- 2011/03/30 大震雑記 六
- 2011/03/29 大震に際せる感想
- 2011/03/28 レンギョウの花(2011年)
- 2011/03/27 ヒマラヤユキノシタ
- 2011/03/26 舎利(5)
- 2011/03/25 名古屋市美術館 常設展「名品コレクション展Ⅲ(後期)」
- 2011/03/24 名古屋市美術館 常設企画展「ポジション2011 米山和子展」
- 2011/03/23 名古屋市美術館 特別展「ゴッホ展」
- 2011/03/22 名古屋ボストン美術館 「響きあううつわ」
- 2011/03/21 満開の枝垂れ梅(2011年)
- 2011/03/20 お彼岸(2011年春)
- 2011/03/19 舎利(4)
2011/03/30 21:35:37
「芸術は生活の過剰ださうである」
「人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である」
「僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ」
芥川龍之介の芸術観を示す言葉と知られるこれらの言葉は、実は芥川が関東大震災後の東京の都心を歩いている文章に登場するものです。
今日は、昨日(2011年3月29日の日記参照)に続き、芥川龍之介の『大正十二年九月一日の大震に際して』からその文章を紹介します。
『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介)
一 大震雑記
六
僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研なりに石垣の崩れた処がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は青芝の上に不相変松をうねらせてゐる。其処にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。
僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだつた。
芥川は震災からの復興にあたって、芸術も“人間を人間たらしめる”ものとして必要なものの一つだと考えていたことがわかります。
そして、被災しなかった者(実際は、芥川自身も被害は少なかったものの被災者の一人ですが)として、その本業に専念する決意の表明でもあるような気がします。
私も、復興にあたっては“生活の過剰”も必要なものだと思っています。
「人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である」
「僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ」
芥川龍之介の芸術観を示す言葉と知られるこれらの言葉は、実は芥川が関東大震災後の東京の都心を歩いている文章に登場するものです。
今日は、昨日(2011年3月29日の日記参照)に続き、芥川龍之介の『大正十二年九月一日の大震に際して』からその文章を紹介します。
『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介)
一 大震雑記
六
僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研なりに石垣の崩れた処がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は青芝の上に不相変松をうねらせてゐる。其処にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。
僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだつた。
芥川は震災からの復興にあたって、芸術も“人間を人間たらしめる”ものとして必要なものの一つだと考えていたことがわかります。
そして、被災しなかった者(実際は、芥川自身も被害は少なかったものの被災者の一人ですが)として、その本業に専念する決意の表明でもあるような気がします。
私も、復興にあたっては“生活の過剰”も必要なものだと思っています。
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2011/03/29 23:33:57
震災は決して天罰ではありません。
今回の大震災を“天罰”と呼び、謝罪と撤回に追い込まれた人もいましたが、88年前(1923年9月1日)の関東大震災の後も渋沢栄一などが“天譴論”を主張しました。
天譴とは天の譴責、すなわち天罰のことです。
この“天譴論”はかなりの勢いで社会に広まり、震災後の社会に大きな影響を与えました。
これに対し、自らも田端の自宅で被災した芥川龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』の中の「三 大震に際せる感想」で次のように“天譴論”を批判しました。
この文章は、現代にも通じる名文だと思いますので、今日はこの文章を紹介します。
『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介)
三 大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿れ。
この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と溌皮とを分たず。自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食ひしやも知るべからず。
日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹いては一切人間を禽獣と選ぶことなしと云ふは、畢竟意気地なきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す所以は、渋沢子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。
大正デモクラシーに代表される大正期の社会にあった自由な気運は、関東大震災の物理的被害によってではなく、震災後の天譴論による抑圧的な社会風潮によって終わったのだと思います。
そして、現在もまた、イベントなどに対する過剰ともいえる自粛ムードなど、関東大震災後の社会風潮を思わせる状況が起きつつあるように感じます。
芥川の『我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。……否定的精神の奴隷となること勿れ。』という言葉を噛みしめています。
今回の大震災を“天罰”と呼び、謝罪と撤回に追い込まれた人もいましたが、88年前(1923年9月1日)の関東大震災の後も渋沢栄一などが“天譴論”を主張しました。
天譴とは天の譴責、すなわち天罰のことです。
この“天譴論”はかなりの勢いで社会に広まり、震災後の社会に大きな影響を与えました。
これに対し、自らも田端の自宅で被災した芥川龍之介は『大正十二年九月一日の大震に際して』の中の「三 大震に際せる感想」で次のように“天譴論”を批判しました。
この文章は、現代にも通じる名文だと思いますので、今日はこの文章を紹介します。
『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介)
三 大震に際せる感想
地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿れ。
この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、――当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。
自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と溌皮とを分たず。自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食ひしやも知るべからず。
日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨は恐るべし。されど鶴と家鴨とを――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、――惹いては一切人間を禽獣と選ぶことなしと云ふは、畢竟意気地なきセンテイメンタリズムのみ。
自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。
誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す所以は、渋沢子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。
大正デモクラシーに代表される大正期の社会にあった自由な気運は、関東大震災の物理的被害によってではなく、震災後の天譴論による抑圧的な社会風潮によって終わったのだと思います。
そして、現在もまた、イベントなどに対する過剰ともいえる自粛ムードなど、関東大震災後の社会風潮を思わせる状況が起きつつあるように感じます。
芥川の『我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。……否定的精神の奴隷となること勿れ。』という言葉を噛みしめています。
2011/03/26 19:11:00
今日の謡の稽古は、『舎利』の5回目。
今日の謡の稽古は、『舎利』の5回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関の韋駄天が現れて足疾鬼を追い詰め、仏舎利を取り返す場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ツレ「そもそもこれは。この寺を守護し奉る。韋駄天とはわがことなり。
ここに足疾鬼といえる外道。昔の執心のこって。またこの舎利を取ってゆく。
いづくまでかは遁すべき。その牙舎利置いてゆけ。
シテ「いや叶うまじとよこの仏舎利は。誰も望みの。あるものを。
地謡「欲界色界無色界。
<舞働>
地謡「欲界色界無色界。化天夜摩天他化自在天。三十三天よぢ登りて。
帝釈天まで追いあぐれば。梵王天より出であい給いて。
もとの下界に。追っ下す。もとの下界に追っ下す。
シテ「左へ行くも。右えゆくも。
地謡「前後も天地もふさがりて。疾鬼は虚空にくるくるくると。
渦まいめぐるを韋駄天立ちより宝棒にて。疾鬼を大地に打ち伏せて。
首を踏まえて牙舎利はいかに。出せや出せと責められて。
泣く泣く舎利をさしあげければ。韋駄天舎利を取り給えば。
さばかり今までは足疾き鬼の。いつしか今は。足弱車の力もつき。
心も茫々と.起きあがりてこそ.失せにけれ。
今日の稽古は、後場全てでした。
今日の箇所にも、あまり得意ではない速い謡が多かったので、少し難しかったです。
今日の稽古で『舎利』は終了しました。
次回からの謡の稽古は、『源氏供養』の予定です。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』の通しの稽古の3回目でした。
今日は、速い動作のときの重心移動について指導を受けました。
じっくりたところと速いところのメリハリをつけて舞えるようにしたいと思っています。
今日の謡の稽古は、『舎利』の5回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関の韋駄天が現れて足疾鬼を追い詰め、仏舎利を取り返す場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ツレ「そもそもこれは。この寺を守護し奉る。韋駄天とはわがことなり。
ここに足疾鬼といえる外道。昔の執心のこって。またこの舎利を取ってゆく。
いづくまでかは遁すべき。その牙舎利置いてゆけ。
シテ「いや叶うまじとよこの仏舎利は。誰も望みの。あるものを。
地謡「欲界色界無色界。
<舞働>
地謡「欲界色界無色界。化天夜摩天他化自在天。三十三天よぢ登りて。
帝釈天まで追いあぐれば。梵王天より出であい給いて。
もとの下界に。追っ下す。もとの下界に追っ下す。
シテ「左へ行くも。右えゆくも。
地謡「前後も天地もふさがりて。疾鬼は虚空にくるくるくると。
渦まいめぐるを韋駄天立ちより宝棒にて。疾鬼を大地に打ち伏せて。
首を踏まえて牙舎利はいかに。出せや出せと責められて。
泣く泣く舎利をさしあげければ。韋駄天舎利を取り給えば。
さばかり今までは足疾き鬼の。いつしか今は。足弱車の力もつき。
心も茫々と.起きあがりてこそ.失せにけれ。
今日の稽古は、後場全てでした。
今日の箇所にも、あまり得意ではない速い謡が多かったので、少し難しかったです。
今日の稽古で『舎利』は終了しました。
次回からの謡の稽古は、『源氏供養』の予定です。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』の通しの稽古の3回目でした。
今日は、速い動作のときの重心移動について指導を受けました。
じっくりたところと速いところのメリハリをつけて舞えるようにしたいと思っています。
2011/03/25 20:51:07
「名品コレクション展Ⅲ(後期)」を見ました。
先週の土曜日(2011年3月19日)に名古屋市美術館に行きました〔2011年3月23日の日記参照〕が、常設展示室1と常設展示室2では常設展「名品コレクション展Ⅲ」の後期〔2011年2月8日(火)~4月10日(日)〕が開催中でした。
この「名品コレクション展Ⅲ」の後期では、主に常設展示室1の“現代の美術”と常設展示室2の“郷土の美術”が前期(2011年2月1日の日記参照)から展示替えになっていました。
※名古屋市美術館のサイトの常設展「名品コレクション展Ⅲ」のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/josetsu/index.html
“現代の美術”では、芥川(間所)沙織の布の作品『古事記より』が印象に残りました。
先鋭的なデザインで雄大なこの作品は他を圧倒していました。
私は彼女のことは、2年ほど前にNHK「新日曜日美術館」のアートシーンで横須賀美術館での「芥川沙織展」の紹介で初めて知りましたが、名古屋市美術館も作品を所蔵していることは知りませんでした。
芥川沙織は、東京音楽学校在学中に知り合った芥川也寸志との結婚後、絵を始めたとのことです。
この作品を作成した翌年の1958年、芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消し、その後、建築家の間所幸雄と再婚し、2年後には渡米します。
帰国後は硬質な抽象画に劇的な変化をとげたそうですが、1966年1月に42歳の若さで亡くなりました。
“郷土の美術”は、副題が“線描を楽しむ-浅野弥衛を中心に-”とあるように、浅野弥衛の作品が中心の展示でした。
ここで一番印象に残ったのは、画面に動きの感じられる鬼頭鍋三郎の『鼓 その恵』です。
いつものことながら、常設展示室はあまり人がいませんでした。
名古屋市美術館のある白川公園では、水仙も満開でした。

[2011年3月19日(土)撮影]
水仙の後、木々の間に見えるのはドイツの彫刻家、ホルスト・アンテスの『名古屋のための5つの人体』という作品です。
先週の土曜日(2011年3月19日)に名古屋市美術館に行きました〔2011年3月23日の日記参照〕が、常設展示室1と常設展示室2では常設展「名品コレクション展Ⅲ」の後期〔2011年2月8日(火)~4月10日(日)〕が開催中でした。
この「名品コレクション展Ⅲ」の後期では、主に常設展示室1の“現代の美術”と常設展示室2の“郷土の美術”が前期(2011年2月1日の日記参照)から展示替えになっていました。
※名古屋市美術館のサイトの常設展「名品コレクション展Ⅲ」のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/josetsu/index.html
“現代の美術”では、芥川(間所)沙織の布の作品『古事記より』が印象に残りました。
先鋭的なデザインで雄大なこの作品は他を圧倒していました。
私は彼女のことは、2年ほど前にNHK「新日曜日美術館」のアートシーンで横須賀美術館での「芥川沙織展」の紹介で初めて知りましたが、名古屋市美術館も作品を所蔵していることは知りませんでした。
芥川沙織は、東京音楽学校在学中に知り合った芥川也寸志との結婚後、絵を始めたとのことです。
この作品を作成した翌年の1958年、芥川也寸志との11年におよぶ結婚生活を解消し、その後、建築家の間所幸雄と再婚し、2年後には渡米します。
帰国後は硬質な抽象画に劇的な変化をとげたそうですが、1966年1月に42歳の若さで亡くなりました。
“郷土の美術”は、副題が“線描を楽しむ-浅野弥衛を中心に-”とあるように、浅野弥衛の作品が中心の展示でした。
ここで一番印象に残ったのは、画面に動きの感じられる鬼頭鍋三郎の『鼓 その恵』です。
いつものことながら、常設展示室はあまり人がいませんでした。
名古屋市美術館のある白川公園では、水仙も満開でした。

[2011年3月19日(土)撮影]
水仙の後、木々の間に見えるのはドイツの彫刻家、ホルスト・アンテスの『名古屋のための5つの人体』という作品です。
2011/03/24 20:16:18
地下の一室に異空間がありました。
先週の土曜日(2011年3月19日)に名古屋市美術館に行きました〔2011年3月23日の日記参照〕が、常設展示室3では常設企画展「ポジション2011 米山和子展」〔2011年2月19日(土)~4月10日(日)〕が開催中でした。
この展覧会は、名古屋市美術館がこの地方で活躍する作家たちを紹介する企画の第1弾とのことです。
※名古屋市美術館のサイトの常設企画展「ポジション2011 米山和子展」のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/yoneyama/
副題は“ほどくかたち、つむぐけしき”。
米山和子さんは、和紙や米といった、日本人に馴染みのある素材を使って制作しているそうです。
今回の展覧会では、独特の神秘性を宿した和紙による頭部のない人体像を展示室全体に並べるという空間を生かした展示でした。
光が透けるような淡いクリーム色の和紙の繊細さが、儚げな美しさを醸し出していました。
名古屋市美術館の地下の部屋で展開される米山さんの清浄な世界にお出かけください。
※米山和子さんの公式ホームページ:http://www.hm8.aitai.ne.jp/~yoneyan/
名古屋市美術館のある白川公園の入り口では、菜の花が満開でした。

[2011年3月19日(土)撮影]
先週の土曜日(2011年3月19日)に名古屋市美術館に行きました〔2011年3月23日の日記参照〕が、常設展示室3では常設企画展「ポジション2011 米山和子展」〔2011年2月19日(土)~4月10日(日)〕が開催中でした。
この展覧会は、名古屋市美術館がこの地方で活躍する作家たちを紹介する企画の第1弾とのことです。
※名古屋市美術館のサイトの常設企画展「ポジション2011 米山和子展」のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/yoneyama/
副題は“ほどくかたち、つむぐけしき”。
米山和子さんは、和紙や米といった、日本人に馴染みのある素材を使って制作しているそうです。
今回の展覧会では、独特の神秘性を宿した和紙による頭部のない人体像を展示室全体に並べるという空間を生かした展示でした。
光が透けるような淡いクリーム色の和紙の繊細さが、儚げな美しさを醸し出していました。
名古屋市美術館の地下の部屋で展開される米山さんの清浄な世界にお出かけください。
※米山和子さんの公式ホームページ:http://www.hm8.aitai.ne.jp/~yoneyan/
名古屋市美術館のある白川公園の入り口では、菜の花が満開でした。

[2011年3月19日(土)撮影]
2011/03/23 22:28:10
ゴッホ展を見に行きました。
先週の土曜日(2011年3月19日)の夕方、特別展「没後120年 ゴッホ展」 〔2011年2月22日(火)~2011年4月10日(日)〕を見に名古屋市美術館に出かけました。
※名古屋市美術館のサイトの特別展「没後120年 ゴッホ展」 のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/
※「没後120年 ゴッホ展」 の公式サイト:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/

[2011年3月19日(土)撮影]
この展覧会は、フィンセント・ファン・ゴッホの没後120年を記念して開催されるもので、美術史上に燦然と輝くゴッホの名作の数々をご紹介するだけでなく、ゴッホがいかにしてゴッホとなったのかとの視点から、その創造の秘密に迫るものとのことです。
ゴッホの傑作約70点と、ミレー、モネ、ロートレック、ゴーギャンなど、ゴッホに大きな影響を与えた作家たちの作品約30点と、ゴッホが収集した浮世絵や版画などの資料類約20点との合計約120点の作品でゴッホの芸術の全貌が紹介するものだそうです。
展覧会は6章で構成されていました。
Ⅰ 伝統-ファン・ゴッホに対する最初期の影響
ゴッホが若い頃から親しんだバルビゾン派、フランスの写実主義、オランダのハーグ派などの作品とゴッホの初期の作品『秋のポプラ並木』と最晩年の『曇り空の下の積み藁』が並んで展示してありました。
これは、この初期の影響がゴッホに大きな影響を与え、作風は変わっても、ゴッホの作品には一貫性が潜んでいることを示すものだそうです。
※『秋のポプラ並木』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents01_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
ここでの私のお気に入りは、非常に美しいテオフィール・デ・ボックの『河の景観』です。
Ⅱ 若き芸術家の誕生
ゴッホは基本的には独学で成長した画家で、早くから高名な画家の版画や素描を模写することで腕を磨いたそうです。
ここでは、ゴッホが試したさまざまな素描の技法や彼が集めた雑誌の図版、“パースペクティヴ・フレーム”と呼ばれる遠近法を実践するための道具のレプリカなどが紹介されていました。
ここでは光の描き方がまるで印象派のような『麦わら帽子のある静物』の美しさが圧巻でした。
※『麦わら帽子のある静物』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents02_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
また、私の持っていたゴッホのイメージとはかなり異なる『鶏に餌をやる女』の端正な感じも印象に残りました。
Ⅲ 色彩の理論と人体の研究-ニューネン
ゴッホは、1883年の暮れにニューネンに移住しますが、この頃、ゴッホの素描力は格段に進歩し、次第に油彩に関心を移していったそうです。
さらに、翌年の春になるとドラクロワの色彩理論を学び、それを利用して農婦の頭部や静物を描くようになったとのことです。
ここでは、農婦などをモティーフに描いたゴッホの初期の油彩とゴッホが参照したさまざまな色彩理論の書籍が、影響を受けた他の画家たちの作品とともに紹介されていました。
ここでの白眉は初期の傑作『じゃがいもを食べる人々』でしょう。
私のお気に入りは、ジャガイモが光って見える『籠いっぱいのじゃがいも』です。
この他、今回の目玉展示の一つである『白い帽子を被った女の頭部(ホルディーナ・デ・フロート)』やX線撮影で下に別の絵が書いてあることが分かった『ビールジョッキ』もここに展示されていました。
※『白い帽子を被った女の頭部(ホルディーナ・デ・フロート)』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents03_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
卵が実にリアルに描かれているテオデュール・リボの『卵のある静物』もすばらしかったです。
Ⅳ パリのモダニズム
ゴッホは、1886年3月にパリに移り、フェルナン・コルモンの画塾で絵画の基本を再度学び、次第に明るい色彩を用いるようになったとのことです。
パリで印象派の画家たちと個人的にも親しくなったゴッホは、点描風のタッチを用いたり、薄く溶いた油絵具を使って素描のように見える作品を描くなど、実験的な試みを繰り返しながら次第に独自の様式を確立していくことになったそうです。
ここでは、パリ到着後のゴッホの作風の大きな変化を、クロード・モネやアルフレッド・シスレーなどの印象派の作品やアドルフ=ジョセフ・モンティセリ、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックなどの作品と比較できるような展示でした。
ここには、この展覧会の最大の目玉で、展覧会のポスターにも使われている『灰色のフェルト帽の自画像』が展示されており、この前は大混雑でした。
点描ならぬ棒描のユニークさと見事さには圧倒されました。
※『灰色のフェルト帽の自画像』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/01.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
また、左上部の雲の部分にゴッホの指紋の跡が残る『セーヌの岸辺』も注目を集めていました。
ここでの、私のお気に入りは、ゴッホが摘みたて果物を描き、ゴーギャンが黄色い静物画と呼んだ『マルメロ、レモン、梨、葡萄』です。
※『マルメロ、レモン、梨、葡萄』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/02.jpg(展覧会の公式サイトから)
印象派では、モネの『ヴェトゥイユ』と『ポール=ドモワの洞窟』が展示されていましたが、前者の水面の輝きや後者の海面のさざ波などはさすがに見事な光の表現でした。
※『ヴェトゥイユ』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n07.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
この他、シスレーの『モレのポプラ並木』の引き込まれるような美しさや、浮世絵の影響がみられるギュスターヴ・カイユボットの『バルコニー越しの眺め』のユニークなデザインも印象に残りました。
また、モンティセリの『白いグリフォン犬』のユニークな画面構成も印象的でした。
また非常に構図の似ているロートレックの『テーブルの女(白粉)』とゴッホの『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』が並べて展示してあり、興味深かったです。
さすがにロートレックと並べるとゴッホの絵が野暮ったく感じられてしまいました。
また、『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』の下にもX線撮影により、別の絵があったことがわかっているそうです。
※『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents04_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
※『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』のX線写真:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n12.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
※『テーブルの若い女(白粉)』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n08.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
Ⅴ 真のモダン・アーティスト
ゴッホは、1888年2月に南仏の町アルルに移り住み、パリで出会った印象派などの前衛的な様式と日本の浮世絵から学んだ平坦で強烈な色彩や大胆な構図を融合させ、誰もがゴッホと認める独自の様式に到達します。
また、ゴッホは芸術家たちによる理想的な共同体の実現を夢見て、ポール・ゴーギャンとの同居を開始します。
ここでは、今回の目玉展示の一つである『アルルの寝室』を手がかりに、この寝室のあった“黄色い家”がCGで、寝室が実物大で再現されており、興味深かったです。
※『アルルの寝室』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents05_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
※再現された『アルルの寝室』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n10.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
この他、白い花がきれいな『糸杉に囲まれた果樹園』や明るいイメージの『タマネギの皿のある静物』、ミレーの模写を超えてゴッホ版の“種まく人”とも言える『種まく人』などが印象に残りました。
※『種まく人』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/04.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
また、ゴッホ自身が所蔵していた広重や国芳の浮世絵も展示されていました。
Ⅵ さらなる探求と様式の展開-サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ
ゴーギャンとの共同生活がわずか2か月で破綻したゴッホは精神に変調をきたし、サン=レミで療養生活に入ります。そして、その後、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住みます。
このサン=レミやオーヴェール=シュル=オワーズの時代のゴッホの絵には、色彩や筆遣いなどの技法の点では、新たな展開はないそうです。
ゴッホは終生、素描を創作の基本と考えていたとのことで、この時期に描かれた何点かの素描が油彩の作品とともに展示されていました。
この時期の代表作といえば、やはり『アイリス』でしょう。
私は『ひまわり』よりこの『アイリス』に魅せられます。
※『アイリス』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents06_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
また、広重の浮世絵のような印象のある『夕暮れの松の木』やせせらぎの水の色に印象派の影響を感じる『サン=レミの療養院の庭』も印象に残りました。
※『サン=レミの療養院の庭』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/07.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
ここでの私のお気に入りは、引きこれるような緑が印象的な『麦の穂』です。
ゴッホが自殺した麦畑もこのような風景だったのでしょうか。
私には、この絵にゴッホの新しい表現が芽生えているように思えます。
自殺しなければ、また別のゴッホを見ることができたように思え、天才の早すぎる死をあらためて残念に思いました。

[2011年3月19日(土)撮影]
私が訪れたのは土曜日の夕方でしたが、ゴッホ展で実施されている土曜日の夜間開館があまり知られていないのか、思ったほど混雑はしていませんでした。
非常に見ごたえのある展覧会なので、少し残念でした。
会期はまだ2週間以上ありますので、名古屋にお越しの方は、ぜひお出かけください。
先週の土曜日(2011年3月19日)の夕方、特別展「没後120年 ゴッホ展」 〔2011年2月22日(火)~2011年4月10日(日)〕を見に名古屋市美術館に出かけました。
※名古屋市美術館のサイトの特別展「没後120年 ゴッホ展」 のページ:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/
※「没後120年 ゴッホ展」 の公式サイト:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/

[2011年3月19日(土)撮影]
この展覧会は、フィンセント・ファン・ゴッホの没後120年を記念して開催されるもので、美術史上に燦然と輝くゴッホの名作の数々をご紹介するだけでなく、ゴッホがいかにしてゴッホとなったのかとの視点から、その創造の秘密に迫るものとのことです。
ゴッホの傑作約70点と、ミレー、モネ、ロートレック、ゴーギャンなど、ゴッホに大きな影響を与えた作家たちの作品約30点と、ゴッホが収集した浮世絵や版画などの資料類約20点との合計約120点の作品でゴッホの芸術の全貌が紹介するものだそうです。
展覧会は6章で構成されていました。
Ⅰ 伝統-ファン・ゴッホに対する最初期の影響
ゴッホが若い頃から親しんだバルビゾン派、フランスの写実主義、オランダのハーグ派などの作品とゴッホの初期の作品『秋のポプラ並木』と最晩年の『曇り空の下の積み藁』が並んで展示してありました。
これは、この初期の影響がゴッホに大きな影響を与え、作風は変わっても、ゴッホの作品には一貫性が潜んでいることを示すものだそうです。
※『秋のポプラ並木』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents01_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
ここでの私のお気に入りは、非常に美しいテオフィール・デ・ボックの『河の景観』です。
Ⅱ 若き芸術家の誕生
ゴッホは基本的には独学で成長した画家で、早くから高名な画家の版画や素描を模写することで腕を磨いたそうです。
ここでは、ゴッホが試したさまざまな素描の技法や彼が集めた雑誌の図版、“パースペクティヴ・フレーム”と呼ばれる遠近法を実践するための道具のレプリカなどが紹介されていました。
ここでは光の描き方がまるで印象派のような『麦わら帽子のある静物』の美しさが圧巻でした。
※『麦わら帽子のある静物』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents02_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
また、私の持っていたゴッホのイメージとはかなり異なる『鶏に餌をやる女』の端正な感じも印象に残りました。
Ⅲ 色彩の理論と人体の研究-ニューネン
ゴッホは、1883年の暮れにニューネンに移住しますが、この頃、ゴッホの素描力は格段に進歩し、次第に油彩に関心を移していったそうです。
さらに、翌年の春になるとドラクロワの色彩理論を学び、それを利用して農婦の頭部や静物を描くようになったとのことです。
ここでは、農婦などをモティーフに描いたゴッホの初期の油彩とゴッホが参照したさまざまな色彩理論の書籍が、影響を受けた他の画家たちの作品とともに紹介されていました。
ここでの白眉は初期の傑作『じゃがいもを食べる人々』でしょう。
私のお気に入りは、ジャガイモが光って見える『籠いっぱいのじゃがいも』です。
この他、今回の目玉展示の一つである『白い帽子を被った女の頭部(ホルディーナ・デ・フロート)』やX線撮影で下に別の絵が書いてあることが分かった『ビールジョッキ』もここに展示されていました。
※『白い帽子を被った女の頭部(ホルディーナ・デ・フロート)』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents03_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
卵が実にリアルに描かれているテオデュール・リボの『卵のある静物』もすばらしかったです。
Ⅳ パリのモダニズム
ゴッホは、1886年3月にパリに移り、フェルナン・コルモンの画塾で絵画の基本を再度学び、次第に明るい色彩を用いるようになったとのことです。
パリで印象派の画家たちと個人的にも親しくなったゴッホは、点描風のタッチを用いたり、薄く溶いた油絵具を使って素描のように見える作品を描くなど、実験的な試みを繰り返しながら次第に独自の様式を確立していくことになったそうです。
ここでは、パリ到着後のゴッホの作風の大きな変化を、クロード・モネやアルフレッド・シスレーなどの印象派の作品やアドルフ=ジョセフ・モンティセリ、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックなどの作品と比較できるような展示でした。
ここには、この展覧会の最大の目玉で、展覧会のポスターにも使われている『灰色のフェルト帽の自画像』が展示されており、この前は大混雑でした。
点描ならぬ棒描のユニークさと見事さには圧倒されました。
※『灰色のフェルト帽の自画像』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/01.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
また、左上部の雲の部分にゴッホの指紋の跡が残る『セーヌの岸辺』も注目を集めていました。
ここでの、私のお気に入りは、ゴッホが摘みたて果物を描き、ゴーギャンが黄色い静物画と呼んだ『マルメロ、レモン、梨、葡萄』です。
※『マルメロ、レモン、梨、葡萄』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/02.jpg(展覧会の公式サイトから)
印象派では、モネの『ヴェトゥイユ』と『ポール=ドモワの洞窟』が展示されていましたが、前者の水面の輝きや後者の海面のさざ波などはさすがに見事な光の表現でした。
※『ヴェトゥイユ』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n07.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
この他、シスレーの『モレのポプラ並木』の引き込まれるような美しさや、浮世絵の影響がみられるギュスターヴ・カイユボットの『バルコニー越しの眺め』のユニークなデザインも印象に残りました。
また、モンティセリの『白いグリフォン犬』のユニークな画面構成も印象的でした。
また非常に構図の似ているロートレックの『テーブルの女(白粉)』とゴッホの『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』が並べて展示してあり、興味深かったです。
さすがにロートレックと並べるとゴッホの絵が野暮ったく感じられてしまいました。
また、『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』の下にもX線撮影により、別の絵があったことがわかっているそうです。
※『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents04_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
※『カフェにて(ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ)』のX線写真:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n12.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
※『テーブルの若い女(白粉)』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n08.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
Ⅴ 真のモダン・アーティスト
ゴッホは、1888年2月に南仏の町アルルに移り住み、パリで出会った印象派などの前衛的な様式と日本の浮世絵から学んだ平坦で強烈な色彩や大胆な構図を融合させ、誰もがゴッホと認める独自の様式に到達します。
また、ゴッホは芸術家たちによる理想的な共同体の実現を夢見て、ポール・ゴーギャンとの同居を開始します。
ここでは、今回の目玉展示の一つである『アルルの寝室』を手がかりに、この寝室のあった“黄色い家”がCGで、寝室が実物大で再現されており、興味深かったです。
※『アルルの寝室』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents05_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
※再現された『アルルの寝室』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/n10.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
この他、白い花がきれいな『糸杉に囲まれた果樹園』や明るいイメージの『タマネギの皿のある静物』、ミレーの模写を超えてゴッホ版の“種まく人”とも言える『種まく人』などが印象に残りました。
※『種まく人』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/04.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
また、ゴッホ自身が所蔵していた広重や国芳の浮世絵も展示されていました。
Ⅵ さらなる探求と様式の展開-サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ
ゴーギャンとの共同生活がわずか2か月で破綻したゴッホは精神に変調をきたし、サン=レミで療養生活に入ります。そして、その後、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住みます。
このサン=レミやオーヴェール=シュル=オワーズの時代のゴッホの絵には、色彩や筆遣いなどの技法の点では、新たな展開はないそうです。
ゴッホは終生、素描を創作の基本と考えていたとのことで、この時期に描かれた何点かの素描が油彩の作品とともに展示されていました。
この時期の代表作といえば、やはり『アイリス』でしょう。
私は『ひまわり』よりこの『アイリス』に魅せられます。
※『アイリス』:http://event.chunichi.co.jp/gogh2011/img/gogh_contents06_item.jpg(展覧会の公式サイトから)
また、広重の浮世絵のような印象のある『夕暮れの松の木』やせせらぎの水の色に印象派の影響を感じる『サン=レミの療養院の庭』も印象に残りました。
※『サン=レミの療養院の庭』:http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/gogh/img/07.jpg(名古屋市美術館のサイトから)
ここでの私のお気に入りは、引きこれるような緑が印象的な『麦の穂』です。
ゴッホが自殺した麦畑もこのような風景だったのでしょうか。
私には、この絵にゴッホの新しい表現が芽生えているように思えます。
自殺しなければ、また別のゴッホを見ることができたように思え、天才の早すぎる死をあらためて残念に思いました。

[2011年3月19日(土)撮影]
私が訪れたのは土曜日の夕方でしたが、ゴッホ展で実施されている土曜日の夜間開館があまり知られていないのか、思ったほど混雑はしていませんでした。
非常に見ごたえのある展覧会なので、少し残念でした。
会期はまだ2週間以上ありますので、名古屋にお越しの方は、ぜひお出かけください。
2011/03/22 20:01:44
陶磁器の美しさに魅了されました。
昨日(2011年3月21日)、名古屋ボストン美術館で開催中の「響きあううつわ-出光美術館日本陶磁コレクション-」〔2011年2月26日(土)~2011年3月27日(日)〕を見に行きました。
この展覧会は、“陶磁器と絵画の表現の調べ”をテーマに、出光美術館の陶磁器と絵画の珠玉のコレクションのうち89点の名品により、交流しあう絵画とやきものを紹介するものとのことでした。
※名古屋ボストン美術館のサイトの「響きあううつわ-出光美術館日本陶磁コレクション-」のページ:http://www.nagoya-boston.or.jp/exhibition/list/vessels-201102/outline.html

[2011年3月21日(月)撮影]
展覧会は、3章で構成されていました。
第1章 桃山の茶陶
茶の湯が深化を遂げた桃山時代に隆盛を極めた茶の湯の陶器-茶陶を紹介する展示でした。
展示室に入ると、狩野長信筆の美しい花が咲き乱れる大きな『桜・桃・海棠図屏風』が目を引きました。
※『桜・桃・海棠図屏風』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_09.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
楽焼、黄瀬戸、志野、織部、古唐津の順で展示されていました。
志野では『鼠志野草花文額皿』が2点展示されていましたが、そのうち1点は、可憐な撫子がデザインされており、印象に残りました。
織部では、小袖をイメージしたユニークなデザインの『織部千鳥文誰が袖形鉢』が印象的でした。
※『織部千鳥文誰が袖形鉢』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_11.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古唐津の中では、『朝鮮唐津上手付水注』の上部から流れ落ちる白釉が黒釉と混じりあった部分が青く見える美しさには圧倒されました。
第2章 京焼の雅
京都で生まれたやきものである京焼の展示でした。
野々村仁清、尾形乾山、古清水、後期京焼の順に展示されていました。
野々村仁清の作品では、鶉の頭が後ろを向いているデザインがユニークな『色絵鶉香合』と『色絵鶏香合』という鳥を題材にした作品が並んで展示されていました。
また、『色絵梅花文四方香炉』は蓋のつまみがうさぎで、両横の耳がゾウの頭の形というかわいらしい感じのする楽しいデザインでした。
※『色絵梅花文四方香炉』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_15.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
尾形乾山の作品では、『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』とその元になった狩野探幽筆の『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』が並べて展示してあり、興味深かったです。
『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』は、“正月 柳 鶯”、“二月 桜 雉”、“四月 卯花 杜鵑”の3か月分が見える形で、 『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』はこの3か月分に“八月 鹿鳴草 初雁”と“十二月 早桜 水鳥”を加えた5客が展示されていました。
ちなみに、鹿鳴草〔しかなぐさ〕というのは萩の別名だそうです。
※『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』[正月 柳 鶯]:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_18.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』[正月 柳 鶯]』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_17.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
この他、兄の尾形光琳が絵を描き、乾山が賛(漢詩)を書いた兄弟合作の『銹絵菊図角皿』や乾山には珍しく立体的な造形の『銹絵獅子香炉』も印象に残りました。
また、展示室の奥に、左隻に二条城が描かれているため、江戸時代の作とされる大きな『洛中洛外図屏風』が展示されており、見応えがありました。
後期京焼では、画家らしく陶器なのに絵のように華やかな絵付けの青木木米作の『色絵百仙人文輪花鉢』が印象に残りました。
第3章 磁器の輝き
17世紀後半にオランダ東インド会社を経由してヨーロッパに輸出されることになる色絵磁器の展示でした。
伊万里染付、古九谷、柿右衛門、古伊万里、鍋島の順に展示されていました。
伊万里染付では、祝樽をモデルにした『染付草花文樽形瓶』が一対展示されていました。
やきもので再現された形の正確さには驚きました。
また、山水画のテーマである“遠山”、“遠帆”、“観瀑”、“落雁”が四面に描かれ、蓋の取っ手の茄子がかわいらしい『染付楼閣山水文四方水指』と山水画の『飛瀑図屏風 元信印』が並べて展示してあり、興味深かったです。
※『染付楼閣山水文四方水指』: http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_24.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『飛瀑図屏風』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_23.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古九谷では、上部の葉の青色の美しさが目を引く『色絵蔦葉文大皿』が、寛文小袖のデザインブックである「寛文ひいながた」と共通したデザインだということがわかる形で展示されており、面白かったです。
青手古九谷では最大級の大皿という『色絵菊文大皿』は、金地に描かれた緑が映える金壁障屏画を思わせる緑と黄の色彩のコントラストが立体感を感じさせ、すばらしかったです。
柿右衛門では、粟の穂の曲線が生み出す余白の白が美しい『色絵粟鶉文八角鉢』が印象に残りました。
また、美人画を再現したような『色絵坐姿美人像』と『色絵立姿美人像』と共に、その元となったような美人が登場する菱川師宣筆の『江戸風俗図巻』が展示されていました。
『江戸風俗図巻』に描かれた人物の着物の色の鮮やかさが目を引きました。
こうした美人像もヨーロッパに数多く輸出されたそうです。
※『色絵坐姿美人像』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_28.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『色絵立姿美人像』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_29.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『江戸風俗図巻』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_27.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
ヨーロッパの酒瓶を模しているので、ヨーロッパへの輸出用に作られたことが分かる『色絵花鳥文角瓶』も一対展示されていました。
※『色絵花鳥文角瓶』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_20.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古伊万里では、籠を結ぶ紐の形に立体的に作られた蓋の意匠が面白い『色絵花卉文虫籠形香炉』がすばらしかったです。
鍋島では、雲の形のデザインが大胆な『青磁染付秋草文皿』と藍色の染付の濃淡で表現される水の流れが見事な『色絵花筏文皿』が印象に残りました。
※『色絵花筏文皿』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_05.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
訪れたのが祝日の午前中でしたので、小雨模様の天気にもかかわらず、館内は比較的にぎわっていました。
器の名品に出会える展覧会ですので、会期はあと5日間ですが、お近くの方はぜひお出かけください。

[2011年3月21日(月)撮影]
外に出ると雨が上がっていました。
昨日(2011年3月21日)、名古屋ボストン美術館で開催中の「響きあううつわ-出光美術館日本陶磁コレクション-」〔2011年2月26日(土)~2011年3月27日(日)〕を見に行きました。
この展覧会は、“陶磁器と絵画の表現の調べ”をテーマに、出光美術館の陶磁器と絵画の珠玉のコレクションのうち89点の名品により、交流しあう絵画とやきものを紹介するものとのことでした。
※名古屋ボストン美術館のサイトの「響きあううつわ-出光美術館日本陶磁コレクション-」のページ:http://www.nagoya-boston.or.jp/exhibition/list/vessels-201102/outline.html

[2011年3月21日(月)撮影]
展覧会は、3章で構成されていました。
第1章 桃山の茶陶
茶の湯が深化を遂げた桃山時代に隆盛を極めた茶の湯の陶器-茶陶を紹介する展示でした。
展示室に入ると、狩野長信筆の美しい花が咲き乱れる大きな『桜・桃・海棠図屏風』が目を引きました。
※『桜・桃・海棠図屏風』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_09.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
楽焼、黄瀬戸、志野、織部、古唐津の順で展示されていました。
志野では『鼠志野草花文額皿』が2点展示されていましたが、そのうち1点は、可憐な撫子がデザインされており、印象に残りました。
織部では、小袖をイメージしたユニークなデザインの『織部千鳥文誰が袖形鉢』が印象的でした。
※『織部千鳥文誰が袖形鉢』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_11.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古唐津の中では、『朝鮮唐津上手付水注』の上部から流れ落ちる白釉が黒釉と混じりあった部分が青く見える美しさには圧倒されました。
第2章 京焼の雅
京都で生まれたやきものである京焼の展示でした。
野々村仁清、尾形乾山、古清水、後期京焼の順に展示されていました。
野々村仁清の作品では、鶉の頭が後ろを向いているデザインがユニークな『色絵鶉香合』と『色絵鶏香合』という鳥を題材にした作品が並んで展示されていました。
また、『色絵梅花文四方香炉』は蓋のつまみがうさぎで、両横の耳がゾウの頭の形というかわいらしい感じのする楽しいデザインでした。
※『色絵梅花文四方香炉』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_15.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
尾形乾山の作品では、『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』とその元になった狩野探幽筆の『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』が並べて展示してあり、興味深かったです。
『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』は、“正月 柳 鶯”、“二月 桜 雉”、“四月 卯花 杜鵑”の3か月分が見える形で、 『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』はこの3か月分に“八月 鹿鳴草 初雁”と“十二月 早桜 水鳥”を加えた5客が展示されていました。
ちなみに、鹿鳴草〔しかなぐさ〕というのは萩の別名だそうです。
※『色絵定家詠十二ヵ月和歌花鳥図角皿』[正月 柳 鶯]:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_18.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『定家詠十二ヵ月和歌花鳥図画帖』[正月 柳 鶯]』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_17.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
この他、兄の尾形光琳が絵を描き、乾山が賛(漢詩)を書いた兄弟合作の『銹絵菊図角皿』や乾山には珍しく立体的な造形の『銹絵獅子香炉』も印象に残りました。
また、展示室の奥に、左隻に二条城が描かれているため、江戸時代の作とされる大きな『洛中洛外図屏風』が展示されており、見応えがありました。
後期京焼では、画家らしく陶器なのに絵のように華やかな絵付けの青木木米作の『色絵百仙人文輪花鉢』が印象に残りました。
第3章 磁器の輝き
17世紀後半にオランダ東インド会社を経由してヨーロッパに輸出されることになる色絵磁器の展示でした。
伊万里染付、古九谷、柿右衛門、古伊万里、鍋島の順に展示されていました。
伊万里染付では、祝樽をモデルにした『染付草花文樽形瓶』が一対展示されていました。
やきもので再現された形の正確さには驚きました。
また、山水画のテーマである“遠山”、“遠帆”、“観瀑”、“落雁”が四面に描かれ、蓋の取っ手の茄子がかわいらしい『染付楼閣山水文四方水指』と山水画の『飛瀑図屏風 元信印』が並べて展示してあり、興味深かったです。
※『染付楼閣山水文四方水指』: http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_24.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『飛瀑図屏風』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_23.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古九谷では、上部の葉の青色の美しさが目を引く『色絵蔦葉文大皿』が、寛文小袖のデザインブックである「寛文ひいながた」と共通したデザインだということがわかる形で展示されており、面白かったです。
青手古九谷では最大級の大皿という『色絵菊文大皿』は、金地に描かれた緑が映える金壁障屏画を思わせる緑と黄の色彩のコントラストが立体感を感じさせ、すばらしかったです。
柿右衛門では、粟の穂の曲線が生み出す余白の白が美しい『色絵粟鶉文八角鉢』が印象に残りました。
また、美人画を再現したような『色絵坐姿美人像』と『色絵立姿美人像』と共に、その元となったような美人が登場する菱川師宣筆の『江戸風俗図巻』が展示されていました。
『江戸風俗図巻』に描かれた人物の着物の色の鮮やかさが目を引きました。
こうした美人像もヨーロッパに数多く輸出されたそうです。
※『色絵坐姿美人像』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_28.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『色絵立姿美人像』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_29.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
※『江戸風俗図巻』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_27.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
ヨーロッパの酒瓶を模しているので、ヨーロッパへの輸出用に作られたことが分かる『色絵花鳥文角瓶』も一対展示されていました。
※『色絵花鳥文角瓶』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_20.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
古伊万里では、籠を結ぶ紐の形に立体的に作られた蓋の意匠が面白い『色絵花卉文虫籠形香炉』がすばらしかったです。
鍋島では、雲の形のデザインが大胆な『青磁染付秋草文皿』と藍色の染付の濃淡で表現される水の流れが見事な『色絵花筏文皿』が印象に残りました。
※『色絵花筏文皿』:http://www.nagoya-boston.or.jp/upload/im_vessels-201102_05.jpg(名古屋ボストン美術館のサイトから)
訪れたのが祝日の午前中でしたので、小雨模様の天気にもかかわらず、館内は比較的にぎわっていました。
器の名品に出会える展覧会ですので、会期はあと5日間ですが、お近くの方はぜひお出かけください。

[2011年3月21日(月)撮影]
外に出ると雨が上がっていました。
2011/03/21 21:31:40
枝垂れ梅が満開になりました。
実家の庭の枝垂れ梅の花が一週間で満開になりました(2011年3月13日の日記参照)。

[2011年3月19日(土)撮影]
散るも咲くも 枝垂れ明りや 薄紅梅 (渡辺水巴)
この一週間で地震の被害状況もかなり判明し、全国からの支援活動も活発になってきました。
また、昨日は80歳の女性とその16歳の孫の2人が、地震発生10日目に救出されるという久しぶりに明るいニュースもありました。
しかし、まだ多くの方々が被災地の避難所で過ごされており、また、原発事故で避難を余儀なくされている方々もたくさんいらっしゃいます。そうした皆さんが、一日も早く平常の生活に戻れることを心から祈っています。
そして、被災地や事故現場で活動する各国からの救援隊や自衛隊の皆さん、全国から応援に行っている消防や警察などの自治体関係者の皆さん、原発で作業を続ける東京電力の関係者の皆さんの活動には本当に敬意を表します。
被害のなかったところに住む者として、当面、募金活動に協力することや買いだめしないことぐらいしかできることはありませんが、できるだけ応援したいと思っています。
実家の庭の枝垂れ梅の花が一週間で満開になりました(2011年3月13日の日記参照)。

[2011年3月19日(土)撮影]
散るも咲くも 枝垂れ明りや 薄紅梅 (渡辺水巴)
この一週間で地震の被害状況もかなり判明し、全国からの支援活動も活発になってきました。
また、昨日は80歳の女性とその16歳の孫の2人が、地震発生10日目に救出されるという久しぶりに明るいニュースもありました。
しかし、まだ多くの方々が被災地の避難所で過ごされており、また、原発事故で避難を余儀なくされている方々もたくさんいらっしゃいます。そうした皆さんが、一日も早く平常の生活に戻れることを心から祈っています。
そして、被災地や事故現場で活動する各国からの救援隊や自衛隊の皆さん、全国から応援に行っている消防や警察などの自治体関係者の皆さん、原発で作業を続ける東京電力の関係者の皆さんの活動には本当に敬意を表します。
被害のなかったところに住む者として、当面、募金活動に協力することや買いだめしないことぐらいしかできることはありませんが、できるだけ応援したいと思っています。
2011/03/19 20:25:24
今日の謡の稽古は、『舎利』の4回目。
今日の謡の稽古は、『舎利』の4回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関の僧と里の者がいっしょに仏舎利を拝んでいると、突然、激しい雷となり、里の者が足疾鬼となって仏舎利を奪って空に飛び去ってしまう場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)
シテ「今はさみしくすさまじき。
地謡「月ばかりこそ昔なれ。孤山の。松の間には。
よそよそ白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の浪の上に。
はるかに四諦の暁の雲を引く空の。さみしささぞな鷲の御山。
それは上見ぬ方ぞかし。ここはまさに目前の。
仏舎利を拝するこの寺ぞたっとかりける。
ワキ「不思議やな今までは。さやけき月のかき曇り。堂前に輝く稲光。
こわそもいかなる事やらん。
シテ「今は何をかつつむべき。昔の執心疾鬼が心。
なおこの舎利に望みあり。許し給えや人びとよ。
ワキ「げにげに見れば怖ろしや。面色変れる鬼となって。
シテ「舎利殿に臨み昔のごとく。
ワキ「金冠を見せ。
シテ「法座をなして。
地謡「栴檀沈水香の。栴檀沈水香の。上にかきくる雲煙を立てて稲妻の。
光に飛びまぎれて。もとより。足疾鬼とは。足疾き鬼なれば。
舎利殿に飛びあがり。くるくるくると。見る人の目をくらめて。
そのまぎれに牙舎利を取って。天井を蹴破り。
虚空に飛んであがると見えしが行方も知らず失せにけり。行方も知らず.失せにけり。
今日の稽古は、上羽から中入まででした。
速い謡はあまり得意ではないので、中入前のすすめるところは少し難しかったです。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』の通しの稽古の2回目でした。
今日は、動作を止めるところはきちんと止めて、不必要に所作が連続しないようにとの指導を受けました。
きびきびとした感じがだせるように心がけたいと思っています。
今日の謡の稽古は、『舎利』の4回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関の僧と里の者がいっしょに仏舎利を拝んでいると、突然、激しい雷となり、里の者が足疾鬼となって仏舎利を奪って空に飛び去ってしまう場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)
シテ「今はさみしくすさまじき。
地謡「月ばかりこそ昔なれ。孤山の。松の間には。
よそよそ白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の浪の上に。
はるかに四諦の暁の雲を引く空の。さみしささぞな鷲の御山。
それは上見ぬ方ぞかし。ここはまさに目前の。
仏舎利を拝するこの寺ぞたっとかりける。
ワキ「不思議やな今までは。さやけき月のかき曇り。堂前に輝く稲光。
こわそもいかなる事やらん。
シテ「今は何をかつつむべき。昔の執心疾鬼が心。
なおこの舎利に望みあり。許し給えや人びとよ。
ワキ「げにげに見れば怖ろしや。面色変れる鬼となって。
シテ「舎利殿に臨み昔のごとく。
ワキ「金冠を見せ。
シテ「法座をなして。
地謡「栴檀沈水香の。栴檀沈水香の。上にかきくる雲煙を立てて稲妻の。
光に飛びまぎれて。もとより。足疾鬼とは。足疾き鬼なれば。
舎利殿に飛びあがり。くるくるくると。見る人の目をくらめて。
そのまぎれに牙舎利を取って。天井を蹴破り。
虚空に飛んであがると見えしが行方も知らず失せにけり。行方も知らず.失せにけり。
今日の稽古は、上羽から中入まででした。
速い謡はあまり得意ではないので、中入前のすすめるところは少し難しかったです。
一方、仕舞の稽古は、『盛久』の通しの稽古の2回目でした。
今日は、動作を止めるところはきちんと止めて、不必要に所作が連続しないようにとの指導を受けました。
きびきびとした感じがだせるように心がけたいと思っています。