2011/04/24 21:43:09
実家のツツジが咲き始めていました。
実家の庭のヒラドツツジが咲き始めていました。
やはり昨年より1週間ほど遅いようです。

季節は確実に初夏に移ろうとしています。
百両の 石にもまけぬ つつじ哉 (一茶)
ちなみに、藤と同様に(2011年4月18日の日記参照)、ツツジも春の季語だそうです。
実家の庭のヒラドツツジが咲き始めていました。
やはり昨年より1週間ほど遅いようです。

季節は確実に初夏に移ろうとしています。
百両の 石にもまけぬ つつじ哉 (一茶)
ちなみに、藤と同様に(2011年4月18日の日記参照)、ツツジも春の季語だそうです。
スポンサーサイト
2011/04/16 21:50:09
今日の謡の稽古は、『源氏供養』の1回目。
今日から謡の稽古は、『源氏供養』になりました。
今日の場面は、石山寺の観世音を信じ、たびたび参詣している安居院の法院が、ある日参詣の道で一人の女性に出会う場面です。
※『源氏供養』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/genjikuyo.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ワキ、ワキツレ二人「衣も同じ苔の道。衣も同じ苔のみち。石山寺に.参らん。
ワキ「これは安居院の法印にて候。われ石山を信じ。常に歩みを運び候。
今日もまた参らばやと思い候。
ワキ、ワキツレ「時も名も花の都を.立ちいでて。
ワキツレ「花の都を立ちいでて。
ワキ、ワキツレ「あらしにつるる夕波の。白河表おもて.すぎゆけば。
音羽の滝をよそに見て。関のこなたの朝霞。されども残る有明の。
影もあなたに鳰の海。げに面白きけしきかな.げに面白き.景色かな。
連波や.志賀唐崎の一つ松。塩焼かねども浦の浪。たつこそ水の煙なれ。
立つこそ水の煙なれ。
シテ「のう法印に申すべき.事の候。
ワキ「法印とはこなたの事にて候か何事にて候ぞ。
今日の謡は、道行の場面が中心でした。たころどころ難しい箇所があったので、しっかり復習しようと思います。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』のおさらいをした後、『山姥』のクセの稽古を始めました。
※『山姥』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yamanba.htm(名古屋春栄会のサイトから)
シテ「そもそも山姥は。
地謡「生所も知らず宿もなく。ただ雲水を便りにて.至らぬ山の奥もなし。
シテ「しかれば人間にあらずとて。
地謡「隔つる雲の身を変え。かりに自性を変化して。
一念化生の鬼女となって。目前に来れども。邪正一如と見る時は。
色即是空そのままに。仏法あれば世法あり.煩悩あれば菩提あり。。
詞章に合わせて舞うようにとの指導を受けました。
クセの仕舞の稽古をするのは、『東北』のクセ以来なので、約3年半ぶりとなります(2007年11月10日の日記参照)。
『山姥』のクセは二段グセで長い仕舞なので、しっかり型を覚えようと思っています。
今日から謡の稽古は、『源氏供養』になりました。
今日の場面は、石山寺の観世音を信じ、たびたび参詣している安居院の法院が、ある日参詣の道で一人の女性に出会う場面です。
※『源氏供養』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/genjikuyo.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ワキ、ワキツレ二人「衣も同じ苔の道。衣も同じ苔のみち。石山寺に.参らん。
ワキ「これは安居院の法印にて候。われ石山を信じ。常に歩みを運び候。
今日もまた参らばやと思い候。
ワキ、ワキツレ「時も名も花の都を.立ちいでて。
ワキツレ「花の都を立ちいでて。
ワキ、ワキツレ「あらしにつるる夕波の。白河表おもて.すぎゆけば。
音羽の滝をよそに見て。関のこなたの朝霞。されども残る有明の。
影もあなたに鳰の海。げに面白きけしきかな.げに面白き.景色かな。
連波や.志賀唐崎の一つ松。塩焼かねども浦の浪。たつこそ水の煙なれ。
立つこそ水の煙なれ。
シテ「のう法印に申すべき.事の候。
ワキ「法印とはこなたの事にて候か何事にて候ぞ。
今日の謡は、道行の場面が中心でした。たころどころ難しい箇所があったので、しっかり復習しようと思います。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』のおさらいをした後、『山姥』のクセの稽古を始めました。
※『山姥』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yamanba.htm(名古屋春栄会のサイトから)
シテ「そもそも山姥は。
地謡「生所も知らず宿もなく。ただ雲水を便りにて.至らぬ山の奥もなし。
シテ「しかれば人間にあらずとて。
地謡「隔つる雲の身を変え。かりに自性を変化して。
一念化生の鬼女となって。目前に来れども。邪正一如と見る時は。
色即是空そのままに。仏法あれば世法あり.煩悩あれば菩提あり。。
詞章に合わせて舞うようにとの指導を受けました。
クセの仕舞の稽古をするのは、『東北』のクセ以来なので、約3年半ぶりとなります(2007年11月10日の日記参照)。
『山姥』のクセは二段グセで長い仕舞なので、しっかり型を覚えようと思っています。
2011/04/15 22:37:15
陸前高田市に行ってきました。
被災地の学校施設の再建を支援するために、職場から1名を岩手県の陸前高田市に派遣することになり、現地の様子や現地での業務内容を確認するために、昨日まで(2011年4月12日~14日)、陸前高田市を訪問しました。
現地では、高台にあったため津波の被害を免れた学校給食センターが災害対策本部になっていました。
災害対策本部の入り口には、自衛隊が設置した広報板が設置してあり、自衛隊や警察、市役所の活動が紹介されていました。


[2011年4月13日(水)撮影]
国の名勝にも指定され、景勝地として有名だった高田松原の約7万本の松が津波でなぎ倒された中、奇跡的にたった1本だけ無事だった松が、陸前高田の復興のシンボルとなっていました。

[2011年4月13日(水)撮影]
震災から1か月が経ち、現地はようやく緊急避難から復旧・復興に一歩踏み出したところだと感じました。
そして、本格的な復興への支援がこれから必要になると痛感しました。
現地の様子を職場のみんなに伝えると共に、今回の経験を踏まえ、私ができることを考えたいと思っています。
(津波による被害状況も視察しましたが、いろいろ考えた結果、被災地の写真は掲載しないことにしましたので、ご了承ください。)
被災地の学校施設の再建を支援するために、職場から1名を岩手県の陸前高田市に派遣することになり、現地の様子や現地での業務内容を確認するために、昨日まで(2011年4月12日~14日)、陸前高田市を訪問しました。
現地では、高台にあったため津波の被害を免れた学校給食センターが災害対策本部になっていました。
災害対策本部の入り口には、自衛隊が設置した広報板が設置してあり、自衛隊や警察、市役所の活動が紹介されていました。


[2011年4月13日(水)撮影]
国の名勝にも指定され、景勝地として有名だった高田松原の約7万本の松が津波でなぎ倒された中、奇跡的にたった1本だけ無事だった松が、陸前高田の復興のシンボルとなっていました。

[2011年4月13日(水)撮影]
震災から1か月が経ち、現地はようやく緊急避難から復旧・復興に一歩踏み出したところだと感じました。
そして、本格的な復興への支援がこれから必要になると痛感しました。
現地の様子を職場のみんなに伝えると共に、今回の経験を踏まえ、私ができることを考えたいと思っています。
(津波による被害状況も視察しましたが、いろいろ考えた結果、被災地の写真は掲載しないことにしましたので、ご了承ください。)
2011/04/09 22:47:52
隼人池公園で花見をしました。
今年も、恒例の友人との花見を隼人池公園(名古屋市昭和区)で行いました。
隼人池の周囲には桜の木が植えられており、その東岸が公園になっています。
今年の名古屋の桜は、一昨日先週の水曜日(2011年4月6日)に満開となりました。
ほぼ平年(4月5日)並みだったとのことです。
今年は3月がかなり寒かったわりには、開花宣言(2011年3月27日、平年は3月26日)同様、桜は平年並みだったことになります。
隼人池公園の桜は散り始めでしたが、午前中、雨が降っていたせいかあまり人はいませんでした。
ただ、午後3時ごろから午前中の雨が嘘のような晴天になり、暖かな午後となりました。

〔隼人池公園から見た隼人池西岸〕

〔隼人池公園の桜〕
気のおけない友人たちとの花見を隼人池公園でするようになってもう10年近く経ちました。
できるだけ長く続けていてたらいいと思っています。
今年も、恒例の友人との花見を隼人池公園(名古屋市昭和区)で行いました。
隼人池の周囲には桜の木が植えられており、その東岸が公園になっています。
今年の名古屋の桜は、一昨日先週の水曜日(2011年4月6日)に満開となりました。
ほぼ平年(4月5日)並みだったとのことです。
今年は3月がかなり寒かったわりには、開花宣言(2011年3月27日、平年は3月26日)同様、桜は平年並みだったことになります。
隼人池公園の桜は散り始めでしたが、午前中、雨が降っていたせいかあまり人はいませんでした。
ただ、午後3時ごろから午前中の雨が嘘のような晴天になり、暖かな午後となりました。

〔隼人池公園から見た隼人池西岸〕

〔隼人池公園の桜〕
気のおけない友人たちとの花見を隼人池公園でするようになってもう10年近く経ちました。
できるだけ長く続けていてたらいいと思っています。
2011/04/08 22:36:26
最後は語り手の感想です。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する5回目、今日で最後となります。
ここまでオルガンティノが南蛮寺の庭にいる場面とオルガンティノが幻を見る場面が繰り返されてきましたが、最後は一転して、語り手の視線から感想が書かれます。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔5〕
南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連!
この場面では、時間的にも場所的にもオルガンティノとは全く異なる語り手の思いが語られます。
この語り手は、物語の世界よりも一段高い場所におり、いわば天の視点(神の視点)とも言える場所にいます。
この場面では、オルガンティノは既に南蛮図屏風の中の人物になってしまっています。
にもかかわらず、“泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――”というように、まだキリスト教が日本化してしまうのかどうかの結論が出ていません。
芥川は、オルガンティノの時代の後、200年以上にわたりキリスト教が禁止されていたので、その結論はまだ出ていないと考えているのだと思います。
さて、芥川がこの小説を書いてから、まもなく90年が過ぎようとしています。
わが国では、クリスマスに代表されるキリスト教の文化は日本化して受容されましたが、キリスト教の信者は人口の1%程度にとどまっています。
勝負は明らかになったようです。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する5回目、今日で最後となります。
ここまでオルガンティノが南蛮寺の庭にいる場面とオルガンティノが幻を見る場面が繰り返されてきましたが、最後は一転して、語り手の視線から感想が書かれます。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔5〕
南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光の漂った、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連!
この場面では、時間的にも場所的にもオルガンティノとは全く異なる語り手の思いが語られます。
この語り手は、物語の世界よりも一段高い場所におり、いわば天の視点(神の視点)とも言える場所にいます。
この場面では、オルガンティノは既に南蛮図屏風の中の人物になってしまっています。
にもかかわらず、“泥烏須が勝つか、大日孁貴が勝つか――”というように、まだキリスト教が日本化してしまうのかどうかの結論が出ていません。
芥川は、オルガンティノの時代の後、200年以上にわたりキリスト教が禁止されていたので、その結論はまだ出ていないと考えているのだと思います。
さて、芥川がこの小説を書いてから、まもなく90年が過ぎようとしています。
わが国では、クリスマスに代表されるキリスト教の文化は日本化して受容されましたが、キリスト教の信者は人口の1%程度にとどまっています。
勝負は明らかになったようです。
2011/04/07 21:39:40
オルガンティノは再び幻を見ます。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する4回目です。
日本に伝来した宗教は、仏教も儒教もことごとく日本化したものに変容してしまい、本来の姿を失ってしまうので、キリスト教も同じ運命をたどるという老人の主張は、芥川自身の意見を反映していると思います。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔4〕
オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径を挟んだ篠懸の若葉に、うっすりと漂っているだけだった。
「御主。守らせ給え!」
彼はこう呟いてから、徐ろに頭をもとへ返した。と、彼の傍には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐ろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
老人は微笑を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間、御話しするために出て来たのです。」
オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄の炎に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。」
オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須は全能の御主だから、泥烏須に、――」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀な口調を使い出した。
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須ばかりではありません。孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿の本の人麻呂と云う詩人があります。その男の作った七夕の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽くまでも彦星と棚機津女とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟と云う文字がはいった後も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ褚遂良でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹きは潮風のように、老儒の道さえも和げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子の著書は、我々の怒に触れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆ると信じています。科戸の神はまだ一度も、そんな悪戯はしていません。が、そう云う信仰の中にも、この国に住んでいる我々の力は、朧げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎い彼には、折角の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後に来たのは、印度の王子悉達多です。――」
老人は言葉を続けながら、径ばたの薔薇の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日孁貴は大日如来と同じものだと思わせました。これは大日孁貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日孁貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中には、印度仏の面影よりも、大日孁貴が窺われはしないでしょうか? 私は親鸞や日蓮と一しょに、沙羅双樹の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰した仏は、円光のある黒人ではありません。優しい威厳に充ち満ちた上宮太子などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、――」
オルガンティノは口を挟んだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」
「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
「しかし泥烏須は勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私はつい四五日前、西国の海辺に上陸した、希臘の船乗りに遇いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕にする女神の話だの、声の美しい人魚の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇った時から、この国の土人に変りました。今では百合若と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須も必ず勝つとは云われません。天主教はいくら弘まっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
×××
パンは、ギリシア神話の羊飼いと羊の群れを監視する半人半獣の神で、日本語では牧羊神とも呼ばれています。
また、ギリシアの歴史家・プルタルコスの「神託の堕落」の記述によれば、パンはギリシアの神々の中で唯一死んだとされています。
“百合若”についての記述は、坪内逍遙が発表した、古代ギリシアの詩人・ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」が室町時代に日本に伝えられて翻案されたものが「百合若大臣」であるとの説に基づいているものの思われます。
ただし、この説は現在では否定されています。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する4回目です。
日本に伝来した宗教は、仏教も儒教もことごとく日本化したものに変容してしまい、本来の姿を失ってしまうので、キリスト教も同じ運命をたどるという老人の主張は、芥川自身の意見を反映していると思います。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔4〕
オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径を挟んだ篠懸の若葉に、うっすりと漂っているだけだった。
「御主。守らせ給え!」
彼はこう呟いてから、徐ろに頭をもとへ返した。と、彼の傍には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐ろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
老人は微笑を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間、御話しするために出て来たのです。」
オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄の炎に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。」
オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須は全能の御主だから、泥烏須に、――」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀な口調を使い出した。
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須ばかりではありません。孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿の本の人麻呂と云う詩人があります。その男の作った七夕の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽くまでも彦星と棚機津女とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟と云う文字がはいった後も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ褚遂良でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹きは潮風のように、老儒の道さえも和げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子の著書は、我々の怒に触れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆ると信じています。科戸の神はまだ一度も、そんな悪戯はしていません。が、そう云う信仰の中にも、この国に住んでいる我々の力は、朧げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎い彼には、折角の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後に来たのは、印度の王子悉達多です。――」
老人は言葉を続けながら、径ばたの薔薇の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日孁貴は大日如来と同じものだと思わせました。これは大日孁貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日孁貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中には、印度仏の面影よりも、大日孁貴が窺われはしないでしょうか? 私は親鸞や日蓮と一しょに、沙羅双樹の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰した仏は、円光のある黒人ではありません。優しい威厳に充ち満ちた上宮太子などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前さんはそう云われるが、――」
オルガンティノは口を挟んだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教に帰依しましたよ。」
「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
「しかし泥烏須は勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私はつい四五日前、西国の海辺に上陸した、希臘の船乗りに遇いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕にする女神の話だの、声の美しい人魚の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇った時から、この国の土人に変りました。今では百合若と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須も必ず勝つとは云われません。天主教はいくら弘まっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
×××
パンは、ギリシア神話の羊飼いと羊の群れを監視する半人半獣の神で、日本語では牧羊神とも呼ばれています。
また、ギリシアの歴史家・プルタルコスの「神託の堕落」の記述によれば、パンはギリシアの神々の中で唯一死んだとされています。
“百合若”についての記述は、坪内逍遙が発表した、古代ギリシアの詩人・ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」が室町時代に日本に伝えられて翻案されたものが「百合若大臣」であるとの説に基づいているものの思われます。
ただし、この説は現在では否定されています。
2011/04/06 20:07:09
オルガンティノは上機嫌です。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する3回目です。
白昼夢を見た翌日の夕方、オルガンティノは再び南蛮寺の庭を歩いていますが、新しい信者が入信したこともあり、オルガンティノは上機嫌です。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔3〕
オルガンティノは翌日の夕も、南蛮寺の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日の内に、日本の侍が三四人、奉教人の列にはいったからだった。
庭の橄欖や月桂は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾されるのは、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空の羽音よりほかはなかった。薔薇の匂、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子の美しきを見て、」妻を求めに降って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢らわしい日本の霊の力も、勝利を占める事はむずかしいと見える。しかし昨夜見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主の御寺が建てられるであろう。」
オルガンティノは、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi‐Soldo Organtino)〔1533年~1609年〕のことで、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイエズス会のイタリア人宣教師です。
明るい人柄で、多くの日本人に慕われるとともに、織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者にも知己を得ています。
1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる“南蛮寺”を完成させ、1580年には安土で織田信長に与えられた土地にセミナリヨを建て、自らこのセミナリヨの院長となります。
しかし、このセミナリヨは1582年に本能寺の変後の混乱の中で放棄され、京都の南蛮寺も1587年に秀吉による最初の禁教令が出された際に打ち壊されます。
その後、1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らといっしょに秀吉に拝謁して、再び京都に住むことを許されますが、再度の禁教令で京都を離れ、1609年に長崎で亡くなりました。76歳でした。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』を紹介する3回目です。
白昼夢を見た翌日の夕方、オルガンティノは再び南蛮寺の庭を歩いていますが、新しい信者が入信したこともあり、オルガンティノは上機嫌です。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔3〕
オルガンティノは翌日の夕も、南蛮寺の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日の内に、日本の侍が三四人、奉教人の列にはいったからだった。
庭の橄欖や月桂は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾されるのは、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空の羽音よりほかはなかった。薔薇の匂、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子の美しきを見て、」妻を求めに降って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢らわしい日本の霊の力も、勝利を占める事はむずかしいと見える。しかし昨夜見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主の御寺が建てられるであろう。」
オルガンティノは、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi‐Soldo Organtino)〔1533年~1609年〕のことで、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイエズス会のイタリア人宣教師です。
明るい人柄で、多くの日本人に慕われるとともに、織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者にも知己を得ています。
1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる“南蛮寺”を完成させ、1580年には安土で織田信長に与えられた土地にセミナリヨを建て、自らこのセミナリヨの院長となります。
しかし、このセミナリヨは1582年に本能寺の変後の混乱の中で放棄され、京都の南蛮寺も1587年に秀吉による最初の禁教令が出された際に打ち壊されます。
その後、1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らといっしょに秀吉に拝謁して、再び京都に住むことを許されますが、再度の禁教令で京都を離れ、1609年に長崎で亡くなりました。76歳でした。
2011/04/05 21:30:14
オルガンティノは白昼夢を見ます。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』の2回目です。
今日の場面には、記紀神話の天の岩戸説話が登場しています。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔2〕
三十分の後、彼は南蛮寺の内陣に、泥烏須へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼り立った悪魔さえも、今夜は朧げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々しい薔薇や金雀花が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無大慈大悲の泥烏須如来! 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。そうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来! 邪宗に惑溺した日本人は波羅葦増(天界)の荘厳を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私は使命を果すためには、この国の山川に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海の底に、埃及の軍勢を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及の軍勢に劣りますまい。どうか古の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後には、白々と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨をつくっているではないか?
オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足踏み出したと思うと、「御主」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠の海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力か何かに挟まれたように、一寸とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣の中には、榾火の明りに似た赤光が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
人影は見る間に鮮かになった。それはいずれも見慣れない、素朴な男女の一群だった。彼等は皆頸のまわりに、緒にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画を描いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
日本の Bacchanalia は、呆気にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼のように漂って来た。彼は赤い篝の火影に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞しい男が一人、根こぎにしたらしい榊の枝に、玉だの鏡だのが下ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根や鶏冠をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露わにした胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群が、一斉に鬨をつくったと思うと、向うに夜霧を堰き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐ろに左右へ開き出した。そうしてその裂け目からは、言句に絶した万道の霞光が、洪水のように漲り出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢の男女の歓喜する声が、澎湃と天に昇るのを聞いた。
「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」
そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
その夜も三更に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音も聞えない内陣には、円天井のランプの光が、さっきの通り朦朧と壁画を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻き呻き、そろそろ祭壇の後を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須でない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語を洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
するとその時彼の耳に、こう云う囁きを送るものがあった。
「負けですよ!」
オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透かして見た。が、そこには不相変、仄暗い薔薇や金雀花のほかに、人影らしいものも見えなかった。
×××
この場面では、オルガンティノの見た白昼夢としか思えない出来事が描かれています。
そして、その夢の中の話に記紀神話の天の岩戸説話の場面がありますが、その場面で天照大神は、別名の大日孁貴〔おおひるめむち〕として登場しています。
これは、この小説の発表当時、皇祖神である天照大神を小説に登場させることが憚られたからと言われています。
夢から覚める直前に、オルガンティノが聞いた“「負けですよ!」”という囁きは、オルガンティノ自身の心の声だったのでしょうか。
なお、“Bacchanalia”はローマ神話の神・バッカスを称える酒宴の踊りのことで、フランス語読みのバッカナール、あるいはイタリア語読みのバッカナーレと表記されるのが一般的です。
サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』の中のバレエ音楽「バッカナール」が有名です。
今日は、芥川龍之介の『神神の微笑』の2回目です。
今日の場面には、記紀神話の天の岩戸説話が登場しています。
『神神の微笑』(芥川龍之介)〔2〕
三十分の後、彼は南蛮寺の内陣に、泥烏須へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼り立った悪魔さえも、今夜は朧げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々しい薔薇や金雀花が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無大慈大悲の泥烏須如来! 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。そうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来! 邪宗に惑溺した日本人は波羅葦増(天界)の荘厳を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私は使命を果すためには、この国の山川に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海の底に、埃及の軍勢を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及の軍勢に劣りますまい。どうか古の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後には、白々と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨をつくっているではないか?
オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足踏み出したと思うと、「御主」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠の海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力か何かに挟まれたように、一寸とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣の中には、榾火の明りに似た赤光が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
人影は見る間に鮮かになった。それはいずれも見慣れない、素朴な男女の一群だった。彼等は皆頸のまわりに、緒にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画を描いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
日本の Bacchanalia は、呆気にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼のように漂って来た。彼は赤い篝の火影に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞しい男が一人、根こぎにしたらしい榊の枝に、玉だの鏡だのが下ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根や鶏冠をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露わにした胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群が、一斉に鬨をつくったと思うと、向うに夜霧を堰き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐ろに左右へ開き出した。そうしてその裂け目からは、言句に絶した万道の霞光が、洪水のように漲り出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢の男女の歓喜する声が、澎湃と天に昇るのを聞いた。
「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」
そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
その夜も三更に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音も聞えない内陣には、円天井のランプの光が、さっきの通り朦朧と壁画を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻き呻き、そろそろ祭壇の後を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須でない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語を洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
するとその時彼の耳に、こう云う囁きを送るものがあった。
「負けですよ!」
オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透かして見た。が、そこには不相変、仄暗い薔薇や金雀花のほかに、人影らしいものも見えなかった。
×××
この場面では、オルガンティノの見た白昼夢としか思えない出来事が描かれています。
そして、その夢の中の話に記紀神話の天の岩戸説話の場面がありますが、その場面で天照大神は、別名の大日孁貴〔おおひるめむち〕として登場しています。
これは、この小説の発表当時、皇祖神である天照大神を小説に登場させることが憚られたからと言われています。
夢から覚める直前に、オルガンティノが聞いた“「負けですよ!」”という囁きは、オルガンティノ自身の心の声だったのでしょうか。
なお、“Bacchanalia”はローマ神話の神・バッカスを称える酒宴の踊りのことで、フランス語読みのバッカナール、あるいはイタリア語読みのバッカナーレと表記されるのが一般的です。
サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』の中のバレエ音楽「バッカナール」が有名です。