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今日と明日の2回に分けて、芥川龍之介の短編『魔術』を紹介します。

魔術』は大正9(1920)年1月に児童雑誌赤い鳥」に発表された児童文学作品です。
芥川は、「赤い鳥」には、何編かの短編を発表しており、『魔術』は大正7(1918)年に「赤い鳥」の創刊号に発表した『蜘蛛の糸』、大正8(1919)年に発表した『犬と笛』に続いて、3作目になります。
また、芥川は、同じ年に『杜子春』も「赤い鳥」で発表しています。


魔術』(芥川龍之介)〔前〕


 ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました。もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、印度人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札がかかっています。
 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝腎の魔術を使う時には、まだ一度も居合せたことがありません。そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
 私は雨に濡れながら、覚束ない車夫の提灯の明りを便りにその標札の下にある呼鈴の釦を押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人の御婆さんです。
「ミスラ君は御出でですか。」
「いらっしゃいます。先ほどからあなた様を御待ち兼ねでございました。」
 御婆さんは愛想よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「今晩は、雨の降るのによく御出ででした。」
 色のまっ黒な、眼の大きい、柔な口髭のあるミスラ君は、テエブルの上にある石油ランプの心を撚りながら、元気よく私に挨拶しました。
「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」
 私は椅子に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照された、陰気な部屋の中を見廻しました。
 ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、まん中にテエブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ――ほかにはただ我々の腰をかける、椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁へ赤く花模様を織り出した、派手なテエブル掛でさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目が露になっていました。
 私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いの御婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻の箱の蓋を開けて、
「どうです。一本。」と勧めてくれました。
「難有う。」
 私は遠慮なく葉巻を一本取って、燐寸の火をうつしながら、
「確かあなたの御使いになる精霊は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」
 ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、の好い煙を吐いて、
「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。高が進歩した催眠術に過ぎないのですから。――御覧なさい。この手をただ、こうしさえすれば好いのです。」
 ミスラ君は手を挙げて、二三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテエブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テエブル掛の中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど麝香か何かのように重苦しいさえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声を洩しますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテエブル掛の上へ落しました。勿論落すともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げること所か、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。「どうです。訳はないでしょう。今度は、このランプを御覧なさい。」
 ミスラ君はこう言いながら、ちょいとテエブルの上のランプを置き直しましたが、その拍子にどういう訳か、ランプはまるで独楽のように、ぐるぐる廻り始めました。それもちゃんと一所に止ったまま、ホヤを心棒のようにして、勢いよく廻り始めたのです。初の内は私も胆をつぶして、万一火事にでもなっては大変だと、何度もひやひやしましたが、ミスラ君は静に紅茶を飲みながら、一向騒ぐ容子もありません。そこで私もしまいには、すっかり度胸が据ってしまって、だんだん早くなるランプの運動を、眼も離さず眺めていました。
 また実際ランプの蓋が風を起して廻る中に、黄いろい焔がたった一つ、瞬きもせずにともっているのは、何とも言えず美しい、不思議な見物だったのです。が、その内にランプの廻るのが、いよいよ速になって行って、とうとう廻っているとは見えないほど、澄み渡ったと思いますと、いつの間にか、前のようにホヤ一つ歪んだ気色もなく、テエブルの上に据っていました。
「驚きましたか。こんなことはほんの子供瞞しですよ。それともあなたが御望みなら、もう一つ何か御覧に入れましょう。」
 ミスラ君は後を振返って、壁側の書棚を眺めましたが、やがてその方へ手をさし伸ばして、招くように指を動かすと、今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテエブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交う蝙蝠のように、ひらひらと宙へ舞上るのです。私は葉巻を口へ啣えたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッド形に積み上りました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び還って行くじゃありませんか。
 が、中でも一番面白かったのは、うすい仮綴じの書物が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、ふわりと空へ上りましたが、しばらくテエブルの上で輪を描いてから、急に頁をざわつかせると、逆落しに私の膝へさっと下りて来たことです。どうしたのかと思って手にとって見ると、これは私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、仏蘭西の新しい小説でした。
「永々御本を難有う。」
 ミスラ君はまだ微笑を含んだ声で、こう私に礼を言いました。勿論その時はもう多くの書物が、みんなテエブルの上から書棚の中へ舞い戻ってしまっていたのです。私は夢からさめたような心もちで、暫時は挨拶さえ出来ませんでしたが、その内にさっきミスラ君の言った、「私の魔術などというものは、あなたでも使おうと思えば使えるのです。」という言葉を思い出しましたから、
「いや、兼ね兼ね評判はうかがっていましたが、あなたのお使いなさる魔術が、これほど不思議なものだろうとは、実際、思いもよりませんでした。ところで私のような人間にも、使って使えないことのないと言うのは、御冗談ではないのですか。」
「使えますとも。誰にでも造作なく使えます。ただ――」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を眺めながら、いつになく真面目な口調になって、
「ただ、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。」
「出来るつもりです。」
 私はこう答えましたが、何となく不安な気もしたので、すぐにまた後から言葉を添えました。
「魔術さえ教えて頂ければ。」
 それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがにこの上念を押すのは無躾だとでも思ったのでしょう。やがて大様に頷きながら、
「では教えて上げましょう。が、いくら造作なく使えると言っても、習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊りなさい。」
「どうもいろいろ恐れ入ります。」
 私は魔術を教えて貰う嬉しさに、何度もミスラ君へ御礼を言いました。が、ミスラ君はそんなことに頓着する気色もなく、静に椅子から立上ると、
「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ。」
 私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。

       ×          ×          ×



冒頭で芥川は、“マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。”と書いていますが、これは、マティラム・ミスラが大正6(1917)年に、谷崎潤一郎が発表した 『ハッサン・カンの妖術』という短編の登場人物であることを意味しています。
でも、なぜ芥川は、ミスラ君に、に魔術を見せ、その上、魔術を教えようとさせたのでしょうか。



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催眠術・・・・なんて魅力的な響きなのでしょうか。他人の心と体を思い通りに自由自在に操ることができる神秘の魔法。この力さえ手に入れれば、大好きなあの娘の心も思いのまま・・さあっ!あなたも催眠術で思いっきり遊んじゃいませんか? ...

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Author:kinkun
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