2010/10/22 23:59:18
名古屋能楽堂十月定例公演に行きました。
名古屋能楽堂の10月の定例公演「能・狂言でたどる天下統一の道(後編) 徳川家康」と題て、慶長8(1603)年4月に京都の二条城で催された徳川家康将軍宣下祝賀能の演目の中から能『大江山』と狂言『朝比奈』が演じられました。
※能『大江山』のあらすじ:http://www.noh-kyogen.com/story/a/ooeyama.html(大槻能楽堂のサイトから)
※狂言『朝比奈』のあらすじ:http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc12/enmoku/asaina.html(文化デジタルライブラリーから)

徳川家康は 関ヶ原の戦い(1600年)で勝利したのち、天下人として武家の統領である征夷大将軍に就任する道を選びます。
慶長8(1603)年2月12日、京都の伏見城にて後陽成天皇からの征夷大将軍の宣旨を受けると、翌3月には竣工したばかりの二条城に移り、公家や大名衆を集めて拝賀の儀式を行います。
その後、4月の4日、6日、7日の3日間にわたって、当時の代表的な能役者を集め、盛大に将軍宣下祝賀能を開きます。
これが前例となり、以後、徳川幕府では代々、将軍が就任するときには祝賀能が開かれることになります。
さらに、同じ年の7月30日、大坂城で家康の孫・千姫と豊臣秀頼との婚礼が行われたときも、祝賀能が催されます。
こうして、婚礼や世継ぎの誕生、賓客の饗応など、重要な場面には演能がつきものとなり、能は“武家の式楽”と称されるようになります。
『大江山』は、将軍宣下祝賀能の初日の慶長8年4月4日の能としては8番目の演目として、金剛流により演じられています。
また、『朝比奈』は、2日目の4月6日に、狂言としては5番目の演目として、大蔵流により演じられています。
今日の狂言『朝比奈』は、シテ〔朝比奈三郎〕が鹿島俊裕師、アド〔閻魔大王〕が佐藤融師という狂言共同社の若手と中堅の競演でした。
鹿島俊裕師は背が高いこともあり、朝比奈三郎の堂々とした武者ぶりがよく出ていました。
佐藤融師の閻魔大王は、狂言面の関係でしょうが、少し声がこもった感じで聞き取りにくい箇所があったのが残念でしたが、朝比奈三郎に振り回される場面など情けない感じがよく出ていて良かったです。
また、この演目は、狂言では珍しく地謡と囃子のある演目でしたが、井上靖浩師らによる地謡がしっかりしていて安心して見ていられました。
能『大江山』は、シテの衣斐正宜師が小柄な方なので、前シテ〔酒呑童子〕の時はそれほど感じなかったのですが、後シテ〔鬼神〕でワキ〔源頼光〕らと斬りあう場面では若干迫力不足に見えてしまいました。
ただ、酒呑童子が酒を飲みながら、頼光らに大江山に隠れ住むようになった経緯を語る場面の謡は、さすがに厚みがあり、声もはっきりしていて聞きやすく、すばらしかったです。
また、アイの一人〔濯女〕が切戸から出入りしていました。こういう場面はあまり見たことがなかったので、珍しく感じました。
中入で間狂言が退場した後、作り物がでてくるまで少し時間が空きました。
この演目では、シテだけでなく、ワキとワキツレも装束を替える必要があるからだと思いますが、この時間でせっかく能の世界に入り込んでいた見所の空気が張り詰めていた糸が切れるように途切れてしまいました。
間狂言の時間も含め、もう少し工夫できていたら良かったのにと残念に思いました。
今日の見所には外国人の姿も目立ちました。
能『大江山』は初めて能を見る人にもわかりやすかったと思いますが、名古屋能楽堂のイヤホンガイドは能しかないので、狂言『朝比奈』は難しかったのではないかと感じました。
名古屋能楽堂の10月の定例公演「能・狂言でたどる天下統一の道(後編) 徳川家康」と題て、慶長8(1603)年4月に京都の二条城で催された徳川家康将軍宣下祝賀能の演目の中から能『大江山』と狂言『朝比奈』が演じられました。
※能『大江山』のあらすじ:http://www.noh-kyogen.com/story/a/ooeyama.html(大槻能楽堂のサイトから)
※狂言『朝比奈』のあらすじ:http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc12/enmoku/asaina.html(文化デジタルライブラリーから)

徳川家康は 関ヶ原の戦い(1600年)で勝利したのち、天下人として武家の統領である征夷大将軍に就任する道を選びます。
慶長8(1603)年2月12日、京都の伏見城にて後陽成天皇からの征夷大将軍の宣旨を受けると、翌3月には竣工したばかりの二条城に移り、公家や大名衆を集めて拝賀の儀式を行います。
その後、4月の4日、6日、7日の3日間にわたって、当時の代表的な能役者を集め、盛大に将軍宣下祝賀能を開きます。
これが前例となり、以後、徳川幕府では代々、将軍が就任するときには祝賀能が開かれることになります。
さらに、同じ年の7月30日、大坂城で家康の孫・千姫と豊臣秀頼との婚礼が行われたときも、祝賀能が催されます。
こうして、婚礼や世継ぎの誕生、賓客の饗応など、重要な場面には演能がつきものとなり、能は“武家の式楽”と称されるようになります。
『大江山』は、将軍宣下祝賀能の初日の慶長8年4月4日の能としては8番目の演目として、金剛流により演じられています。
また、『朝比奈』は、2日目の4月6日に、狂言としては5番目の演目として、大蔵流により演じられています。
今日の狂言『朝比奈』は、シテ〔朝比奈三郎〕が鹿島俊裕師、アド〔閻魔大王〕が佐藤融師という狂言共同社の若手と中堅の競演でした。
鹿島俊裕師は背が高いこともあり、朝比奈三郎の堂々とした武者ぶりがよく出ていました。
佐藤融師の閻魔大王は、狂言面の関係でしょうが、少し声がこもった感じで聞き取りにくい箇所があったのが残念でしたが、朝比奈三郎に振り回される場面など情けない感じがよく出ていて良かったです。
また、この演目は、狂言では珍しく地謡と囃子のある演目でしたが、井上靖浩師らによる地謡がしっかりしていて安心して見ていられました。
能『大江山』は、シテの衣斐正宜師が小柄な方なので、前シテ〔酒呑童子〕の時はそれほど感じなかったのですが、後シテ〔鬼神〕でワキ〔源頼光〕らと斬りあう場面では若干迫力不足に見えてしまいました。
ただ、酒呑童子が酒を飲みながら、頼光らに大江山に隠れ住むようになった経緯を語る場面の謡は、さすがに厚みがあり、声もはっきりしていて聞きやすく、すばらしかったです。
また、アイの一人〔濯女〕が切戸から出入りしていました。こういう場面はあまり見たことがなかったので、珍しく感じました。
中入で間狂言が退場した後、作り物がでてくるまで少し時間が空きました。
この演目では、シテだけでなく、ワキとワキツレも装束を替える必要があるからだと思いますが、この時間でせっかく能の世界に入り込んでいた見所の空気が張り詰めていた糸が切れるように途切れてしまいました。
間狂言の時間も含め、もう少し工夫できていたら良かったのにと残念に思いました。
今日の見所には外国人の姿も目立ちました。
能『大江山』は初めて能を見る人にもわかりやすかったと思いますが、名古屋能楽堂のイヤホンガイドは能しかないので、狂言『朝比奈』は難しかったのではないかと感じました。
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