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雛人形を見に徳川美術館に行きました。

昨日(2011年2月27日)、徳川美術館で開催中の特別展「尾張徳川家の雛まつり〔2011年2月5日(土)~4月3日(日)〕を見に行きました。
徳川美術館特別展「尾張徳川家の雛まつりのページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/index.html

桃の節句と呼ばれるひなまつりでは、男女一対の内裏雛を中心にして、三人官女五人囃子白丁をはじめ、さまざまな人形が飾られます。
この展覧会は、徳川美術館に収蔵されている御三家筆頭の大大名にふさわしい雛道具で、華やかな大名家ならではのひなまつりの世界を紹介するものだそうです。

徳川美術館201102_01
[2011年2月27日(日)撮影]

展覧会は第7展示室の半分と第9展示室で開催されていました。
展示室に入ると、50cmほどの『天児〔あまがつ〕』・『這子〔ほうこ〕』と二対の『犬張子』が目を引きました。
天児』・『這子』は雛人形のルーツとも言われているそうですが、少し不気味でした。
※『犬張子』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/05.jpg徳川美術館のサイトから)

続いて、左側に近衛家から尾張徳川家11代斉温に嫁いだ福君〔さちぎみ〕雛道具が展示されていました。
この福君雛道具である『菊折枝蒔絵雛道具』と『抱牡丹紋散蒔絵雛道具』の間に展示されていた所要者不明という『立涌に松竹梅丸紋蒔絵雛道具』がすばらしかったです。
紫檀地に、金蒔絵色漆松竹梅の丸紋および立涌紋を散らした斬新なデザインが印象的で、今回の展示品の中で最も心に残りました。
※『菊折枝蒔絵雛道具』「貝桶」:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/03.jpg徳川美術館のサイトから)
※『抱牡丹紋散蒔絵雛道具』「台子皆具」・「茶坊主人形」:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/04.jpg徳川美術館のサイトから)

その隣には、故秩父宮妃勢津子さまご遺愛の雛人形が展示されていました。
男雛の冠が立纓〔りゅうえい〕で、装束が天皇のみに許される黄櫨染〔こうろぜん〕の御袍を着用しているのが興味深かったです。
黄櫨染の品のある色が美しかったです。
なお、この雛人形雛道具は、勢津子さまの実の妹である尾張徳川家20代義知夫人の正子さんに遺賜され、その後、徳川美術館に寄贈されたとのことです。

さらに、同じく正子さん所要の市松人形も展示されていました。
上品で瀟洒な感じの人形でした。
※『市松人形 滝沢光龍斎作』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/08.jpg徳川美術館のサイトから)

展示室の一番奥には、尾張徳川家19代義親夫人の米子さん、20代義知夫人の正子さん、21代義宣夫人の三千子さんの三世代にわたる尾張徳川家雛壇飾りが並べて展示してあり、壮観でした。
※『尾張徳川家三世代の雛段飾り』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/06.jpg徳川美術館のサイトから)

展示室向かって右側には、尾張徳川家14代慶勝夫人で福島・二本松丹羽長富の三女・矩姫〔かねひめ〕雛人形雛道具が展示されていました。
大名家の雛飾りらしく大変豪華のものでした。
※『内裏雛飾り』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/01.jpg徳川美術館のサイトから)
※『有職雛(狩衣姿)』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/02.jpg徳川美術館のサイトから)

展示室中央には、徳川美術館で最も古い雛道具と伝えられる『鉄線唐草蒔絵雛道具』、色が美しい緻密な絵が印象的な『合貝』などが展示されていました。

第9展示室では、「名古屋の旧家 中村家に伝えられた雛人形」が特別公開されていました。
この雛人形は、名古屋城下有数の商家だった中村家佐野屋に伝えられたもので、もともとは近衛家ゆかりの雛人形として尾張徳川家に伝えられ、明治時代になって中村家へと譲られたものだそうです。
※『名古屋の旧家 中村家伝来の雛人形』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h23/02/image/09.jpg徳川美術館のサイトから)

徳川美術館201102_02
[2011年2月27日(日)撮影]

昨日の名古屋は、最高気温17.5℃と4月上旬の陽気でしたが、展覧会も春の訪れを告げるにふさわしい、華やかなものでした。
日曜日だけあって、館内も混雑していました。



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完熟きんかんをいただきました。

完熟きんかんは、宮崎県の特産のフルーツです。
昨年に引き続き(2010年3月10日の日記参照)、このブログにもよく遊びに来ていただける宮崎の方からいただきました。

完熟きんかん201102
[2011年2月26日(土)撮影]

この尾鈴完熟きんかんは、ハウスで完熟させた生食用金柑で、宮崎県中部の尾鈴地域で生産されているそうです。
一昨日の夜に、一箱いただきましたので、金柑好きの父親に、昨日、半分届けました。

甘くてみずみずしく、とてもおいしいので、もうかなり食べてしまいました。



今日の謡の稽古は、『舎利』の3回目。

今日のの稽古は、『舎利』の3回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関が、泉湧寺里の者と共に舎利を拝んでいる場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)

地謡「月雪の古き寺井は.水澄みて。ふるき寺井は水すみて。庭の松風さえかえり。
   ふけゆく鐘の声までも心耳に澄ます夜もすがら。げに聞けや峰の松。
   谷の水音澄みわたる嵐や法を唱うらん.嵐や法を唱うらん。それ仏法あれば世法あり。
   煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生もあり。善悪又不二なるべし。

シテ「しかるに後五百歳の仏法。既に末世の折を得て。
地謡「西天唐土日域に。時至って久方の。月の都の山並や。仏法流布のしるしとて。
   仏骨をとどめ.給いにき。

シテ「げに目前の妙光の影。
地謡「この御舎利に。しくはなし。しかるに仏法東漸とて。三如来四菩薩も。
   皆日域に地をしめて。衆生を済度し給えり。常在霊山の秋の空。
   僅かに微月に臨んで魂を消し。泥洹双樹の苔の庭.遺跡を聞いて腸を断つ。
   有難や仏舎利の.御寺ぞ在世なりける。げにや鷲の御山も。
   在世の砌にこそ草木も法の色を見せ皆仏心を得たりしが。


今日の稽古は、上羽前まででしたが、クセは少し謡い難かったです。


一方、仕舞の稽古は、今日から『盛久』の通しの稽古になりました。

今日は、下に居る姿勢から立ち上がるときの姿勢と、をするときの姿勢について指導を受けました。
美しくできるように心がけたいと思っています。



なぜ内供の鼻を腸詰めに例えたのでしょうか?

昨日まで、4回にわたって芥川龍之介の『』(2010年2月20日の日記参照)とその原典とされる説話について紹介してきましたが、今日はそれらについての個人的な妄想を述べさせていただきます。

芥川の『』は次のように始まります。
禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
芥川は、ここで内供腸詰めに例えています。
平安期を舞台にした話に、腸詰めはないだろうというのが、最初に読んだときの感想でした。

さて、この話の原典とされる「今昔物語」の『池尾禅珍内供鼻語』(2010年2月21日の日記参照)と「宇治拾遺物語」の『鼻長き僧の事』(2010年2月22日の日記参照)では、内供について、前者は“色は赤く紫色にして、大柑子の皮の様にして、つぶ立ちてぞ膨れたりける”と、後者は“色は赤紫にて、大柑子のはだのやうにつぶだちてふくれたり”と形容しています。
なお、この2つの話はほとんど同じなので、これ以降は「今昔物語」の『池尾禅珍内供鼻語』を題材に話を進めます。

さて、こ説話が男色の艶笑譚だという解釈は古くからあったようです。
このことを知って、この話を読み直すと、“その折敷の穴に鼻を指通して”とか、“四分ばかりの白き虫を穴毎よりぞ抜き出でける”など、妄想をたくましくできる表現が散見しています。
また、お気に入りの弟子がいないと、“それに異人を以て上げさする時には、…、むつかりて物も食はずなりぬ”というほど機嫌が悪くなるという内供の尋常ではないその弟子への執着も、その弟子が男色の相手だと想像すれば納得できます。
また、代わりの少年を選ぶときの基準が、“この童、中童子の見目も穢気なくて”というのも合点がいきます。
そして、この解釈に立つと、男性器(陰茎)暗喩として使われていることになります。

さて、この解釈を芥川は知っていたのかという点ですが、私は知っていたからこそ、芥川腸詰めに例えたのではないかと思っています。
したがって冒頭の問いの答は、“芥川がこの説話が男色の艶笑譚だと言われていることを知っていたから”となります。

以上、私の妄想を披露させていただきました。



『鼻』のもう一つの原典です。

今昔物語」の『池尾禅珍内供鼻語』(2011年2月21日の日記参照)と共に芥川龍之介の『』の原典と言われているのが、「宇治拾遺物語」の『鼻長き僧の事』です(2011年2月20日の日記参照)。

今日は、その「宇治拾遺物語」の『鼻長き僧の事』を紹介します。
話の内容は、「今昔物語」の『池尾禅珍内供鼻語』とほとんど同じです。


鼻長き僧の事』〔「宇治拾遺物語二十五(巻二・七)

昔、池の尾に禅珍内供という僧すみけり。
真言なんどよく習て、年久しく行て貴とかりければ、世の人々さまざまの祈をせさせければ、身の徳ゆたかにて、堂も僧坊もすこしもあれたる所なし。
仏具御燈などもたえず、をりふしの僧膳、寺の講演しげく行はせければ、寺中の僧坊にひまなく僧もすみにぎはひけり。
湯屋には、ゆわかさぬ日なく、あみのゝしりけり。
又そのあたりに、小家どもおほくいできて里もにぎはいけり。

さてこの内供は鼻長かりけり。
五六寸計なりければ、おとがひよりさがりてぞみえける。
色は赤紫にて、大柑子のはだのやうにつぶだちてふくれたり。
かゆがる事かぎりなし。
提に湯をかへらかして、折敷を鼻さし入ばかりゑりとほして、火のほのほのかほにあたらぬやうにして、その折敷の穴より鼻さしいでて、提の湯にさし入て、よくよくゆでて引あげたれば、色はこき紫色也。
それをそばざまに臥て、したに物をあてて人にふますれば、つぶだちたる穴ごとに煙のようなる物いづ。
それをいたくふめば、白き蟲を穴ごとにさし出るを、毛抜にてぬけば、四分計なるしろき蟲を穴ごとにとりいだす。
その跡はあなだにあきてみゆ。
それを又おなじ湯に入て、さらめかしわかすに、ゆづれば鼻ちひさくしぼみあがりて、たゞの人の鼻のやうになりぬ。
又二三日になれば、さきのごとくに、はれて大きに成りぬ。

かくのごとくしつゝ、腫たる日数はおほくありければ、物食ける時は、弟子の法師に、平なる板の一尺計なるが、広さ一寸ばかりなるを鼻のしたにさし入て、むかひゐて、かみざまへもてあげさせて、物くひはつるまではありけり。
こと人してもてあげさするをりは、あらくもてあげければ、腹をたてて物もくはず、されば此法師一人をきめて、物くふたびごとにもてあげさす。

それを心ちあしくして、この法師いでざりけるをりに、朝がゆくはんとするに、鼻をもてあぐる人なかりければ、「いかにせん。」なむどいふ程に、つかひける童の、「我はよくもてあげまゐらせてん。更にその御房には、よもおとらじ。」といふを、弟子の法師ききて、「この童のかくは申。」といへば、中大童子にて、みめもきたなげなくありければ、うへにめしあげてありけるに、この童、鼻もてあげの木を取て、うるはしくむかひゐて、よき程に高からずひきからずもたげて、粥をすゝらすれば、此内供、「いみじき上手にてありけり。例の法師にはまさりたり。」とて、かゆをすゝるほどに、この童、はなをひんとて、そばざまに向てはなをひる程に、手ふるひて、鼻もたげの木ゆるぎて、鼻はづれて粥の中へ鼻ふたりとうちいれつ。
内供がかほにも、童のかほにも、粥とばしりて、ひと物かゝりぬ。

内供大に腹立て、頭かほにかゝりたるかゆを紙にてのごひつゝ、「おのれはまがまがしかりける心もちたる物哉。心なしのかたゐとはおのれがやうなる物をいふぞかし。我ならぬやごつなき人の御鼻にもこそまゐれ、それには、かくやはせんずる。うたてなりける心なしのしれ物かな。おのれ、たてたて。」とて追たてければ、たつまゝに、「世の人のかかる鼻もちたるがおはしまさばこそ、はなもたげにもまゐらめ。をこの事の給へる御房かな。」といひければ、弟子どもは物のうしろに逃のきてぞわらひける。



宇治拾遺物語」は、13世紀前半頃に成立した中世日本の説話物語集で、「今昔物語集」と並んで説話文学の傑作とされています。
また、この2つの説話集には、いくつかほとんど同じ話が収録されていることも知られています。

宇治拾遺物語」の序文によると、“宇治大納言と呼ばれた貴族、源隆国によって編纂されたという「宇治大納言物語」(現在は散逸)という説話集があり、この説話集に漏れた話、その後に起きた話などを拾い集めた拾遺集が編まれた”とされています。




『鼻』の元になった話です。

今日は、「今昔物語」の『池尾禅珍内供鼻語』を紹介します。

池尾禅珍内供鼻語』〔「今昔物語巻第二十八 本朝付世俗(滑稽譚) 第二十話

今は昔、池尾と云ふ所に禅珍内供と云ふ僧住みき。
身浄くて真言などよく習ひて、ねんごろに行法を修してありければ、池尾の常塔・僧房などつゆ荒れたる所なく、常燈・仏聖なども絶えずして、折節の僧供・寺の講説など滋く行はせければ、寺の内に僧坊隙なく住みければ、賑ははしく見ゆ。
かく栄ゆる寺なれば、その辺に住む小家ども、員数た出て来て、郷も賑はひけり。

さて、この内供は、鼻の長かりける、五六寸ばかりなりければ、頤よりも下りてなむ見えける。
色は赤く紫色にして、大柑子の皮の様にして、つぶ立ちてぞ膨れたりける。
それがいみじく痒かりける事限りなし。
されば、提に湯を熱く湧して、折敷をその鼻通るばかりに窟ちて、火の気に面の熱く炮らるれば、その折敷の穴に鼻を指通して、その提に指入れてぞ茹で、よく茹でて引き出でたれば、色は紫色になりたるを、喬様に臥して、鼻の下に物をかひて、人を以て踏ますれば、黒くつぶ立ちたる穴毎に、煙の様なる物出づ。それを責めて踏めば、白き小虫の穴毎に指出でたるを、鑷子を以て抜けば、四分ばかりの白き虫を穴毎よりぞ抜き出でける。
その跡は穴にて開きてなむ見えける。
それをまた同じ湯に指入れてさらめき、湯に初のごとく茹づれば、鼻いと小さく萎まりて、例の人の小さき鼻になりぬ。
また二三日になりぬれば、痒いくてふくれ延びて、本のごとくに腫れて大きになりぬ。
かくのごとくにしつつ、腫れたる日員は多くぞありける。

しかれば、物食ひ粥などを食ふ時には、弟子の法師を以て、平らなる板の一尺ばかりなるが広さ一寸ばかりなるを鼻の下に指入れて、向ひゐて上様に指し上げさせて、物食ひ果つるまでゐて、食ひ果つれば打ち下して去りぬ。
それに異人を以て上げさする時には、悪しく指し上げければ、むつかりて物も食はずなりぬ。
されば、この法師をなむ定めて持て上げさせける。
それに、その法師、心地悪しくして出で来ざりける時に、内供、朝粥食ひけるに、鼻持て上ぐる人のなかりければ、「いかがせむとする」などあつかふ程に、童のありけるが、「己はしもよく持て上げ奉りてむかし。さらによもその小院に劣らじ」と云ひけるを、異弟子の法師の聞きて、「この童はしかしかなむ申す」と云ひければ、この童、中童子の見目も穢気なくて、上にも召し上げて仕ひける者にて、「さらばその童召せ。さ云はばこれ持て上げさせむ」と云ひければ、童召し将て来たりぬ。

童、鼻持て上の木を取りて、直しく向ひて、よき程に高く持て上げて粥を飲ますれば、内供、「この童はいみじき上手にこそありけれ。例の法師には増さりたりけり」と云ひて、粥を飲める程に、童、顔を喬様に向けて、鼻を高くひる。
その時に童の手震ひて、鼻持て上の木動きぬれば、鼻を粥の鋺にふたと打ち入れつれば、粥を内供の顔にも童の顔にも多く懸けぬ。

内供、大きに怒りて、紙を取りて頭・面に懸かりたる粥を巾ひつつ、「己はいみじかりける心なしの乞児かな。我れにあらぬやんごとなき人の御鼻をも持て上げむには、かくやせむとする。不覚のしれものかな。立ちね、己れ」と云ひて追ひ立てければ、童立ちて、隠に行きて、「世に人のかかる鼻つきある人のおはせばこそは、外にては鼻も持て上げめ。嗚呼の事仰せらるる御坊かな」と云ひければ、弟子ども、これを聞きて、外に逃げ去きてぞ咲ひける。

これを思ふに、実にいかなりける鼻にかありけむ。
いとあさましかりける鼻なり。
童のいとをかしく云ひたる事をぞ、聞く人讃めけるとなむ、語り伝へたるとや。



この話の構造は、最初の段落が導入部の“”、第二段落がの説明の“”、第3段落と第4段落が事件の発生を描く“”、第5段落と第6段落がオチにあたる“”となっており、全体として良くできた笑い話となっています。

しかし、よく読むと“”と“”の間に無理があるように私には感じられます。

”では、内供が行っているを小さくする方法の説明として、“黒くつぶ立ちたる穴毎に、煙の様なる物出づ。それを責めて踏めば、白き小虫の穴毎に指出でたるを、鑷子を以て抜けば、四分ばかりの白き虫を穴毎よりぞ抜き出でける”と内供が大きかった理由が理路整然と語られます。
さらに、“鼻いと小さく萎まりて、例の人の小さき鼻になりぬ。また二三日になりぬれば、痒いくてふくれ延びて、本のごとくに腫れて大きになりぬ”と、この方法で内供は少なくとも2~3日間は小さくすることができると語られます。
ところが、“かくのごとくにしつつ、腫れたる日員は多くぞありける”と語って、“”につなげています。
もちろん、内供が小さくなっているときならば、事件は起きないので、内供は大きいままの日が多かったと語っているわけです。
その結果、次の“”で、“その法師、心地悪しくして出で来ざりける時に、内供、朝粥食ひけるに、鼻持て上ぐる人のなかりければ、「いかがせむとする」などあつかふ程に、童のありけるが、「己はしもよく持て上げ奉りてむかし。さらによもその小院に劣らじ」と云ひけるを、”といつもと違う内供を持ち上げることになるのです。
しかし、“”で説明される方法を施せば、内供は小さくなるのに、内供はどうしてそうはせずに、代わりのを持ちあげさせたのでしょうか。
というか、そもそも2~3日は小さくすることができるのに、どうして内供は普段もそうすることなく、お気に入りの弟子の法師を持ちあげさせていたのでしょうか。
このの説明がないと、どうも辻褄というか、平仄が合いません。

この点、内供も周りの弟子たちもずっとを小さくする方法を知らなかったという芥川龍之介の『』の方がはるかに論理的に整合しています。
さらに、芥川は、内供も周りの人間たちの微妙な人間心理を描くために、を小さくする方法を、弟子に進められて1回だけ試したということにしています。
こうして、古典の世界の笑い話は、芥川の手によって近代的な心理を描く小説に姿を変えたのだと思います。



漱石がほめた『』を紹介します。

昨日紹介したように、夏目漱石芥川龍之介の『』を絶賛しています(2011年2月19日の日記参照)。
この『』は、「今昔物語」の『池尾禅珍内供』と「宇治拾遺物語」の『長き僧の事』を素材としていますが、芥川の緻密な細工によって全く別の物語に仕上げられています。

』(芥川龍之介

 禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥の昔から、内道場供奉の職に陞った今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。
 内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子が、嚏をした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時京都まで喧伝された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。
 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたり頤の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。
 それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為である。
 最後に、内供は、内典外典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
 内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。
 所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧になっていたのである。
 内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する事になった。
 その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷する惧がある。そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
 ――もう茹った時分でござろう。
 内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食ったようにむず痒い。
 弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿げ頭を見下しながら、こんな事を云った。
 ――痛うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼を使って、弟子の僧の足に皹のきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
――痛うはないて。
 と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
 ――これを鑷子でぬけと申す事でござった。
 内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
 やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
 ――もう一度、これを茹でればようござる。
 と云った。
 内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。
 さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極りが悪るそうにおずおず覗いて見た。
 鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
 所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
 内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
 内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
 ――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪の罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯な中童子である。ある日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片をふりまわして、毛の長い、痩せた尨犬を逐いまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上げの木だったのである。
 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった。
 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸の鳴る音が、うるさいほど枕に通って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むず痒いのに気がついた。手をあてて見ると少し水気が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
 内供は、仏前に香花を供えるような恭しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。


この物語の主題の一つは、目的を遂げたときに起こる空しさです。
内供の鼻が短くなったにもかかわらず、内供にとっては意外なことに、内供の周りのものは内供のことを哂わなくなるどころか、以前にも増して哂うようになります。

この理由を傍観者の利己主義に求めた芥川の思考は、まさに悩める近代人のものです。
――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

そして、人間の複雑な心理を洞察した描写でこの物語は終了します。
――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。


もう一つの主題は、自尊心、見栄の虚しさでしょう。
そうしたものとは無縁であるはずの高位の聖職者である内供が自尊心に苛まれていることを芥川はユーモアを交えながらも、残酷に描き出しています。
そして、内供の思いとは別に、内供は哂われ続けるでしょう。
いや、この顛末で内供が知られたくなかった、長い鼻を気にしていたことが皆に知れわたりましたし、その結果、無駄だったことを語り、内供はこれまで以上に哂われることと思います。
そして、内供の自尊心はさらに傷つくことでしょう。
そして、予想されるこの後のことを書かなかったことで、芥川はこの物語に余韻を生み出しています。

誰でも顔や身体についての悩みを持っています。そして、この手の煩悩からはなかなか逃れられないものです。
そういう意味でも、この物語は時代を超えた普遍性を持っていると思います。
それにしても、大学在学中にこのような人間の深層心理を描いた芥川は、やはり早熟の天才だったのかもしれません。



今日は、漱石が芥川龍之介の『』をほめた日です。

芥川龍之介は、東京帝国大学在学中の大正4(1915)年10月に『羅生門』を「帝国文学」に発表します。
そして、翌大正5(1916)年2月、成瀬正一久米正雄菊池寛松岡譲と共に同人誌「新思潮」(第4次)を発刊します。
この「新思潮」創刊号に芥川が掲載したのが『』です。

漱石は、この創刊号を読み、今から95年前の今日(1916年2月19日)、芥川に手紙を書き、『』を絶賛します。
芥川は、このことで小説家になる決意をしたといわれています。

今日は、その手紙を紹介します。

大正5年2月19日(土)に夏目漱石芥川龍之介に出した手紙

牛込区區早稲田南町七より 府下田端四三五芥川龍之介

 拜啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君ののものを讀んで見ましたあなたのものは大變面白いと思ひます落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あヽいふものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます然し「」丈では恐らく多數の人の眼に觸れないでせう觸れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身體の藥です
 久米君のも面白かつたことに事實といふ話を聽いてゐたから猶の事興味がありました然し書き方や其他の點になるとあなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀬君のものは失禮ながら三人の中で一番劣ります是は當人巻末で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます 以上
   二月十九日           夏目金之助
  芥川龍之介


この手紙の中で“久米君のもの”と書かれているのは、久米正雄がこの創刊号に掲載した『父の死』、“成瀬君のもの”と書かれているのは、成瀬正一が掲載した『骨晒し』のことと思われます。

このとき、芥川龍之介は23歳、夏目漱石は49歳でした。
漱石は、この手紙を書いた10か月後の12月9日に亡くなります。
この運命的な出会いがなければ、小説家・芥川龍之介が誕生していなかった可能性があると思うと人間の出会いの不思議さを感じます。



今日の謡の稽古は、『舎利』の2回目。

今日のの稽古は、『舎利』の2回目でした。
今日の場面は、出雲の国美保が関が、泉湧寺舎利を拝んでいると、里の者が現れ、一緒に舎利を拝もうと言う場面です。
※『舎利』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/shari.htm(名古屋春栄会のサイトから)

シテ「あら有難の御事や。仏在世の御時は。法の御声を耳にふれ。聞法値遇の結縁に。
   一劫を浮かみこの身ながら。二世安楽の心をうるに。後五の時世の今さらに。
   なお執心の見仏の縁。嬉しかりける.時節かな。

ワキ「われ仏この寺に旅居して。そのまま夜ふくる寺の鐘。声澄みわたる折ふしに。
   御法をたっとぶ声すなり。いかなる人にてましますぞ。

シテ「これはこの辺りに住む者なるが。お舎利を拝まんそのために。
   よりより寺辺に来れるなり。

ワキ「よし誰とてもその望み。お舎利を拝まん為ならば。同じ心ぞ我も旅人。
シテ「来るもよそ人。
ワキ「所も
シテ「また。
シテ・ワキ「都のほとり東山の。末に続ける.峰なれや。


今日のも、それほど難しいところはありませんでした。


一方、仕舞の稽古は、『盛久』の2回目。今日で最後まで進みました。

地謡「長居は恐れありと。まかり申しつかまつり。退出しける盛久が。
   心の内ぞゆゆしき。心の内ぞ.ゆゆしき。


この舞は、急いで立ち去ろうとしている感じを出して舞うようにとの指導を受けました。
なかなか難しいのですが、きりっと舞うよう心がけたいと思っています。



日展に出かけました。

第42回日展 東海展〔2011年1月19日(水)~2月13日(日)〕は、愛知県美術館ギャラリーで開催中です。
第42回日展 東海展の公式サイト:http://event.chunichi.co.jp/nitten/index.html

日展東海展2011_01

全国巡回指定作品274点と東海三県下の出品作品315点の合計589点が展示されていました。

日本画(第1科)では、大きなカバを横から描いた『悠々』(鈴木一正)や、背景の青色が美しい『』(村居正之)、茫洋とした感じの中に引き込まれるような魅力を感じる『』(西出茂弘)が印象に残りました。
また、全体的に暗いトーンの画面の中で真紅のバラが目に鮮やかな『すべての花が開くまで』(岩田壮平)も目を引きました。
※『』(村居正之):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42084.html日展の公式サイトから)
※『』(西出茂弘):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42101.html日展の公式サイトから)
※『すべての花が開くまで』(岩田壮平):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42044.html日展の公式サイトから)

洋画(第2科)では、写実的に描かれた野菜の立体感がすばらしい『東北の産物』(伊勢崎勝人)と画面の半分以上を占める赤い背景とリアルに描かれた文楽人形の対比が鮮やかな『逍遥・遠雷』(難波滋)が印象に残りました。
※『東北の産物』(伊勢崎勝人):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42188.html日展の公式サイトから)
※『逍遥・遠雷』(難波滋):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42235.html日展の公式サイトから)
 
彫刻(第3科)では、展示室を入ったところに展示されていた男性と犬の彫刻『ボルテラの詩人』(池川直)がが印象に残りました。
また、2頭の豚の動きが写実的な『そこに在る記憶』(植田努)も記憶に残る作品でした。
※『ボルテラの詩人』(池川直):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42334.html日展の公式サイトから)
※『そこに在る記憶』(植田努):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42455.html日展の公式サイトから)

(第5科)では、優雅なちらしがきと料紙の組合せが美しい『をみなへし』(田頭一舟)が印象に残りました。
※『をみなへし』(田頭一舟):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42748.html日展の公式サイトから)

日展東海展2011_02

工芸(第4科)は別の展示室でした。
ここでは、道化師に扮したヒヒのかわいらしさと背景の美しさが対照的な『道化師』(西塚龍)、こぼれ落ちるブドウが立体的な『静寂』(角康二)などの漆芸の作品や、背景の美しい藍色が細長い画面で一層際立つ『月光(II)』(加納俊治)などの和紙工芸の作品などが壁に展示されていました。
※『道化師』(西塚龍):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42571.html日展の公式サイトから)
※『静寂』(角康二):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42587.html日展の公式サイトから)
※『月光(II)』(加納俊治):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42518.html日展の公式サイトから)

また、展示台には、飴色の釉薬の艶が美しい『飴釉壺「兎の夢」』(大樋年朗)などの陶芸の作品や、シンプルでシャープなデザインが印象的な『天空の祈り』(向井弘子)〔鍍金・鍛金〕などの金属工芸の作品などが展示されていました。
※『飴釉壺「兎の夢」』(大樋年朗):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42576.html日展の公式サイトから)
※『天空の祈り』(向井弘子):http://www.nitten.or.jp/sakuhin/42/42553.html日展の公式サイトから)

今日は日曜日ということで、家族連れも多く大変賑わっていました。
日展は、毎年、非常に展示作品が多いので、見るのに疲れますが、今日は展示室が混雑していたので、いつも以上に疲れてしまいました。



UNIT TANDENのアルバムを聴きました。

UNIT TANDENというバンドの代表のジョバンニ高田さんから、バンド名と同名のアルバム『UNIT TANDEN』をいただきました。

全7曲が収録されています。
トドケ!デンパ
旅路の帆 麗しの風
近道 寄り道 遠まわり
甘き夢の数々
秋の実のうた(アコースティック・ショートバージョン)
グライダー
オリオンだって

UNIT TANDENは、メンバー4名で構成されているそうです。
 ジョバンニ・タカダ(Giovanni TAKADA) : Words&Music, Sanshin, Keyboad, Guitar, Photos, Pastel drawing etc.
 アスカ(Asuka) : Vocal
 シミズ・ユキ(SHIMIZU Yuki): Bass, Keyboard, Programming
 ミツイ・ヒサタケ(MITUI Hisatake):E&A Guitar

ピュアな感じのする楽曲が多かったです。
私のお気に入りは、三線の音色が印象的な「旅路の帆 麗しの風」です。
YOU TUBEで聴くことができますので、ぜひ一度聴いてみてください。
※「旅路の帆 麗しの風」:http://www.youtube.com/watch?v=S8GNPGNw_mQ(YOU TUBEから)

なお、アルバムは、muzieで視聴、購入できるようです。
muzieUNIT TANDENのページ:http://www.muzie.co.jp/artist/a049815/

代表のジョバンニ高田さんとは古い友人ですが、最近まで音楽活動をしていることを全く知りませんでした。
その事実に驚いたはもちろんですが、その才能の多彩さにも驚きました。


金春流ドイツ巡回公演も無事に終了したようです。

金春流能楽師の本田光洋師を団長とする「日独交流150周年記念 金春流ドイツ巡回公演」〔2011年1月17日(月)~30日(日))も無事に終了したようです。

公演は4都市で、5回行われたとのことです。

 1月19日 ベルリン 「舟弁慶
 1月20日 ベルリン 「葵上
 1月22日 ミュンヘン 「清経
 1月24日 エアフルト 「舟弁慶
 1月27日 デュッセルドルフ 「舟弁慶

公演の様子はなかなか日本ではわかりませんので、今日は、この公演の模様を紹介しているドイツ在住の日本人の方のブログを紹介します。

○1月22日のミュンヘン公演(「清経」)の様子
 グリューンさんのブログ『スピリチュアルな徒然織 in ドイツ
  2011年1月24日の日記:http://ameblo.jp/greenra/entry-10777950918.html
○1月27日のデュッセルドルフ公演(「舟弁慶」)の様子
 hirame2707さんのブログ『ひらめ日記
  2011年1月27日の日記:http://plaza.rakuten.co.jp/hirame2707/diary/201101270001/
 ・くろまつ・さんのブログ『趣味 ノ 電子手帖
  2011年1月28日の日記:http://plaza.rakuten.co.jp/schwarzkiefer/diary/201101280000/

また、参加された能楽師の方の中にもブログで様子を報告されている方がいらっしゃいますので、紹介します。
辻井八郎師のブログ『日々是能楽
  http://tsujii.exblog.jp/
五星さん(ブログでは本名は非公開のようです)のブログ『駆け出し能楽師の奮闘記
  http://kakedashino.blog11.fc2.com/

現地の雰囲気が少しはわかると思いますので、ぜひご覧ください。


Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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