かまほしき所へいぬ。
親君と申すとも、斯くつきなき事を仰せ給ふ事、と、事ゆかぬもの故、大納言を謗り合ひたり。
「赫映姫すゑむには、例のやうには見にくし」と宣ひて、
麗しき屋を造り給ひて、漆を塗り、蒔繪をし、綺へし給ひて、屋の上には糸を染めて、
いろいろに葺かせて、内々のしつらひには、いふべくもあらぬ綾織物に繪を畫きて、間毎に張りたり。
もとの妻どもは皆追ひ拂ひて、赫映姫を必ず婚はむ設して獨り明し暮し給ふ。
遣しし人は、夜晝待ち給ふに、年越ゆるまで音もせず。
心許無がりて、いと忍びて、唯舍人二人召繼として、窶れ給ひて、難波の邊におはしまして、
問ひ給ふことは、
「大伴大納言の人や、船に乘りて龍殺して、そが首の玉取れるとや聞く」と問はするに、
船人答へていはく、「怪しき事かな」と笑ひて、
「然る業する船もなし」と答ふるに、をぢなきことする船人にもあるかな。
え知らでかくいふ、と思して、
「我が弓の力は、龍あらば、ふと射殺して首の玉は取りてむ。遲く來る奴原を待たじ」と宣ひて、
船に乘りて、海毎に歩き給ふに、いと遠くて、筑紫の方の海に漕ぎ出で給ひぬ。
如何しけむ、疾き風吹きて、世界闇がりて、船を吹きもて歩く。
いづれの方とも知らず、船を海中に罷り出でぬべく吹き廻して、浪は船に打掛けつゝ卷き入れ、
雷は落ちかゝるやうに閃きかゝるに、大納言は惑ひて、
「まだ斯かる侘しき目は見ず。如何ならむとするぞ」と宣ふ。
楫取答へて申す、
「こゝら船に乘りて罷り歩くに、まだ斯く侘しき目を見ず。御船海の底に入らずば雷落ちかゝりぬべし。
若し幸ひに神の助あらば、南海に吹かれおはしぬべし。
うたてある主の御許に仕へ奉りて、すずろなる死をすべかめるかな」とて、楫取泣く。
大納言これを聞きて宣はく、
「船に乘りては楫取の申すことをこそ、高き山とも頼め。など斯く頼もしげなきことを申すぞ」
と青反吐を吐きて宣ふ。
楫取答へて申す、
「神ならねば何業をか仕らむ。
風吹き浪烈しけれども、雷さへ頂に落ちかゝるやうなるは、龍を殺さむと求め給ひ候へば、斯くあなり。
疾風も龍の吹かするなり。はや神に祈り給へ」といへば、
「よき事なり」とて、
「楫取の御神聞しめせ。をぢなく心幼く龍を殺さむと思ひけり。
今より後は毛の末一筋をだに動かし奉らじ」と、
祝詞を放ちて立居、泣く泣く呼ばひ給ふこと、千度ばかり申し給ふけにやあらむ、
やうやう雷鳴り止みぬ。
少し明りて、風は猶早く吹く。
楫取のいはく、
「これは龍の仕業にこそありけれ。この吹く風はよき方の風なり。惡しき方の風にはあらず。
よき方に赴きて吹くなり」といへども、
大納言は、これを聞き入れ給はず。
三四日ありて吹き返し寄せたり。
濱を見れば、播磨の明石の濱なりけり。
大納言、南海の濱に吹き寄せられたるにやあらむと思ひて、息づき臥し給へり。
船に在る男ども國に告げたれば、國の司まうで訪らふにも、え起き上り給はで、船底に臥し給へり。
松原に御筵敷きて下し奉る。
その時にぞ、南海にあらざりけりと思ひて、辛うじて起き上り給へるを見れば、
風いと重き人にて、腹いと脹れ、此方彼方の目には、李を二つ附けたるやうなり。
これを見奉りてぞ、國の司も微笑みたる。
國に仰せ給ひて、腰輿作らせ給ひて、によぶによぶ荷はれて家に入り給ひぬるを、
いかでか聞きけむ、遣はしし男ども參りて申すやう、
「龍の首の玉をえ取らざりしかばなむ、殿へもえ參らざりし。
玉の取り難かりし事を知り給へればなむ、勘當あらじとて參りつる」と申す。
大納言起き出でて宣はく、
「汝等よく持て來ずなりぬ。龍は鳴神の類にてこそありけれ。
それが玉を取らむとて、そこらの人々の害せられなむとしけり。
まして龍を捕へたらましかば、又事も無く、我は害せられなまし。よく捕へずなりにけり。
赫映姫てふ大盜人の奴が、人を殺さむとするなりけり。家の邊だに今は通らじ。男どももな歩きそ」
とて、家に少し殘りたりける物どもは、龍の玉取らぬ者どもに賜びつ。
これを聞きて、離れ給ひし本の上は、腹をきりて笑ひ給ふ。
糸を葺かせて造りし屋は、鳶烏の巣に皆咋ひもていにけり。
世界の人のいひけるは、
「大伴大納言は、龍の首の玉や取りておはしたる」。
「否さもあらず。御眼二つに李の樣なる玉をぞ添へていましたる」といひければ、
「あな堪へ難」といひけるよりぞ、世にあはぬ事をば、あなたへがたとはいひ始めける。


大伴御行は、実在する同名の大伴御行(646年−701年)がモデルとされる。
実在の大伴御行は、天武天皇、持統天皇、文武天皇の3代に仕え、文武朝で大納言になっています。

theme : 日本文化
genre : 学問・文化・芸術

comment

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龍の玉の正体

はじめまして。
龍の伝説ですが、竹取物語のモチーフがあるという、四川省からチベット自治区に多いと聞いています.
 今回の四川大地震でも、竜にまつわる地名が多いのに気がつきました。前回のこの地域の地震では、竜門山断層付近から、火球が多く目撃され、地震予知に結びつきました事は、地震予知の世界では有名です。

地震時の火球の発生の報告は多く、日本でも1741年の松前渡嶋大島の地震、1810年の男鹿の地震等、昔から詳しい記載が有り、神戸の地震後は、電磁現象として解明されました.

火球

優三さん、コメントありがとうございます。
レスが遅くなって申し訳ありませんでした。
火球」という言葉自体、初めて知りました。この「火球」が『龍の首の珠』だったとすると、持って帰ってくるのはやはり不可能だったんですね。

No title

はじめまして。
おかげで、大伴御行のこといろいろ分かりました。
妻と別れたのに・・・かわいそうですね。

嵐にあい、助かったものの、目がスモモみたいに腫れあがり、人々は、それを見て「ああ、食べがたいモモだ。」といったそうです。

堪え難し

タカさん、コメントありがとうございます。

大伴御行の話の最後の一文『「あな堪へ難」といひけるよりぞ、世にあはぬ事をば、あなたへがたとはいひ始めける。』の「あな堪へ難」は、“スモモのようだが本当は目なので食べられない”という意味と、“おかしくて我慢できない”という意味を懸けた掛詞と解するのが一般的なようです。
しかし、このことが「堪え難し」の語源だというのは少し無理があるように思います。

それにしても、大伴御行は気の毒ですね。

No title


今、竹取物語について勉強してるところなんです。結構疑問が出てくるのですが、コレをみて、ものすごくわかりました。ありがとうございます。
大伴御行のページに書いてすみません・・・・かぐや姫のページがみつからなかったので・・・・(見落としてるかもしれません。)なぜ、八月十五夜に帰らないといけないんですか?あと、三年間のあいだに八月十五夜、三回きてるはずですよね?何で、三年後だったのでしょうか?

かぐや姫の謎

タカさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

なぜ仲秋の名月である旧暦八月十五日に月に帰るのかというのは、この物語の主題にかかわる謎ですので、簡単には答えられません。
仲秋の名月に月を観るという風習が先にあって、この物語ができたという説もあれば、逆にこの物語によって仲秋の名月に月を観るという風習が広がったという説もあるようです。

かぐや姫は、『この兒養ふ程に、すくすくと大になりまさる。三月許になる程に、よき程なる人になりぬれば、』(竹取物語(1)〔 http://kinkun.blog87.fc2.com/blog-entry-182.html 〕参照)とあるように3か月で美しい女性になり、月に帰る日に翁が『赫映姫を養ひ奉ること、二十年餘りになりぬ。』(竹取物語(10)〔 http://kinkun.blog87.fc2.com/blog-entry-193.html 〕参照)と話すように20年経っても若いままのようです。
やはり普通の人間ではないのでしょう。

また、月に帰る日が帝と親しくなって3年目だったというのに特に意味があるとは思えません。
最初の3か月と同じで、作者が“3”という数字を使いたかっただけではないでしょうか。

私も「竹取物語」の専門家ではないので、この程度でご容赦ください。

No title

ありがとうございました。私もコレからいろいろ学んでいきたいとおもいます。

竹取物語の謎

タカさん、こんばんは。

竹取物語にはたくさんの謎があるようですので、気がついたことやわかったことなどご報告いただければ、うれしいです。

また、遊びに来てください。
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Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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