- 2010/10/31 仕舞『養老』の稽古
- 2010/10/30 殺された天一坊(2)
- 2010/10/29 殺された天一坊(1)
- 2010/10/28 ミニカトレアの花
- 2010/10/27 徳川美術館・蓬左文庫 「尾張徳川家の名宝-里帰りの名品を含めて-」(その3)
- 2010/10/26 徳川美術館・蓬左文庫 「尾張徳川家の名宝-里帰りの名品を含めて-」(その2)
- 2010/10/25 徳川美術館・蓬左文庫 「尾張徳川家の名宝-里帰りの名品を含めて-」(その1)
- 2010/10/24 ホトトギスの花(2010年)
- 2010/10/23 葛城(1)
- 2010/10/22 名古屋能楽堂十月定例公演
- 2010/10/21 ベランダのバラ(2010年10月-その2)
- 2010/10/20 名古屋市博物館 名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」(3)
2010/10/31 21:23:12
今日は、名古屋金春会の前の最後の稽古でした。
今日は、発表会前の最後の稽古ということで、稽古場が混雑していたにもかかわらず、仕舞『養老』は、通しの稽古を4度もしていただきました。
※『養老』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yoro.htm(名古屋春栄会のサイトから)
やはり、シテ謡について注意を受けました。
また、以前からの癖ですが、小回りや角取りカザシの後に正面を向いたときに俯きがちになる点もご指導いただきました。
シテ謡を謡いながら舞うところが最大の課題です。あと一週間でどこまで修正できるか心配です。
11月7日(日)午後2時から名古屋能楽堂において、名古屋金春会が開催されます。
また、当日、午前中は名古屋地区の金春流の合同発表会の名古屋金春流友会が、同じく名古屋能楽堂で開催されます。
お近くの方は、ぜひ足をお運びください。
※第31回名古屋金春会の番組:http://www.syuneikai.net/konparu2010prog.htm(名古屋春栄会のサイトから)
※第31回名古屋金春流友会の番組:http://www.syuneikai.net/ryuyu2010prog.htm(名古屋春栄会のサイトから)
今日は、発表会前の最後の稽古ということで、稽古場が混雑していたにもかかわらず、仕舞『養老』は、通しの稽古を4度もしていただきました。
※『養老』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yoro.htm(名古屋春栄会のサイトから)
やはり、シテ謡について注意を受けました。
また、以前からの癖ですが、小回りや角取りカザシの後に正面を向いたときに俯きがちになる点もご指導いただきました。
シテ謡を謡いながら舞うところが最大の課題です。あと一週間でどこまで修正できるか心配です。
11月7日(日)午後2時から名古屋能楽堂において、名古屋金春会が開催されます。
また、当日、午前中は名古屋地区の金春流の合同発表会の名古屋金春流友会が、同じく名古屋能楽堂で開催されます。
お近くの方は、ぜひ足をお運びください。
※第31回名古屋金春会の番組:http://www.syuneikai.net/konparu2010prog.htm(名古屋春栄会のサイトから)
※第31回名古屋金春流友会の番組:http://www.syuneikai.net/ryuyu2010prog.htm(名古屋春栄会のサイトから)
スポンサーサイト
2010/10/30 21:49:42
後期クイーン的問題か?
今日は、浜尾四郎の『殺された天一坊』の後半を紹介します。
『殺された天一坊』(浜尾四郎)
四
所が、斯ういう暗い陰気なお顔色が、或る時期から急に再び明るく輝き出すようになッて参りました。それはいつ頃でございましたか、又如何いう事からと申す事ははっきりおぼえませぬが、あくる年の春、或るお親しいお方とお話をなさッた後の事と存じて居ります。何でも其の時のお話の中に、先程申しました橋本さきという女と煙草屋彦兵衛という男の名が出ましたと見え御奉行様はお一人におなり遊ばしてから、頻りと其の名を繰り返しておいでになりましたが、急に晴やかなお顔色におなり遊ばして、お側の者をお召しになり不意に「世間は余を名奉行だと申して居るか」とおたずねになったのでございます。お側の者がその旨申し上げますと、晴やかなお顔色で更に「悪人だから処刑になるのか、処刑になるから悪人なのだか、判るか」と笑いながら仰せられたのでございました。
そして其の日から再び御奉行様はもとのように大層明るく、御機嫌もよくおなり遊ばしたのでございます。ただ、何と申しましても以前のようなあの明るさ華やかさは最早見られませんでしたけれども。そうして矢張り折々は何となく暗い顔をなさるのでございました。
何故斯う又お変り遊ばしたのでございましょうか。
私今となッて考えまするに御奉行様は御自身のお裁きに疑をお懐きになるようになり、自信をお失い遊ばしましてから、きッと、長い間、苦しみと悩みの中をお迷いになったに相違ございませぬ。あれ程迄にお信じになり御頼りになッておいでになッた御自身でございます、これが思いがけない事実によッて裏切られましたのでございますもの。若し、あの儘に続いたなら、御奉行様はやがてそのお役目をお退き遊ばしたに違いないのでございます。御奉行様がお役目をお退きにならず、而も晴やかに再び活き活きとお勤め始めになりましたのは何故でございましたでしょう。
浅墓な私の一存と致しましては斯う考えたいのでございます。御奉行様は一時大変に信頼遊ばしていらしッた自分のお智恵に対して自信をお失いになッた。けれども何か之に代るべき何物かをはッきりとお掴みになッたのでございます。それは力と申すものでございます。と申してもそれは奉行様というお役目の力ではございませぬ。御奉行様のお裁きが、天下の人々に与えます一ツの信仰、御奉行様の盲目的な信仰という一ツの力をはッきりとお知りになッたのでございます。
何故と申せ、御奉行様をお悩ませ申した事件は、一方の方では御奉行様のお智恵を裏切ッているようではございますが、一面では必ず御奉行様のお力をはッきりと示して居るではございませんか。
橋本さきは何故死ななければならなかッたか。御奉行様がお負かしになったからでございます。御奉行様が「偽り者め」と一言仰言ッたからでございます。「さき」が真の母親であッたか如何かはどうでもよい事なのでございます。天下の人々は御奉行様がお負かしになったから「さき」が嘘の母親だと信じるのでございます。煙草屋彦兵衛に致しましても左様ではございませんでしょうか。彦兵衛が罪人だからお処刑になったのだと申しますよりは、御奉行様が御処刑になさッたから悪人でもあり罪人でもある、と多くの人々は考えるのでございます。
之は並々の奉行の出来る事ではございませぬ。あの御奉行様なればこそでございます。天下の人達が神様のように尊敬致し、名奉行、名裁判と申し上げているからこそ斯様なことになるのでございます。
考えるのも恐ろしい事でございますが「橋本さき」「煙草屋彦兵衛」の外の、数多い事件に致しましても、幸か不幸か後に色々な事実が現われませぬからその儘になって居りますようなものの、凡てが天下の人々が信じて居ります通りの事実であったのだと、誰が申すことが出来るでございましょう。
所詮は神様でない限り、人が人を裁く限り、いくら御奉行様でもお間違いがないとは申せますまい。出来ない事を執拗に探るよりは、天下の御法というものの有難さをはっきり知らせる方が世の為なのでございませんでしょうか。
御奉行様に対する天下の信仰はそれで立派な一つの御治世の道具になるのでございます。
なまじ事実を一つでも探り出して今更其の信仰を動かすよりは、いっその事ますます其の信仰を強くしてそれを以て世を治めて行こうとお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。長い長い暗闇をお通りぬけになった御奉行様は、斯うやってようやく明るみにお出ましになったのだと、憚り乍ら私は考えますのでございます。
つまり、御奉行様は智恵に就いての御自信をお失いになった代りに新に、御自分の力に就いてはっきりと御自信をお掴みになったのでございます。斯う考えますせいか、初めはただ御自分の御名声がもて囃されるのをただ笑って聞いていらっした御奉行様も、其の後は大層真面目に世評に気をくばっていらしったように存ぜられるのでございます。
さて、斯うやって折角安住の地をお見出しになりました御奉行様は間もなく又もお悩みにならなければならなくなったのでございます。御奉行様のお智恵でも、お力でも如何ともする事の出来ないような一件が持ち上ったのでございました。それは申すまでもなく、天一坊の一件でございます。
五
天一坊が如何いう男で、如何いう事を申し出したか、というような事に就きましては私は今更事新しく申し上げますまい。あなた様方もよく御存じの事と存じますから。
私はただあの頃の御奉行様の御有様を申し上げますでございましょう。
天一坊という名を御奉行様がお耳にお入れになりましたのは、未だあの男が江戸表に参りませず、上方に居た頃だったと存じます。
恐れ多くも公方様の御落胤という天一坊が数人の主だった者と共に江戸表に参ろうという噂が早くも聞えたのでございました。
此の報知を耳になさった時、御奉行様はいつになく暗い顔をなされ、それからは偉い方々と頻りに行き来をなさったようにおぼえます。中にも伊豆守様御邸には屡々御出入遊ばし御密談がございましたが、いずれも天一坊のお話だったに違いございませぬ。
天一坊が愈々江戸に参りました時、御奉行様も伊豆守様其の外の方々と一所に御対面遊ばしました。其の時は伊豆守様自らお調べになったと、申す事でございますけれども、御奉行様も亦はじめて此の時天一坊を御覧になったのでございました。
私は其の夜の御奉行様の御様子を今はっきりと思い浮べる事が出来るのでございます。伊豆守様、讃岐守様、山城守様などと共に天一坊にお会いになりました御奉行様は、其の夜蒼いお顔を遊ばしてお帰りになったのでございます。私はあの時程、恐ろしい、厳しいお様子を拝見致した事はございませぬ。それは決して、今迄に時々ございましたあの暗いお顔ではないのでございます。ただお心にお悩みをもっておいでの時の御様子ではないのでございます。それは何かただならぬ御決心を遊ばしておいでのように見えたのでございました。
之は私、御奉行様を存じ上げまして以来はじめての出来事なのでございます。未だはっきりお調べもないうち、たった一度お会いになっただけで御決心をなさるなどという事はそれ迄決してなかった事でございます。
仮りにも名奉行と世に謳われる御奉行様の御事でございます。その人の顔や様子の美醜に依って予め之は斯うとお定めになるような事は決してございませんでした。それどころではございませぬ。「裁きの以前に予め斯うだろうと思ってはならない。それは正しい裁きと云うものではない。相手の顔の美醜に動かされてはならない。それでは正しい裁きが出来ぬものだ」と平生からお役向のお家来達にくれぐれもお諭しになって居られるのでございます。
此の日、伊豆守様が主に天一坊とお物語りになったそうでございます。そうして天一坊の側からはお落胤という証拠と致して公方様お墨附、並びにお短刀を示し、その時居られました方々にも皆々様之を拝見なされ、正物にまぎれもなき物と定ったそうでございます。御奉行様も其の場に居られて、そのお様子をすっかりお見届け遊ばされたわけなのでございます。
お役目柄、御奉行様は半响でも対座なさりますれば必ず相手の人物をお見抜き遊ばす方でございます。それに致しましても天一坊が公方様のお胤であるかどうかと申す事まではお判りにはなりますまい。仮令、天一坊という男の性質がよろしくないとお見抜き遊ばしたにもせよ、お胤でないとは申せないわけでございます。まして持参のお証拠の品々は紛れもなく正しい物と定まって居りますのでございます。
それだのに御奉行様のお決意は何を表わして居るのでございましょう。申す迄もなく私などには初めは頓と合点が参りませんでございました。
公方様のお落胤が江戸にお出になった、と云う事で江戸中は大騒ぎでございます。公方様に於かせられましてもおぼえある事と見えまして近くお対面相い成るやにも承るようになって参りました。
其の間、御奉行様は毎日のようにお登城を遊ばし、その度に暗い暗い顔色をしてお戻りになります。高貴のお方々も度々御奉行様にお会いになります御様子、その中、私にも何となく御奉行様の御決心の程もお察しがつかぬ事もなくなって参ったのでございます。
浅慮の私からはっきりと申しますれば、御奉行様は始めて、天一坊にお対面になりましてから以来、何故か天一坊が公方様のお落胤であるという事実を信じまい信じまいとなさって居られたのでございます。奉行という重いお役目から、大事には大事をとって、と仰せられながら、お家来の衆を遙々紀州へおつかわしになりました時など、事の真相を糺すというよりも、あれは嘘だと申す証拠を掴みたがって居られるようにさえ感ぜられましたのでございました。どうかして天一坊を偽者だという証拠を得たい、どうかしてあれが御落胤でないという事を確信したい、斯ういうのが御奉行様の御心持であったに相違ございませぬ。
何故と申すに、紀州に遣わされました方々が、天一坊が偽者であるという証拠を得られずに却って真ものであるという証拠を伝えて参りました時の御奉行様の御失望、御苦悩を私ははっきりと思い出す事が出来るからでございます。今までのお裁きの場合には、黒白何れか一方の証拠をお掴みになりますと御奉行様は世にも幸福な御様子をなさるのでございました。ところが今度に限ってそうでないのでございます。之は如何いうわけなのでございましょう。
信じまい、信じまい、という時は過ぎ去りました。最早信じまいという事実を信じなければならぬ時が参ったのでございます。
私が初めに、真に御奉行様が御役目の大切な所をお掴みになろうとお苦しみ遊ばしたと申し上げました時は、実に此の時なのでございました。
では何故ああ迄、天一坊を偽者とお信じになりたかったのでございましょうか。
之は色々に考えられますのでございますが、私が今思いますのは全く「天下の御為」という事からではなかったのではございませんでしょうか。
つまり、御奉行様は天一坊の性質をお危ぶみになったのでございます。私には詳しい事は判り難ねますけれども、若し天一坊を公方様の御胤と認める時は、必ず天一坊は相当の高い位につかれるに相違ございませんのです。只今の世は太平とは申せ、位に似つかわしくない人間を或る力のある位置におく事が、どんなに恐ろしいものであるかという事を御奉行様は御考えになったのでございます。今まで全く微力だった人間に、不意に高い位置と大きな権力とを与える事は仮令それが当然の筋合であろうとも、その人間の性質によってはどんなに危険なものであるかをお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。俗に氏より育ちと申すことがございます、仮令公方様の御胤にもせよ紀州に生れて九州に流れ野に伏し山に育って来た天一坊が、公方様にも次ぐ位に似つかわしい筈はございませぬ。さすれば一人を高い位置におく事は天下に禍いを生む事になるのではございますまいか。
と申して天下の名奉行とも云われる御奉行様が、ほんとうの事実を曲げてもよろしいのでございましょうか。成程一人の生命を奪って天下を救う事は正しいように考えられます。けれども今の御治世に御法に依らないで其の一人の生命を奪う事が出来るものでございましょうか。而も事実はその一人は生命を奪われるどころか、栄貴を望む事の出来る立場に居るものでございます。御奉行様の御苦心は此処にあったのではなかったかと、私は恐れ乍ら御察し致して居るものなのでございます。
六
事実が判りました時はあれ程御失望なさったらしい御奉行様も、其の翌日から再び厳粛な面持でお勤めにお出かけになりました。其の頃、お役目向の方々の外に、伊豆守様はじめ高位の方々も頻りと御奉行様と往来をなされて居られましたのでございます。
或る日、夜更けて漸く御帰り遊ばしましたが、其の日は昼からずっとあの学者として名高い荻生様の御邸に参られ永く永くお物語り遊ばしたと申す事でございます。其の夜から御奉行様のお居間には和漢の御書がたくさんに開かれましたが、皆「正」とか「義」とか申すむずかしい事に就いての御本だったように存ぜられます。
愈々最後に、明日は御自身で天一坊をお調べ遊ばし、それによって御奉行様が何れともお定めにならなければならぬと定りました其の前夜、御奉行様のお邸には荻生様、伊藤様の両先生が見えておそく迄お物語り遊ばしましたのでございます。
天一坊お調べの節の有様はあなた様方もよく御存じの事と存じますが、御奉行様はいつもに似ず御低声で、お訊ねも主に外形にばかり注がれて居たと申す事でございます。天一坊の乗輿に就いてのお訊ね、御紋についてのお調べ、之皆外形の事柄でございます。肝心の御落胤か否かと申すことに就きましては、どうしてあのお墨附と御短刀だけで天一坊が其の本人だと云う事が出来るかというような事を仰せられただけだと申すことでございます。御言葉が激して来て天一坊にお迫りになった時、あの美しい僧形の若人は世にも悲しげな顔をして斯う申したという事でございます。
「世にまことの親をほんとに知る事の出来る人間が居りましょうか。誰しも生れた時の記憶が有るものではありません。親なる者が、自分がお前の親だというのをただ信じて居るに過ぎないのです。私のように、生れた時から私がお前の父だ、私がお前の母だと云ってくれる者がなかった人間は、不幸にも、ただただ周囲の者の云う事を信ずるより外、道がないのです。私が物心ついても誰もお前の父だ、お前の母だと云って出て来てくれる者はありませんでした。私が初めて父母の名と、其の行方を知ったのは、私を育ててくれた祖母が亡くなった時です。母はもはや世に居りませんでした。私を生んでくれた時に死んだのです。父の名を聞いた時、私は心から驚きました。と同時に、どうかして一度は会いたいと心から願いました。あなたは親と云ってくれる者を一人ももたずに育って来た人間の淋しさを御存じですか。あなたは何と考えていらっしゃるかも知れませんが、私はただ真実の父に会いたいばかりなのです。外に何も望んで居るわけではありませぬ。それだのに不幸に生み付けられた私は何という更に大きな不幸に出会わなければならないのでしょう。私は寧ろ名もなき人の子として生れたかったのです。さすれば父は喜んで私に会ってくれたでしょう。斯様に奉行を間に入れて罪人のように我が生みの子を取り扱わないでも済んだ筈です。思えば私の父も不幸な人間です。その生みの子に直ぐ会うわけにも行かないのですから。けれど、若し父にほんとうにおぼえがあれば必ず会いたがって居るに違いありませぬ」
此の愚かな、けれど真直な天一坊の答えはあの男の為には運命を一時に決してしまったのでございました。あの男は不幸に生れ付きながら更に一番不幸な最後を、此の言葉が生み出す事を知らぬ程若かったのでございます。あの男はただ父親に会いたかったと申して居ります。それはそうに間違いございますまい。けれど御奉行様に致しますれば、それはただそれだけの意味にはならないのでございます。御奉行様は世の為に此の哀れな人の子を其の親に会わしてやることはお出来にならなかったのでございます。
お調べの果は、御奉行様の為にも、又天一坊の為にも余りに悲惨すぎて詳しく申し上げる言葉もございませぬ。御奉行様の御取り計らいで、天一坊は全く偽者なる事に定りましたのでございます。
「天下を欺す大かたりめ」之が御奉行様が最後に天一坊に仰言ったお言葉でございますが、いつもに似ず御声に慄えを帯びておいでになったそうでございます。
お邸にお帰り遊ばし、落葉散り敷く秋のお庭にお下り立ち遊ばした時の、御奉行様のお顔色は全く死人の色のようでございました。
お処刑の済んだ事をお聞きになりました時、ただ一言「そうか」と仰せられまして淋しく御家来の顔をお眺めになりましたが、お伝えに上った御家来は其の時御奉行様にじっと見つめられて、総身に水を浴びせられたように、ぞっと致したと申す事でございます。
其の時以来、再びあの暗い陰気な御方におなり遊ばしたのでございますが、何故か私には、最早昔の晴やかな愉快なお顔色は、永く永く御奉行様から去ってしまったように考えられてなりません。
私は御奉行様の此のお裁きが、正しいか正しくないか、全く存じませぬ。いいえ、ほんとうを申せば、何故天一坊がお処刑にならなければならなかったかという事さえほんとうには解らないのでございます。私はただ私が考えましただけの事を申し上げたに過ぎないのでございます。御奉行様のあの御苦悩を思い、天一坊の余りにも痛ましい運命を考えますにつけ、拙き筆を運びまして、思う事ありし事、あとさきの順序もなく書き綴りましたのでございます。
この作品の内容と主題については、作者の無駄のない文章で言い尽くされていると思いますので、付け加える言葉を持ちません。
そこで、冒頭にも書いた“後期クイーン的問題”とこの作品についての私見を少し書かせていただきます。
読み終わって、この短編は、エラリー・クイーンより10年以上前に、いわゆる“後期クイーン的問題”を正面から取り上げた作品ではないかと感じました。
ちなみに、この『殺された天一坊』は、エラリー・クイーンのデビュー作『ローマ帽子の謎』と同じ昭和4(1929)年に発表されています。
“後期クイーン的問題”とは、クイーンが『災厄の町』(1942年)以降の作品で、名探偵エラリーを“間違いを犯し苦悩することもある人間”として描いたことに由来する問題です。
今では、作者と読者の関係で生じる“第一の問題(作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと)”とそこから生じる“第二の問題(作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非)”という名探偵の存在そのものに関わる深刻な葛藤の2つに分けて整理されています。
※後期クイーン的問題:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%9A%84%E5%95%8F%E9%A1%8C(Wikipediaから)
この意味からも、この作品は時代を超える名作だと思います。
今日は、浜尾四郎の『殺された天一坊』の後半を紹介します。
『殺された天一坊』(浜尾四郎)
四
所が、斯ういう暗い陰気なお顔色が、或る時期から急に再び明るく輝き出すようになッて参りました。それはいつ頃でございましたか、又如何いう事からと申す事ははっきりおぼえませぬが、あくる年の春、或るお親しいお方とお話をなさッた後の事と存じて居ります。何でも其の時のお話の中に、先程申しました橋本さきという女と煙草屋彦兵衛という男の名が出ましたと見え御奉行様はお一人におなり遊ばしてから、頻りと其の名を繰り返しておいでになりましたが、急に晴やかなお顔色におなり遊ばして、お側の者をお召しになり不意に「世間は余を名奉行だと申して居るか」とおたずねになったのでございます。お側の者がその旨申し上げますと、晴やかなお顔色で更に「悪人だから処刑になるのか、処刑になるから悪人なのだか、判るか」と笑いながら仰せられたのでございました。
そして其の日から再び御奉行様はもとのように大層明るく、御機嫌もよくおなり遊ばしたのでございます。ただ、何と申しましても以前のようなあの明るさ華やかさは最早見られませんでしたけれども。そうして矢張り折々は何となく暗い顔をなさるのでございました。
何故斯う又お変り遊ばしたのでございましょうか。
私今となッて考えまするに御奉行様は御自身のお裁きに疑をお懐きになるようになり、自信をお失い遊ばしましてから、きッと、長い間、苦しみと悩みの中をお迷いになったに相違ございませぬ。あれ程迄にお信じになり御頼りになッておいでになッた御自身でございます、これが思いがけない事実によッて裏切られましたのでございますもの。若し、あの儘に続いたなら、御奉行様はやがてそのお役目をお退き遊ばしたに違いないのでございます。御奉行様がお役目をお退きにならず、而も晴やかに再び活き活きとお勤め始めになりましたのは何故でございましたでしょう。
浅墓な私の一存と致しましては斯う考えたいのでございます。御奉行様は一時大変に信頼遊ばしていらしッた自分のお智恵に対して自信をお失いになッた。けれども何か之に代るべき何物かをはッきりとお掴みになッたのでございます。それは力と申すものでございます。と申してもそれは奉行様というお役目の力ではございませぬ。御奉行様のお裁きが、天下の人々に与えます一ツの信仰、御奉行様の盲目的な信仰という一ツの力をはッきりとお知りになッたのでございます。
何故と申せ、御奉行様をお悩ませ申した事件は、一方の方では御奉行様のお智恵を裏切ッているようではございますが、一面では必ず御奉行様のお力をはッきりと示して居るではございませんか。
橋本さきは何故死ななければならなかッたか。御奉行様がお負かしになったからでございます。御奉行様が「偽り者め」と一言仰言ッたからでございます。「さき」が真の母親であッたか如何かはどうでもよい事なのでございます。天下の人々は御奉行様がお負かしになったから「さき」が嘘の母親だと信じるのでございます。煙草屋彦兵衛に致しましても左様ではございませんでしょうか。彦兵衛が罪人だからお処刑になったのだと申しますよりは、御奉行様が御処刑になさッたから悪人でもあり罪人でもある、と多くの人々は考えるのでございます。
之は並々の奉行の出来る事ではございませぬ。あの御奉行様なればこそでございます。天下の人達が神様のように尊敬致し、名奉行、名裁判と申し上げているからこそ斯様なことになるのでございます。
考えるのも恐ろしい事でございますが「橋本さき」「煙草屋彦兵衛」の外の、数多い事件に致しましても、幸か不幸か後に色々な事実が現われませぬからその儘になって居りますようなものの、凡てが天下の人々が信じて居ります通りの事実であったのだと、誰が申すことが出来るでございましょう。
所詮は神様でない限り、人が人を裁く限り、いくら御奉行様でもお間違いがないとは申せますまい。出来ない事を執拗に探るよりは、天下の御法というものの有難さをはっきり知らせる方が世の為なのでございませんでしょうか。
御奉行様に対する天下の信仰はそれで立派な一つの御治世の道具になるのでございます。
なまじ事実を一つでも探り出して今更其の信仰を動かすよりは、いっその事ますます其の信仰を強くしてそれを以て世を治めて行こうとお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。長い長い暗闇をお通りぬけになった御奉行様は、斯うやってようやく明るみにお出ましになったのだと、憚り乍ら私は考えますのでございます。
つまり、御奉行様は智恵に就いての御自信をお失いになった代りに新に、御自分の力に就いてはっきりと御自信をお掴みになったのでございます。斯う考えますせいか、初めはただ御自分の御名声がもて囃されるのをただ笑って聞いていらっした御奉行様も、其の後は大層真面目に世評に気をくばっていらしったように存ぜられるのでございます。
さて、斯うやって折角安住の地をお見出しになりました御奉行様は間もなく又もお悩みにならなければならなくなったのでございます。御奉行様のお智恵でも、お力でも如何ともする事の出来ないような一件が持ち上ったのでございました。それは申すまでもなく、天一坊の一件でございます。
五
天一坊が如何いう男で、如何いう事を申し出したか、というような事に就きましては私は今更事新しく申し上げますまい。あなた様方もよく御存じの事と存じますから。
私はただあの頃の御奉行様の御有様を申し上げますでございましょう。
天一坊という名を御奉行様がお耳にお入れになりましたのは、未だあの男が江戸表に参りませず、上方に居た頃だったと存じます。
恐れ多くも公方様の御落胤という天一坊が数人の主だった者と共に江戸表に参ろうという噂が早くも聞えたのでございました。
此の報知を耳になさった時、御奉行様はいつになく暗い顔をなされ、それからは偉い方々と頻りに行き来をなさったようにおぼえます。中にも伊豆守様御邸には屡々御出入遊ばし御密談がございましたが、いずれも天一坊のお話だったに違いございませぬ。
天一坊が愈々江戸に参りました時、御奉行様も伊豆守様其の外の方々と一所に御対面遊ばしました。其の時は伊豆守様自らお調べになったと、申す事でございますけれども、御奉行様も亦はじめて此の時天一坊を御覧になったのでございました。
私は其の夜の御奉行様の御様子を今はっきりと思い浮べる事が出来るのでございます。伊豆守様、讃岐守様、山城守様などと共に天一坊にお会いになりました御奉行様は、其の夜蒼いお顔を遊ばしてお帰りになったのでございます。私はあの時程、恐ろしい、厳しいお様子を拝見致した事はございませぬ。それは決して、今迄に時々ございましたあの暗いお顔ではないのでございます。ただお心にお悩みをもっておいでの時の御様子ではないのでございます。それは何かただならぬ御決心を遊ばしておいでのように見えたのでございました。
之は私、御奉行様を存じ上げまして以来はじめての出来事なのでございます。未だはっきりお調べもないうち、たった一度お会いになっただけで御決心をなさるなどという事はそれ迄決してなかった事でございます。
仮りにも名奉行と世に謳われる御奉行様の御事でございます。その人の顔や様子の美醜に依って予め之は斯うとお定めになるような事は決してございませんでした。それどころではございませぬ。「裁きの以前に予め斯うだろうと思ってはならない。それは正しい裁きと云うものではない。相手の顔の美醜に動かされてはならない。それでは正しい裁きが出来ぬものだ」と平生からお役向のお家来達にくれぐれもお諭しになって居られるのでございます。
此の日、伊豆守様が主に天一坊とお物語りになったそうでございます。そうして天一坊の側からはお落胤という証拠と致して公方様お墨附、並びにお短刀を示し、その時居られました方々にも皆々様之を拝見なされ、正物にまぎれもなき物と定ったそうでございます。御奉行様も其の場に居られて、そのお様子をすっかりお見届け遊ばされたわけなのでございます。
お役目柄、御奉行様は半响でも対座なさりますれば必ず相手の人物をお見抜き遊ばす方でございます。それに致しましても天一坊が公方様のお胤であるかどうかと申す事まではお判りにはなりますまい。仮令、天一坊という男の性質がよろしくないとお見抜き遊ばしたにもせよ、お胤でないとは申せないわけでございます。まして持参のお証拠の品々は紛れもなく正しい物と定まって居りますのでございます。
それだのに御奉行様のお決意は何を表わして居るのでございましょう。申す迄もなく私などには初めは頓と合点が参りませんでございました。
公方様のお落胤が江戸にお出になった、と云う事で江戸中は大騒ぎでございます。公方様に於かせられましてもおぼえある事と見えまして近くお対面相い成るやにも承るようになって参りました。
其の間、御奉行様は毎日のようにお登城を遊ばし、その度に暗い暗い顔色をしてお戻りになります。高貴のお方々も度々御奉行様にお会いになります御様子、その中、私にも何となく御奉行様の御決心の程もお察しがつかぬ事もなくなって参ったのでございます。
浅慮の私からはっきりと申しますれば、御奉行様は始めて、天一坊にお対面になりましてから以来、何故か天一坊が公方様のお落胤であるという事実を信じまい信じまいとなさって居られたのでございます。奉行という重いお役目から、大事には大事をとって、と仰せられながら、お家来の衆を遙々紀州へおつかわしになりました時など、事の真相を糺すというよりも、あれは嘘だと申す証拠を掴みたがって居られるようにさえ感ぜられましたのでございました。どうかして天一坊を偽者だという証拠を得たい、どうかしてあれが御落胤でないという事を確信したい、斯ういうのが御奉行様の御心持であったに相違ございませぬ。
何故と申すに、紀州に遣わされました方々が、天一坊が偽者であるという証拠を得られずに却って真ものであるという証拠を伝えて参りました時の御奉行様の御失望、御苦悩を私ははっきりと思い出す事が出来るからでございます。今までのお裁きの場合には、黒白何れか一方の証拠をお掴みになりますと御奉行様は世にも幸福な御様子をなさるのでございました。ところが今度に限ってそうでないのでございます。之は如何いうわけなのでございましょう。
信じまい、信じまい、という時は過ぎ去りました。最早信じまいという事実を信じなければならぬ時が参ったのでございます。
私が初めに、真に御奉行様が御役目の大切な所をお掴みになろうとお苦しみ遊ばしたと申し上げました時は、実に此の時なのでございました。
では何故ああ迄、天一坊を偽者とお信じになりたかったのでございましょうか。
之は色々に考えられますのでございますが、私が今思いますのは全く「天下の御為」という事からではなかったのではございませんでしょうか。
つまり、御奉行様は天一坊の性質をお危ぶみになったのでございます。私には詳しい事は判り難ねますけれども、若し天一坊を公方様の御胤と認める時は、必ず天一坊は相当の高い位につかれるに相違ございませんのです。只今の世は太平とは申せ、位に似つかわしくない人間を或る力のある位置におく事が、どんなに恐ろしいものであるかという事を御奉行様は御考えになったのでございます。今まで全く微力だった人間に、不意に高い位置と大きな権力とを与える事は仮令それが当然の筋合であろうとも、その人間の性質によってはどんなに危険なものであるかをお考え遊ばしたのではございませんでしょうか。俗に氏より育ちと申すことがございます、仮令公方様の御胤にもせよ紀州に生れて九州に流れ野に伏し山に育って来た天一坊が、公方様にも次ぐ位に似つかわしい筈はございませぬ。さすれば一人を高い位置におく事は天下に禍いを生む事になるのではございますまいか。
と申して天下の名奉行とも云われる御奉行様が、ほんとうの事実を曲げてもよろしいのでございましょうか。成程一人の生命を奪って天下を救う事は正しいように考えられます。けれども今の御治世に御法に依らないで其の一人の生命を奪う事が出来るものでございましょうか。而も事実はその一人は生命を奪われるどころか、栄貴を望む事の出来る立場に居るものでございます。御奉行様の御苦心は此処にあったのではなかったかと、私は恐れ乍ら御察し致して居るものなのでございます。
六
事実が判りました時はあれ程御失望なさったらしい御奉行様も、其の翌日から再び厳粛な面持でお勤めにお出かけになりました。其の頃、お役目向の方々の外に、伊豆守様はじめ高位の方々も頻りと御奉行様と往来をなされて居られましたのでございます。
或る日、夜更けて漸く御帰り遊ばしましたが、其の日は昼からずっとあの学者として名高い荻生様の御邸に参られ永く永くお物語り遊ばしたと申す事でございます。其の夜から御奉行様のお居間には和漢の御書がたくさんに開かれましたが、皆「正」とか「義」とか申すむずかしい事に就いての御本だったように存ぜられます。
愈々最後に、明日は御自身で天一坊をお調べ遊ばし、それによって御奉行様が何れともお定めにならなければならぬと定りました其の前夜、御奉行様のお邸には荻生様、伊藤様の両先生が見えておそく迄お物語り遊ばしましたのでございます。
天一坊お調べの節の有様はあなた様方もよく御存じの事と存じますが、御奉行様はいつもに似ず御低声で、お訊ねも主に外形にばかり注がれて居たと申す事でございます。天一坊の乗輿に就いてのお訊ね、御紋についてのお調べ、之皆外形の事柄でございます。肝心の御落胤か否かと申すことに就きましては、どうしてあのお墨附と御短刀だけで天一坊が其の本人だと云う事が出来るかというような事を仰せられただけだと申すことでございます。御言葉が激して来て天一坊にお迫りになった時、あの美しい僧形の若人は世にも悲しげな顔をして斯う申したという事でございます。
「世にまことの親をほんとに知る事の出来る人間が居りましょうか。誰しも生れた時の記憶が有るものではありません。親なる者が、自分がお前の親だというのをただ信じて居るに過ぎないのです。私のように、生れた時から私がお前の父だ、私がお前の母だと云ってくれる者がなかった人間は、不幸にも、ただただ周囲の者の云う事を信ずるより外、道がないのです。私が物心ついても誰もお前の父だ、お前の母だと云って出て来てくれる者はありませんでした。私が初めて父母の名と、其の行方を知ったのは、私を育ててくれた祖母が亡くなった時です。母はもはや世に居りませんでした。私を生んでくれた時に死んだのです。父の名を聞いた時、私は心から驚きました。と同時に、どうかして一度は会いたいと心から願いました。あなたは親と云ってくれる者を一人ももたずに育って来た人間の淋しさを御存じですか。あなたは何と考えていらっしゃるかも知れませんが、私はただ真実の父に会いたいばかりなのです。外に何も望んで居るわけではありませぬ。それだのに不幸に生み付けられた私は何という更に大きな不幸に出会わなければならないのでしょう。私は寧ろ名もなき人の子として生れたかったのです。さすれば父は喜んで私に会ってくれたでしょう。斯様に奉行を間に入れて罪人のように我が生みの子を取り扱わないでも済んだ筈です。思えば私の父も不幸な人間です。その生みの子に直ぐ会うわけにも行かないのですから。けれど、若し父にほんとうにおぼえがあれば必ず会いたがって居るに違いありませぬ」
此の愚かな、けれど真直な天一坊の答えはあの男の為には運命を一時に決してしまったのでございました。あの男は不幸に生れ付きながら更に一番不幸な最後を、此の言葉が生み出す事を知らぬ程若かったのでございます。あの男はただ父親に会いたかったと申して居ります。それはそうに間違いございますまい。けれど御奉行様に致しますれば、それはただそれだけの意味にはならないのでございます。御奉行様は世の為に此の哀れな人の子を其の親に会わしてやることはお出来にならなかったのでございます。
お調べの果は、御奉行様の為にも、又天一坊の為にも余りに悲惨すぎて詳しく申し上げる言葉もございませぬ。御奉行様の御取り計らいで、天一坊は全く偽者なる事に定りましたのでございます。
「天下を欺す大かたりめ」之が御奉行様が最後に天一坊に仰言ったお言葉でございますが、いつもに似ず御声に慄えを帯びておいでになったそうでございます。
お邸にお帰り遊ばし、落葉散り敷く秋のお庭にお下り立ち遊ばした時の、御奉行様のお顔色は全く死人の色のようでございました。
お処刑の済んだ事をお聞きになりました時、ただ一言「そうか」と仰せられまして淋しく御家来の顔をお眺めになりましたが、お伝えに上った御家来は其の時御奉行様にじっと見つめられて、総身に水を浴びせられたように、ぞっと致したと申す事でございます。
其の時以来、再びあの暗い陰気な御方におなり遊ばしたのでございますが、何故か私には、最早昔の晴やかな愉快なお顔色は、永く永く御奉行様から去ってしまったように考えられてなりません。
私は御奉行様の此のお裁きが、正しいか正しくないか、全く存じませぬ。いいえ、ほんとうを申せば、何故天一坊がお処刑にならなければならなかったかという事さえほんとうには解らないのでございます。私はただ私が考えましただけの事を申し上げたに過ぎないのでございます。御奉行様のあの御苦悩を思い、天一坊の余りにも痛ましい運命を考えますにつけ、拙き筆を運びまして、思う事ありし事、あとさきの順序もなく書き綴りましたのでございます。
この作品の内容と主題については、作者の無駄のない文章で言い尽くされていると思いますので、付け加える言葉を持ちません。
そこで、冒頭にも書いた“後期クイーン的問題”とこの作品についての私見を少し書かせていただきます。
読み終わって、この短編は、エラリー・クイーンより10年以上前に、いわゆる“後期クイーン的問題”を正面から取り上げた作品ではないかと感じました。
ちなみに、この『殺された天一坊』は、エラリー・クイーンのデビュー作『ローマ帽子の謎』と同じ昭和4(1929)年に発表されています。
“後期クイーン的問題”とは、クイーンが『災厄の町』(1942年)以降の作品で、名探偵エラリーを“間違いを犯し苦悩することもある人間”として描いたことに由来する問題です。
今では、作者と読者の関係で生じる“第一の問題(作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと)”とそこから生じる“第二の問題(作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非)”という名探偵の存在そのものに関わる深刻な葛藤の2つに分けて整理されています。
※後期クイーン的問題:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%9A%84%E5%95%8F%E9%A1%8C(Wikipediaから)
この意味からも、この作品は時代を超える名作だと思います。
2010/10/29 21:04:24
今日は、浜尾四郎の命日です。
浜尾四郎〔明治29(1896)年4月24日~昭和10(1935)年10月29日〕)は、弁護士で推理小説作家です。
四郎は、男爵で医学博士の加藤照麿の四男として生まれ、大正7(1918)年に東京帝国大学に入学、この年に文部大臣、枢密院議長などを歴任した子爵の浜尾新の養子となります。
大正12(1923)年に東京帝国大学を卒業し、検事となり東京地方裁判所検事局に勤務するものの、昭和3(1928)年に退官して弁護士を開業します。
文筆家としては大正12(1923)年に『犯罪人としてのマクベス及びマクベス夫人』を「日本法政雑誌」に発表したのが最初で、推理小説作家としてのデビュー作は、昭和4(1929)年1月に「新青年」に発表した『誰が殺したか』です。
短編では“人が人を裁くことの限界”をテーマにした作品が多く、特に、天一坊事件を裁くことになった大岡越前守の立場から、裁く者の限界を厳しく突いた短編『殺された天一坊』〔昭和4(1929)年、「改造」〕は、戦前日本の短編ミステリの傑作と言われています。
晩年には貴族院議員も務めたが、脳溢血で39歳の若さで急逝しました。
今日と明日の2回に分けて、この『殺された天一坊』を紹介します。
『殺された天一坊』(浜尾四郎)
一
あれ程迄世間を騒がせた天一坊も、とうとうお処刑となって、獄門に梟けられてしまいました。あの男の体は亡びてもあの悪名はいつ迄もいつ迄も永く伝えられる事でございましょう。世にも稀な大悪人、天下を騙し取ろうとした大かたり、こんな恐ろしい名が、きっとあの男に永く永くつき纏うに違いございませぬ。
私のようなふつつか者が廻らぬ筆をとりましたのも、その事を考えましたからでございます。私からはっきりと申しますれば、あの男こそ世にも愚かな若人なのでございます。けれども決して大悪人ではございませんでした。
ああした不思議な運命に生みつけられた人間はおとなしく此の有難い御治世の、どこかの片隅にじッと暮して行けばよかったのでございましょう。
天一坊は此の世の中というもののほんとうの恐ろしさを知らなかったのでございます。真実の事実を有りの儘に申す事、もっとむずかしく申せば真実と信じた事をはっきりと申すことが、此の世の中でどんなに恐ろしい結果を招くかという事をあの男は存じませんでした。だからあの男は愚者でございます。世にも稀な馬鹿者でございます。
それに、自分の正しく希望してよい事を、はっきりと希望した、というのもあの男の考えが至らぬ所でございました。此の世の中は法というものばかりでは治められぬ。いいえ、時によっては法というものさえも嘘をつくという事を知らなかったのでございましょう。
あの男は気の毒な愚かな、しかし美しい若人でございました。
でも、奉行様が、あの御奉行様でなかったなら、天一坊の運命は他の道を辿ったかも知れないのでございます。あの男があの御奉行様に裁かれなければならなかったのは、取り返しのつかない悲しい事だったに相違ございません。
こう申したからと云って、私は決して御奉行様のことを悪く申し上げるのではございませぬ。御奉行様は御奉行様としてほんとに云い知れぬ程の御苦労をなさったのでございます。永く御奉行様を存じ上げて居ります私は、御奉行様がほんとうに御自分の御役目の大切な所をはっきり掴もうとなさったのは、実に天一坊の御裁きの時だった、とさえ信じたいのでございます。それ程迄に御苦労なさいましたのでございますもの、御奉行様の事を悪く考えられよう筈はございませぬ。
私は御奉行様が天一坊を御調べになっていらっしゃいました頃、はじめて奉行という御役目がどんなに大切なものかをはっきり知ったのでございます。と同時に奉行という御役目の為にどんな悲しい事をも冒さなければならないかという事を知ったわけなのでございました。
御奉行様はあの一件の為にどれ程お痩れなさった事でございましょう。皆之天下の御為なのでございます。今思いましても有難い極みでございます。
一体、御奉行様と申す御方は、御聡明な、果断な、そうして自分を信じる事の大変に御強い御方なのでございます。此の御明智や御偉さは、私が御奉行様を存じ上げました頃から今に至るまで少しも御変りにはなりませぬ。
けれども、奉行という御役目で御出会いになるいろいろの事件の為に、その御考えのもち方は今まで可なり御変りになったように存ぜられるのでございます。
二
初め私が御奉行様を存じ上げました頃は、只今も申し上げました通りほんとうに御利発で御聡明である上に、御自分というものを御信じになることが大層御強くいらっしゃいました。
あの頃の御奉行様の御裁きと申すものは、どれもがほんとうにてきぱきとして、胸のすくようなもの計りでございました。そうして、御奉行様の御名は日に日に、旭のように上り、それと並んでずんずんと御出世もなされたのでございました。
「自分のする事は間違いはないのだ。自分のする事は凡て正しいのだ」
斯ういう心持が常に働いて居たためああした華やかしい御裁きがお出来になったのだと存じます。
貴方様方も御承知の事でございましょうが、一人の子供を二人の母親が争いました時に御奉行様が御執りになった御裁きなどは誰もが皆感心したものでございました。
「真実の母親なればこそ、子供が泣いた時に手を放したのだ。それにもかまわず引きずるのは真の母親ではない。偽者めが」
斯う仰言って、さっと御座をお立ち遊ばした時のあの御姿の神々しさ、私などはほんとうに有難涙にくれたものでございました。多くの方々もあっと云って感服致したものでございます。だが、私はあの時、敗けて偽者めと仰言られた女が、大勢の人々に罵られながら立って行く有様を見て何となく気の毒に思った事でございます。
御承知でもございましょうが、日本橋辺の或る大きな質屋が、自分の地内に大きな蔵を建てまして隣家の小さな家に全く日の当らないように致しました時、隣家から訴え出ました際のあの名高い御立派な御裁き振もやはりあの頃の事でございました。
神田お玉が池の古金買八郎兵衛の家の糠味噌桶の中から、五十両の金子を盗み出しました男をその振舞から即座に御見出しになりました時などは、ほんとうに江戸中の大評判となりましたものでございます。
失礼な申し上げ方でございますが、御奉行様にとりましては、全くあの頃が一番御幸福だったのではなかったかと存ぜられます。勿論あれから益々御奉行様は御出世遊ばし、その御名は日に日に高くはなって参りましたけれども、私考えますには何と申しても、あの頃が御奉行様にとっては一番おしあわせな時代だったのでございます。何故ならば先程も申し上げました通り、御奉行様はどんな事に臨んでも少しも御困りになる事なく御立派に裁きを遊ばし、又その御自分のなさった御裁きを後から御考えになる事をも喜んでおいでになったようでございましたから。
毎日のように行われる名裁判を毎日江戸の人々が囃し立てるのでございます。御奉行様の御耳にも其の評判がはいらぬわけはございませぬ。はいれば御奉行様だとて悪い気もちはなさらなかったに相違ございませぬ。思い出しますのは、あの頃の御奉行様の明るい愉快そうなお顔でございます。
けれども斯うした時代はいつの間にか次の時代に移ってまいったのでございます。私の申しますのは御奉行様の御名声の事ではございませぬ。御名声はさき程も申し上げました通り旭のようにますます上る一方でございました。
三
私がはじめて御奉行様の晴やかなお顔に、暗い影を見い出しましたのは或る春の夕暮でございました。お役目が済みましてからお邸にお帰りになりました時、いつになく暗いお顔をなされご機嫌もよろしくございませぬ。余りに公事が多すぎるお疲れかと、存じて居りましたのですが、其の夜はおそくまでお寝みになりませんでお一人で何かお考えになっておいで遊ばしたのでございます。
その翌日も同じようにお出ましにはなりましたけれどもお帰りの時には矢張りご気分がおすぐれになりませぬ。
其の夜私は、或る人から妙なお話を承りましたのでございました。
何でも二、三日前に深川辺の或る川へ女が身投を致してその水死体がどこかの橋の下に流れついたのだそうでございます。
お役向の方々がお調べになりますと、懐にぬれぬようにしっかと包んだ物がある、出して見ますと之がつまり其の女の遺書なのでございます。遺書には次のような気持が書かれてあったそうでございます。
「私は橋本さきと申す、誰もかまいつけてくれない哀れな女でございます。昨年の春、自分の腹を痛めた、愛しい愛しい子を取り返したい為にお奉行様の前に出ました女でございます。あの時、我が子を無理に引っ張って勝ッたため、偽り者め、かたり奴と御奉行様に罵られて、お返し申す言葉もなく帰りました女でございます。私が何故あの時まで自分の子を手許におかなかったかと申す事はあの節申し上げました通りでございますから今更申し述べません。ただ何故私が死ぬ覚悟を致しましたかを申し上げます。あの時の公事は私がほんとの母であったにも不拘、私の負となりました。私はその愚痴は申しませぬ。ただあれから後の事を申し上げたいのです。私はただ我が子を取り戻せなかっただけの筈でございます。御奉行様はきっとそうお考えになっておいででございましょう。けれども世の中という所はほんとうに恐しい所でございます。私は我が子を取り戻す望みを失うと同時に、江戸中の人々から言葉もかけられぬ身の上とならなければなりませんでした。あの公事に敗れた私は、あの子の母親だと人々に信じられなかったのみか、お上を騙る大嘘つきという事に極められてしまいました。今迄私の味方になって居てくれた親類の者共が交き合を断ってしまいます。家主は私を追い出します。私は此の世の中にたった一人になって、而も悪名を背負ってさまよい歩かなければならなくなりました。何処に参りましても使って呉れる人もございませぬ。仕事を与えて呉れる人は更にございませぬ。斯うやって恥かしい乞食のような思いをして、私は一年の間江戸中を野良犬のように歩き廻りました。今から思えばあの時お白洲で、『偽り者め、騙りめ』と仰言った御奉行様のあのお声が江戸中の人々の口からこだまして響いて来るのでございます。私はもう野良犬の様な生き方さえも出来なくなりました。雨を凌ぐ軒の端からさえも追い払われます。どうして生きて居られましょう。私は死にます。死んで此の苦しみから逃れます。唯、死ぬ前に一言、『私は騙りではない、真実の母だ。騙りと云われたのは奉行様なのだ』と申しておきたいのでございます。私が敗公事になりました事に就いては愚痴を申しますまい。けれど御奉行様に一ことお恨みを申し上げておきます。あの時御奉行様は何と仰言いましたか。『斯なる上は其の方達両名で中の子を引っ張るより外裁きのつけ方はあるまい。首尾よく引き勝った者に其の子を渡すぞ』と仰せられたではございませんか。私は唯あの御一言を信じたのでございます。お上に偽りはある筈のものではない。此処で此の子を放したが最後、もう決して此の子は自分の手に戻っては来ないのだ。斯う堅く信じた私は、石に噛りついても子を引っ張らねばならぬと思ったのでございます。あの子が痛みに堪え難て泣き出した時、私ももとより泣きたかったのでございます。けれども一時の痛みが何でございましょう、私が手を放せばあの子は未来永劫私の許には参らないのでございます。御奉行様は御自分でお命じになった言葉が一人の母親にどれだけの決心をさせたか御承知がないのでございます。偽ったのは私ではございませぬ。御奉行様でございます。天下の御法でございます」
大体右の様なものでございましたろう。私も始めて御奉行様のお顔色の並ならぬ理由を存じたように思いました。
けれども御奉行様がずっと陰気におなり遊ばすようになりましたのは、未だ此の事のあった頃ではございませんでした。その年の冬からでございます。あなた様方もご承知の通り村井勘作という極悪人がお処刑になった事がございます。あの村井という罪人は随分色々な悪事を働いた者でございますが御奉行様御自身でお調べ中、飛んでもない罪を白状致したのでございました。
あれは何年頃でございましたでしょうか、四谷辺で或る後家が殺された事がございます。お上で色々とお調べの末、色恋の果の出来事と申す事になり、後家が生前懇ろにして居たらしい男をお捜しになった事がございました。その時の御奉行様の御明智には一同皆恐れ入りましたものでございます。あの時、疑のかかった男数人(其の中に村井勘作も居りましたのでございますが)をお白洲にお呼び出しになり、一方御奉行様は殺された後家の処に永く飼われて居りました猫を人に持たせて御出になりました。扠、人が猫を放しますと猫はするすると煙草屋彦兵衛という者の所にまいり、直ぐその膝の上にのってしまいました。後家の家に飼われて居りました猫は平生しげしげ出入する男だけを見おぼえて居りまして、無心に罪人を指してしまったのでございました。
之をじっと御覧になって居られた御奉行様は直ちに彦兵衛をお捕えさせになり種々とお糾しになりましたが、彦兵衛は後家の家に今迄一歩も入った事がないと申して中々白状致さないのでございます。平生から生き物がすきで彦兵衛方にも猫が居ると申し、丁度近頃その遊び相手の猫がちょいちょい来るのを後家の猫とは聊かも知らず、よく食べ物などをやって可愛がって居たと、こう申し開きを致しましたので、
「それでは其の方の猫をここに連れ参れ」
と御奉行様が仰言いました。すると彦兵衛は十日程以前よりその猫が行方知れずになったと云うようなお答えを致したのでございました。此の男は独身者で、誰も彦兵衛が猫を飼って居たと申して出る者もございません。其の中、いろいろ責められて包み切れず、とうとう後家殺しの一部始終を白状致してしまいました。あなた様方もご存知の通り、申すまでもなく彦兵衛は直ちにお処刑になってしまいました。
所が、先程申し上げました村井勘作という罪人が、四谷の後家殺しを御奉行様の前で、突然白状致したのでございます。初めは御奉行様もお取り上げにもならず「何をたわけた事を申す」と仰言っていらしったそうでございますが、一方、段々役目の方々が訊して参りますと、それがすっかりあの時の事情と符合致すのでございます。そして、平生猫が大嫌いであったので後家の所へ通って居りました頃も、其処の猫を見つけるといきなり足蹴に致したり打ったり致しますので、猫も村井の顔を見る度に恐れて逃げ廻って居たのだと申しましたのでございます。真実猫が嫌いであったのか、仮令猫にもせよ密事を外の目に見られるのを恐れてわざと猫を追いました事やらよくは判りませぬが、左様申し上げたのでございました。何でも之をお聴きになった時の御奉行様のお顔色は土のようだったと御役目の方から承りました。御奉行様は、ただ「たわけ者」と一言仰せられた切り、すっとその場を立っておしまいなされたそうでございます。
御奉行様の明るいお顔が暗く陰気になりましたのはたしか其の日からでございました。其の日お帰りになりましても一言も口をお開きになりません。其の夜はとうとうお褥の上にもお乗りにならなかったようでございました。其の翌日はお上へは所労と申し上げられて、とうとうお邸に引き籠っておいでになりました。そうしてお邸の中でも一室に閉じ籠ったきり、まるで物も仰言らないのでございます。
私は自分の浅智恵から、御奉行様はあの煙草屋彦兵衛の為に一室にこもって供養をなさっていらっしゃるのだ位にしか考えませんでした。けれども今から考えますればそんな小さな事だけではなかったのでございます。
私などが斯様申し上げますのは随分如何かと存ぜられますが、御奉行様はつまり御自身の御智恵をお疑りはじめになったのでございます。御自身のお裁きをお疑りになり始めたのでございます。一言で申せば、自信をお失いになったのでございます。
今迄は御自分のお考えは何時も正しい、自分の才智は常に正しく動く、とお考えになって居たのに、今度はその土台がぐらぐらとしてまいったのでございます。
斯うして、御奉行様は毎日毎日陰気にお暮しになるようになりました。出過ぎた事を申し上げるようでございますが、あの頃からのお裁きにはもうあの昔の才智の流れ出るような御裁断が見えませぬ。一歩一歩、それも辿るような足取りでお裁きをなすっていらっしゃったのではないかと存ぜられるのでございます。
斯様な有様で此の先いつまでも参るのかと私は存じて居りました。而も一方、世間は御奉行様のお心の中などは少しも知らず(知らないのは尤もでございますが)御奉行様をもてはやし、御奉行様の御名声は益々上るばかりなのでございました。
〈明日に続きます。〉
浜尾四郎〔明治29(1896)年4月24日~昭和10(1935)年10月29日〕)は、弁護士で推理小説作家です。
四郎は、男爵で医学博士の加藤照麿の四男として生まれ、大正7(1918)年に東京帝国大学に入学、この年に文部大臣、枢密院議長などを歴任した子爵の浜尾新の養子となります。
大正12(1923)年に東京帝国大学を卒業し、検事となり東京地方裁判所検事局に勤務するものの、昭和3(1928)年に退官して弁護士を開業します。
文筆家としては大正12(1923)年に『犯罪人としてのマクベス及びマクベス夫人』を「日本法政雑誌」に発表したのが最初で、推理小説作家としてのデビュー作は、昭和4(1929)年1月に「新青年」に発表した『誰が殺したか』です。
短編では“人が人を裁くことの限界”をテーマにした作品が多く、特に、天一坊事件を裁くことになった大岡越前守の立場から、裁く者の限界を厳しく突いた短編『殺された天一坊』〔昭和4(1929)年、「改造」〕は、戦前日本の短編ミステリの傑作と言われています。
晩年には貴族院議員も務めたが、脳溢血で39歳の若さで急逝しました。
今日と明日の2回に分けて、この『殺された天一坊』を紹介します。
『殺された天一坊』(浜尾四郎)
一
あれ程迄世間を騒がせた天一坊も、とうとうお処刑となって、獄門に梟けられてしまいました。あの男の体は亡びてもあの悪名はいつ迄もいつ迄も永く伝えられる事でございましょう。世にも稀な大悪人、天下を騙し取ろうとした大かたり、こんな恐ろしい名が、きっとあの男に永く永くつき纏うに違いございませぬ。
私のようなふつつか者が廻らぬ筆をとりましたのも、その事を考えましたからでございます。私からはっきりと申しますれば、あの男こそ世にも愚かな若人なのでございます。けれども決して大悪人ではございませんでした。
ああした不思議な運命に生みつけられた人間はおとなしく此の有難い御治世の、どこかの片隅にじッと暮して行けばよかったのでございましょう。
天一坊は此の世の中というもののほんとうの恐ろしさを知らなかったのでございます。真実の事実を有りの儘に申す事、もっとむずかしく申せば真実と信じた事をはっきりと申すことが、此の世の中でどんなに恐ろしい結果を招くかという事をあの男は存じませんでした。だからあの男は愚者でございます。世にも稀な馬鹿者でございます。
それに、自分の正しく希望してよい事を、はっきりと希望した、というのもあの男の考えが至らぬ所でございました。此の世の中は法というものばかりでは治められぬ。いいえ、時によっては法というものさえも嘘をつくという事を知らなかったのでございましょう。
あの男は気の毒な愚かな、しかし美しい若人でございました。
でも、奉行様が、あの御奉行様でなかったなら、天一坊の運命は他の道を辿ったかも知れないのでございます。あの男があの御奉行様に裁かれなければならなかったのは、取り返しのつかない悲しい事だったに相違ございません。
こう申したからと云って、私は決して御奉行様のことを悪く申し上げるのではございませぬ。御奉行様は御奉行様としてほんとに云い知れぬ程の御苦労をなさったのでございます。永く御奉行様を存じ上げて居ります私は、御奉行様がほんとうに御自分の御役目の大切な所をはっきり掴もうとなさったのは、実に天一坊の御裁きの時だった、とさえ信じたいのでございます。それ程迄に御苦労なさいましたのでございますもの、御奉行様の事を悪く考えられよう筈はございませぬ。
私は御奉行様が天一坊を御調べになっていらっしゃいました頃、はじめて奉行という御役目がどんなに大切なものかをはっきり知ったのでございます。と同時に奉行という御役目の為にどんな悲しい事をも冒さなければならないかという事を知ったわけなのでございました。
御奉行様はあの一件の為にどれ程お痩れなさった事でございましょう。皆之天下の御為なのでございます。今思いましても有難い極みでございます。
一体、御奉行様と申す御方は、御聡明な、果断な、そうして自分を信じる事の大変に御強い御方なのでございます。此の御明智や御偉さは、私が御奉行様を存じ上げました頃から今に至るまで少しも御変りにはなりませぬ。
けれども、奉行という御役目で御出会いになるいろいろの事件の為に、その御考えのもち方は今まで可なり御変りになったように存ぜられるのでございます。
二
初め私が御奉行様を存じ上げました頃は、只今も申し上げました通りほんとうに御利発で御聡明である上に、御自分というものを御信じになることが大層御強くいらっしゃいました。
あの頃の御奉行様の御裁きと申すものは、どれもがほんとうにてきぱきとして、胸のすくようなもの計りでございました。そうして、御奉行様の御名は日に日に、旭のように上り、それと並んでずんずんと御出世もなされたのでございました。
「自分のする事は間違いはないのだ。自分のする事は凡て正しいのだ」
斯ういう心持が常に働いて居たためああした華やかしい御裁きがお出来になったのだと存じます。
貴方様方も御承知の事でございましょうが、一人の子供を二人の母親が争いました時に御奉行様が御執りになった御裁きなどは誰もが皆感心したものでございました。
「真実の母親なればこそ、子供が泣いた時に手を放したのだ。それにもかまわず引きずるのは真の母親ではない。偽者めが」
斯う仰言って、さっと御座をお立ち遊ばした時のあの御姿の神々しさ、私などはほんとうに有難涙にくれたものでございました。多くの方々もあっと云って感服致したものでございます。だが、私はあの時、敗けて偽者めと仰言られた女が、大勢の人々に罵られながら立って行く有様を見て何となく気の毒に思った事でございます。
御承知でもございましょうが、日本橋辺の或る大きな質屋が、自分の地内に大きな蔵を建てまして隣家の小さな家に全く日の当らないように致しました時、隣家から訴え出ました際のあの名高い御立派な御裁き振もやはりあの頃の事でございました。
神田お玉が池の古金買八郎兵衛の家の糠味噌桶の中から、五十両の金子を盗み出しました男をその振舞から即座に御見出しになりました時などは、ほんとうに江戸中の大評判となりましたものでございます。
失礼な申し上げ方でございますが、御奉行様にとりましては、全くあの頃が一番御幸福だったのではなかったかと存ぜられます。勿論あれから益々御奉行様は御出世遊ばし、その御名は日に日に高くはなって参りましたけれども、私考えますには何と申しても、あの頃が御奉行様にとっては一番おしあわせな時代だったのでございます。何故ならば先程も申し上げました通り、御奉行様はどんな事に臨んでも少しも御困りになる事なく御立派に裁きを遊ばし、又その御自分のなさった御裁きを後から御考えになる事をも喜んでおいでになったようでございましたから。
毎日のように行われる名裁判を毎日江戸の人々が囃し立てるのでございます。御奉行様の御耳にも其の評判がはいらぬわけはございませぬ。はいれば御奉行様だとて悪い気もちはなさらなかったに相違ございませぬ。思い出しますのは、あの頃の御奉行様の明るい愉快そうなお顔でございます。
けれども斯うした時代はいつの間にか次の時代に移ってまいったのでございます。私の申しますのは御奉行様の御名声の事ではございませぬ。御名声はさき程も申し上げました通り旭のようにますます上る一方でございました。
三
私がはじめて御奉行様の晴やかなお顔に、暗い影を見い出しましたのは或る春の夕暮でございました。お役目が済みましてからお邸にお帰りになりました時、いつになく暗いお顔をなされご機嫌もよろしくございませぬ。余りに公事が多すぎるお疲れかと、存じて居りましたのですが、其の夜はおそくまでお寝みになりませんでお一人で何かお考えになっておいで遊ばしたのでございます。
その翌日も同じようにお出ましにはなりましたけれどもお帰りの時には矢張りご気分がおすぐれになりませぬ。
其の夜私は、或る人から妙なお話を承りましたのでございました。
何でも二、三日前に深川辺の或る川へ女が身投を致してその水死体がどこかの橋の下に流れついたのだそうでございます。
お役向の方々がお調べになりますと、懐にぬれぬようにしっかと包んだ物がある、出して見ますと之がつまり其の女の遺書なのでございます。遺書には次のような気持が書かれてあったそうでございます。
「私は橋本さきと申す、誰もかまいつけてくれない哀れな女でございます。昨年の春、自分の腹を痛めた、愛しい愛しい子を取り返したい為にお奉行様の前に出ました女でございます。あの時、我が子を無理に引っ張って勝ッたため、偽り者め、かたり奴と御奉行様に罵られて、お返し申す言葉もなく帰りました女でございます。私が何故あの時まで自分の子を手許におかなかったかと申す事はあの節申し上げました通りでございますから今更申し述べません。ただ何故私が死ぬ覚悟を致しましたかを申し上げます。あの時の公事は私がほんとの母であったにも不拘、私の負となりました。私はその愚痴は申しませぬ。ただあれから後の事を申し上げたいのです。私はただ我が子を取り戻せなかっただけの筈でございます。御奉行様はきっとそうお考えになっておいででございましょう。けれども世の中という所はほんとうに恐しい所でございます。私は我が子を取り戻す望みを失うと同時に、江戸中の人々から言葉もかけられぬ身の上とならなければなりませんでした。あの公事に敗れた私は、あの子の母親だと人々に信じられなかったのみか、お上を騙る大嘘つきという事に極められてしまいました。今迄私の味方になって居てくれた親類の者共が交き合を断ってしまいます。家主は私を追い出します。私は此の世の中にたった一人になって、而も悪名を背負ってさまよい歩かなければならなくなりました。何処に参りましても使って呉れる人もございませぬ。仕事を与えて呉れる人は更にございませぬ。斯うやって恥かしい乞食のような思いをして、私は一年の間江戸中を野良犬のように歩き廻りました。今から思えばあの時お白洲で、『偽り者め、騙りめ』と仰言った御奉行様のあのお声が江戸中の人々の口からこだまして響いて来るのでございます。私はもう野良犬の様な生き方さえも出来なくなりました。雨を凌ぐ軒の端からさえも追い払われます。どうして生きて居られましょう。私は死にます。死んで此の苦しみから逃れます。唯、死ぬ前に一言、『私は騙りではない、真実の母だ。騙りと云われたのは奉行様なのだ』と申しておきたいのでございます。私が敗公事になりました事に就いては愚痴を申しますまい。けれど御奉行様に一ことお恨みを申し上げておきます。あの時御奉行様は何と仰言いましたか。『斯なる上は其の方達両名で中の子を引っ張るより外裁きのつけ方はあるまい。首尾よく引き勝った者に其の子を渡すぞ』と仰せられたではございませんか。私は唯あの御一言を信じたのでございます。お上に偽りはある筈のものではない。此処で此の子を放したが最後、もう決して此の子は自分の手に戻っては来ないのだ。斯う堅く信じた私は、石に噛りついても子を引っ張らねばならぬと思ったのでございます。あの子が痛みに堪え難て泣き出した時、私ももとより泣きたかったのでございます。けれども一時の痛みが何でございましょう、私が手を放せばあの子は未来永劫私の許には参らないのでございます。御奉行様は御自分でお命じになった言葉が一人の母親にどれだけの決心をさせたか御承知がないのでございます。偽ったのは私ではございませぬ。御奉行様でございます。天下の御法でございます」
大体右の様なものでございましたろう。私も始めて御奉行様のお顔色の並ならぬ理由を存じたように思いました。
けれども御奉行様がずっと陰気におなり遊ばすようになりましたのは、未だ此の事のあった頃ではございませんでした。その年の冬からでございます。あなた様方もご承知の通り村井勘作という極悪人がお処刑になった事がございます。あの村井という罪人は随分色々な悪事を働いた者でございますが御奉行様御自身でお調べ中、飛んでもない罪を白状致したのでございました。
あれは何年頃でございましたでしょうか、四谷辺で或る後家が殺された事がございます。お上で色々とお調べの末、色恋の果の出来事と申す事になり、後家が生前懇ろにして居たらしい男をお捜しになった事がございました。その時の御奉行様の御明智には一同皆恐れ入りましたものでございます。あの時、疑のかかった男数人(其の中に村井勘作も居りましたのでございますが)をお白洲にお呼び出しになり、一方御奉行様は殺された後家の処に永く飼われて居りました猫を人に持たせて御出になりました。扠、人が猫を放しますと猫はするすると煙草屋彦兵衛という者の所にまいり、直ぐその膝の上にのってしまいました。後家の家に飼われて居りました猫は平生しげしげ出入する男だけを見おぼえて居りまして、無心に罪人を指してしまったのでございました。
之をじっと御覧になって居られた御奉行様は直ちに彦兵衛をお捕えさせになり種々とお糾しになりましたが、彦兵衛は後家の家に今迄一歩も入った事がないと申して中々白状致さないのでございます。平生から生き物がすきで彦兵衛方にも猫が居ると申し、丁度近頃その遊び相手の猫がちょいちょい来るのを後家の猫とは聊かも知らず、よく食べ物などをやって可愛がって居たと、こう申し開きを致しましたので、
「それでは其の方の猫をここに連れ参れ」
と御奉行様が仰言いました。すると彦兵衛は十日程以前よりその猫が行方知れずになったと云うようなお答えを致したのでございました。此の男は独身者で、誰も彦兵衛が猫を飼って居たと申して出る者もございません。其の中、いろいろ責められて包み切れず、とうとう後家殺しの一部始終を白状致してしまいました。あなた様方もご存知の通り、申すまでもなく彦兵衛は直ちにお処刑になってしまいました。
所が、先程申し上げました村井勘作という罪人が、四谷の後家殺しを御奉行様の前で、突然白状致したのでございます。初めは御奉行様もお取り上げにもならず「何をたわけた事を申す」と仰言っていらしったそうでございますが、一方、段々役目の方々が訊して参りますと、それがすっかりあの時の事情と符合致すのでございます。そして、平生猫が大嫌いであったので後家の所へ通って居りました頃も、其処の猫を見つけるといきなり足蹴に致したり打ったり致しますので、猫も村井の顔を見る度に恐れて逃げ廻って居たのだと申しましたのでございます。真実猫が嫌いであったのか、仮令猫にもせよ密事を外の目に見られるのを恐れてわざと猫を追いました事やらよくは判りませぬが、左様申し上げたのでございました。何でも之をお聴きになった時の御奉行様のお顔色は土のようだったと御役目の方から承りました。御奉行様は、ただ「たわけ者」と一言仰せられた切り、すっとその場を立っておしまいなされたそうでございます。
御奉行様の明るいお顔が暗く陰気になりましたのはたしか其の日からでございました。其の日お帰りになりましても一言も口をお開きになりません。其の夜はとうとうお褥の上にもお乗りにならなかったようでございました。其の翌日はお上へは所労と申し上げられて、とうとうお邸に引き籠っておいでになりました。そうしてお邸の中でも一室に閉じ籠ったきり、まるで物も仰言らないのでございます。
私は自分の浅智恵から、御奉行様はあの煙草屋彦兵衛の為に一室にこもって供養をなさっていらっしゃるのだ位にしか考えませんでした。けれども今から考えますればそんな小さな事だけではなかったのでございます。
私などが斯様申し上げますのは随分如何かと存ぜられますが、御奉行様はつまり御自身の御智恵をお疑りはじめになったのでございます。御自身のお裁きをお疑りになり始めたのでございます。一言で申せば、自信をお失いになったのでございます。
今迄は御自分のお考えは何時も正しい、自分の才智は常に正しく動く、とお考えになって居たのに、今度はその土台がぐらぐらとしてまいったのでございます。
斯うして、御奉行様は毎日毎日陰気にお暮しになるようになりました。出過ぎた事を申し上げるようでございますが、あの頃からのお裁きにはもうあの昔の才智の流れ出るような御裁断が見えませぬ。一歩一歩、それも辿るような足取りでお裁きをなすっていらっしゃったのではないかと存ぜられるのでございます。
斯様な有様で此の先いつまでも参るのかと私は存じて居りました。而も一方、世間は御奉行様のお心の中などは少しも知らず(知らないのは尤もでございますが)御奉行様をもてはやし、御奉行様の御名声は益々上るばかりなのでございました。
〈明日に続きます。〉
2010/10/27 23:36:24
今日は、徳川美術館本館の展示を紹介します。
日曜日(2010年10月24日)に訪れた徳川美術館と蓬左文庫共催の名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕の紹介の3回目です。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
徳川美術館の本館(第七~九展示室)は、「里帰りの名品」と題した展示でした。
第七展示室には、かつて尾張徳川家が所蔵していた品々で、後にさまざまな理由でその手を離れた品々が、今回、数多く里帰り展示されていました。
元禄13(1700)年11月に尾張徳川家4代吉通が、祖父光友の遺物として5代将軍徳川綱吉に献上した重要文化財『布袋図 梁楷筆』(香雪美術館蔵)や文久3(1863)年に14代慶勝が朝廷や近衛家に献上した『琵琶 銘 白菊』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や国宝『熊野懐紙』(陽明文庫蔵)、2代光友が社寺に寄進した重要文化財『山水蒔絵硯箱』(安福寺蔵)や『釈迦説法図』(興正寺蔵)などが展示されていました。
※『布袋図 梁楷筆』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/05/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
『布袋図 梁楷筆』は、描かれている布袋の姿から“踊布袋図”と呼ばれているそうで、写実的でありながら軽妙さが筆の動きでも表現されており、見事でした。
『琵琶 銘 白菊』は、平安末期の治承3(1179)年に平清盛による政変で尾張に流された太政大臣で琵琶の名手で知られた藤原師長が愛用していたもので、師長が京都に戻る際に熱田神宮に奉納したという伝説があり、その後、尾張徳川家に伝わり、文久3(1863)年に孝明天皇に献上された後、焼失説もあって幻と呼ばれていたものだそうです。
『釈迦説法図』は、寺外初公開とのことでしたが、その色遣いと大きさに驚かされました。
また、かつて尾張徳川家に所蔵され、さまざまな経緯を経て加賀前田家に伝来し、その後、明治に入って三井家の所蔵となり、さらに三井家から東京国立博物館に寄贈された国宝『元永本古今和歌集 藤原定実筆』(東京国立博物館蔵)も展示されていました。
紫、赤、緑、黄などの色を染めた地に、唐草、七宝、亀甲などの型文様を雲母で刷り出し、さらにその上に金銀の切箔や砂子をまいた華麗な紙が使われており、そこに散らし書きで和歌を描いており、傑作といわれれているだけのことはある逸品でした。
※『元永本古今和歌集 藤原定実筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=38211(文化遺産オンラインから)
さらに、重要文化財『青磁経筒水指』(東京国立博物館蔵)や『金襴手仙盞瓶』(個人蔵)、今回初公開となる『法師物語絵巻 詞書 伝二条為忠筆』(個人蔵)など明治以後に尾張徳川家ゆかりの人々に譲渡された品々も展示されていました。
※『金襴手仙盞瓶』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
最も多かったのは、大正10(1921)年に徳川美術館設立の資金捻出のために売立てられた作品でした。
雪舟の絵にしては全てが大きく描かれており、珍しいと感じた作品で、尾張徳川家では周永筆と伝えられていたという『四季花鳥図屏風 伝雪舟筆』(出光美術館蔵)や人物の衣装や桜の花の白色が目を引く『吉野山風俗図屏風 伝狩野元信筆』(個人蔵)などの絵画、金地が豪華な『遠山蒔絵冠台』(個人蔵)や磁器入りの蒔絵を珍しく感じた『染付磁器入花蝶蒔絵菓子箪笥』などの調度品が展示されていました。
この他、第七展示室に入ってすぐのところに展示してあった『分銅金』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)が3個展示されていました。
これは、縦4.5cm、横3.5cm、厚さ1.8cmで天秤ばかりの重り“分銅”を形どったもので、表面には小花に桐の紋、布目に“吉”の字、石目に“定”の字が刻まれており、1個100匁=375gのため、数千万円から1億円の価値があるとのことです。
家康の命により鋳造されたものの一部とのことで、大正天皇のご成婚に際し、尾張徳川家から皇室に献上されたものだそうです。
第七展示室の最後から第八展示室にかけて、徳川将軍家(宗家)や一橋家、徳島の蜂須賀家などの売立てで購入した作品が展示されていました。
ここでは、蜂須賀家伝来の六曲一双の屏風で重要文化財の『豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛筆』が圧巻でした。
華麗な彩色と息が詰まるほど細密に描かれた1000人近い群衆の姿は圧倒的で、見ていると、ほとばしる群衆のエネルギーが肌で感じられるようでした。
※『豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18957(文化遺産オンラインから)
第九展示室には、名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家などから徳川美術館が寄贈を受けた作品が紹介されていました。
ここでは、岡谷家から寄贈を受けた六曲一双の屏風『百花百草図屏風 田中訥言』が秀逸です。
細かい横皺のある金箔を置いた檀紙に、90種にも及ぶ四季の草花が鮮やかな色彩で写実的に描かれていて、見飽きません。
※『百花百草図屏風 田中訥言』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=71192(文化遺産オンラインから)
最後に『石山切 貫之集下 藤原定信筆』が2点、『石山切 伊勢集 伝藤原公任』2点、さらに重要文化財『黒織部茶碗 銘 冬枯』が展示してありましたが、さすがに少し見疲れてしまい、ゆっくりと鑑賞する元気がありませんでした。
※『石山切 貫之集下 藤原定信筆』・高松家寄贈:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/05/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『石山切 伊勢集 伝藤原公任』・岡谷家寄贈:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41658(文化遺産オンラインから)
※『黒織部茶碗 銘 冬枯』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41618(文化遺産オンラインから)
徳川美術館の珠玉の名品と尾張徳川家由来の名品を合わせて堪能できるすばらしい展覧会でした。
名古屋にお越しの方は、ぜひお立ち寄りください。
<3日間、お付き合いいただきありがとうございました。今日で、名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」の紹介は終了します。>
日曜日(2010年10月24日)に訪れた徳川美術館と蓬左文庫共催の名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕の紹介の3回目です。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
徳川美術館の本館(第七~九展示室)は、「里帰りの名品」と題した展示でした。
第七展示室には、かつて尾張徳川家が所蔵していた品々で、後にさまざまな理由でその手を離れた品々が、今回、数多く里帰り展示されていました。
元禄13(1700)年11月に尾張徳川家4代吉通が、祖父光友の遺物として5代将軍徳川綱吉に献上した重要文化財『布袋図 梁楷筆』(香雪美術館蔵)や文久3(1863)年に14代慶勝が朝廷や近衛家に献上した『琵琶 銘 白菊』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や国宝『熊野懐紙』(陽明文庫蔵)、2代光友が社寺に寄進した重要文化財『山水蒔絵硯箱』(安福寺蔵)や『釈迦説法図』(興正寺蔵)などが展示されていました。
※『布袋図 梁楷筆』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/05/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
『布袋図 梁楷筆』は、描かれている布袋の姿から“踊布袋図”と呼ばれているそうで、写実的でありながら軽妙さが筆の動きでも表現されており、見事でした。
『琵琶 銘 白菊』は、平安末期の治承3(1179)年に平清盛による政変で尾張に流された太政大臣で琵琶の名手で知られた藤原師長が愛用していたもので、師長が京都に戻る際に熱田神宮に奉納したという伝説があり、その後、尾張徳川家に伝わり、文久3(1863)年に孝明天皇に献上された後、焼失説もあって幻と呼ばれていたものだそうです。
『釈迦説法図』は、寺外初公開とのことでしたが、その色遣いと大きさに驚かされました。
また、かつて尾張徳川家に所蔵され、さまざまな経緯を経て加賀前田家に伝来し、その後、明治に入って三井家の所蔵となり、さらに三井家から東京国立博物館に寄贈された国宝『元永本古今和歌集 藤原定実筆』(東京国立博物館蔵)も展示されていました。
紫、赤、緑、黄などの色を染めた地に、唐草、七宝、亀甲などの型文様を雲母で刷り出し、さらにその上に金銀の切箔や砂子をまいた華麗な紙が使われており、そこに散らし書きで和歌を描いており、傑作といわれれているだけのことはある逸品でした。
※『元永本古今和歌集 藤原定実筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=38211(文化遺産オンラインから)
さらに、重要文化財『青磁経筒水指』(東京国立博物館蔵)や『金襴手仙盞瓶』(個人蔵)、今回初公開となる『法師物語絵巻 詞書 伝二条為忠筆』(個人蔵)など明治以後に尾張徳川家ゆかりの人々に譲渡された品々も展示されていました。
※『金襴手仙盞瓶』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
最も多かったのは、大正10(1921)年に徳川美術館設立の資金捻出のために売立てられた作品でした。
雪舟の絵にしては全てが大きく描かれており、珍しいと感じた作品で、尾張徳川家では周永筆と伝えられていたという『四季花鳥図屏風 伝雪舟筆』(出光美術館蔵)や人物の衣装や桜の花の白色が目を引く『吉野山風俗図屏風 伝狩野元信筆』(個人蔵)などの絵画、金地が豪華な『遠山蒔絵冠台』(個人蔵)や磁器入りの蒔絵を珍しく感じた『染付磁器入花蝶蒔絵菓子箪笥』などの調度品が展示されていました。
この他、第七展示室に入ってすぐのところに展示してあった『分銅金』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)が3個展示されていました。
これは、縦4.5cm、横3.5cm、厚さ1.8cmで天秤ばかりの重り“分銅”を形どったもので、表面には小花に桐の紋、布目に“吉”の字、石目に“定”の字が刻まれており、1個100匁=375gのため、数千万円から1億円の価値があるとのことです。
家康の命により鋳造されたものの一部とのことで、大正天皇のご成婚に際し、尾張徳川家から皇室に献上されたものだそうです。
第七展示室の最後から第八展示室にかけて、徳川将軍家(宗家)や一橋家、徳島の蜂須賀家などの売立てで購入した作品が展示されていました。
ここでは、蜂須賀家伝来の六曲一双の屏風で重要文化財の『豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛筆』が圧巻でした。
華麗な彩色と息が詰まるほど細密に描かれた1000人近い群衆の姿は圧倒的で、見ていると、ほとばしる群衆のエネルギーが肌で感じられるようでした。
※『豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18957(文化遺産オンラインから)
第九展示室には、名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家などから徳川美術館が寄贈を受けた作品が紹介されていました。
ここでは、岡谷家から寄贈を受けた六曲一双の屏風『百花百草図屏風 田中訥言』が秀逸です。
細かい横皺のある金箔を置いた檀紙に、90種にも及ぶ四季の草花が鮮やかな色彩で写実的に描かれていて、見飽きません。
※『百花百草図屏風 田中訥言』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=71192(文化遺産オンラインから)
最後に『石山切 貫之集下 藤原定信筆』が2点、『石山切 伊勢集 伝藤原公任』2点、さらに重要文化財『黒織部茶碗 銘 冬枯』が展示してありましたが、さすがに少し見疲れてしまい、ゆっくりと鑑賞する元気がありませんでした。
※『石山切 貫之集下 藤原定信筆』・高松家寄贈:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/05/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『石山切 伊勢集 伝藤原公任』・岡谷家寄贈:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41658(文化遺産オンラインから)
※『黒織部茶碗 銘 冬枯』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41618(文化遺産オンラインから)
徳川美術館の珠玉の名品と尾張徳川家由来の名品を合わせて堪能できるすばらしい展覧会でした。
名古屋にお越しの方は、ぜひお立ち寄りください。
<3日間、お付き合いいただきありがとうございました。今日で、名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」の紹介は終了します。>
2010/10/26 21:13:25
今日は、蓬左文庫の展示を紹介します。
日曜日(2010年10月24日)に訪れた徳川美術館と蓬左文庫共催の名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕の紹介の2回目です。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
蓬左文庫の展示室では、「さまざまな名宝」と題した展示でした。
絵巻では、重要文化財『葉月物語絵巻』、重要文化財『西行物語絵巻』、重要文化財『掃墨物語絵巻』など豪華な展示でした。
なかでも『掃墨物語絵巻』の保存状態の良さには驚かされました。
※『葉月物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41638(文化遺産オンラインから)
※『西行物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=43141(文化遺産オンラインから)
※『掃墨物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18754(文化遺産オンラインから)
江戸時代の絵画では、非常に鮮やかな色彩の『四季花鳥図屏風 伝狩野山楽筆』や白色が非常に美しい『源氏物語画帖 土佐光則筆』などが展示されていました。
ここでは、水墨画でここまで水の透明感が出せるのかという驚きを禁じ得ない『鯉亀図風炉先屏風 円山応挙筆』が秀逸でした。
※『四季花鳥図屏風 伝狩野山楽筆』・右隻:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room5/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『源氏物語画帖 土佐光則筆』〔一部〕:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h14/05/image/01_obj.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『鯉亀図風炉先屏風 円山応挙筆』〔一部〕:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h21/04/image/03.jpg、http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/02/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
書籍では、“伝”とはいうものの行成流の優美な字体が印象的な重要文化財の『重之集 伝藤原行成筆』や「源氏物語」の河内本系写本では現存最古の重要文化財『河内本源氏物語』、同じく現存最古の写本の重要文化財『続日本紀』など見応えのある展示でした。
※『重之集 伝藤原行成筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18967(文化遺産オンラインから)
※『河内本源氏物語』http://housa.city.nagoya.jp/collection/img/lc_1.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
※『続日本紀』:http://housa.city.nagoya.jp/collection/img/lc_2.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
また、江戸時代にこの『河内本源氏物語』を納めるために作られた『桐宇治橋蒔絵書物箪笥』の美しさには驚嘆しました。
正面のけんどん蓋には桐が、4段の引き出しには源氏物語54帖各巻の名称が、天板には第1帖「桐壺」にちなみ、たわわに花をつけた桐が、背面には最終帖「夢浮橋」にちなんで宇治橋が、側面には桐と柳と流水が豪華な蒔絵で描かれています。
※『桐宇治橋蒔絵書物箪笥』:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/img/tokugawameihou01_b.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
さらに、重要文化財『浅葱地葵紋散辻ケ花染小袖』や湯たんぽのようになかにお湯を入れて暖を取る肘置き台の『桑木地葵紋散蒔絵湯婆』など徳川家康所用のものも展示されていました。
特に、『桑木地葵紋散蒔絵湯婆』は、こういう暖房具があることを知らなかったので、とても興味深かったです。同じく家康所用で、島津氏が琉球王家の宝庫から奪い家康の献上したという重要文化財『花鳥文七宝繋文密陀絵沈金御供飯』は、琉球漆器唯一の重要文化財ということです。
高脚付きの大きな入れ物の中に、大椀1つ、蓋付大椀10個収まっており、緻密な文様がとても美しかったです。
阿弥陀の髪に人毛が使われているという重要文化財『刺繍阿弥陀三尊来迎図』や濃い紫色の紙と金字のコントラストが美しい『紫紙金字金光明最勝王経』など神仏画や写経などの宗教関係の作品も展示されており、いずれも保存状態の良さが目を引きました。
※『刺繍阿弥陀三尊来迎図』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=82096(文化遺産オンラインから)
※『紫紙金字金光明最勝王経』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=52495(文化遺産オンラインから)
「駿河御譲本」や義直の蔵書のうち重要文化財『太平聖恵方』や重要文化財『高麗史要節』など中国・朝鮮で出版された書物や、重要文化財『龍虎図』や『琴棋書画図』などの中国絵画も数多く展示されていました。
このうち、二幅対の重要文化財『龍虎図』は、もともと『龍図 陳容筆』と『虎図 伝牧谿筆』という別々の絵だったものが、我が国に到来する前に対とされていたものだそうです。
※『龍虎図』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=82086(文化遺産オンラインから)
この他、尾張徳川家に伝えられた収蔵品のうち世界有数のコレクションとして知られる唐物漆器や唐墨も展示されていました。
展示品のうち重要文化財の占める割合が1/3を超えるという贅沢な展示で、見応えがありました。
<続きは明日以降、紹介させていただきます。>
日曜日(2010年10月24日)に訪れた徳川美術館と蓬左文庫共催の名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕の紹介の2回目です。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
蓬左文庫の展示室では、「さまざまな名宝」と題した展示でした。
絵巻では、重要文化財『葉月物語絵巻』、重要文化財『西行物語絵巻』、重要文化財『掃墨物語絵巻』など豪華な展示でした。
なかでも『掃墨物語絵巻』の保存状態の良さには驚かされました。
※『葉月物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=41638(文化遺産オンラインから)
※『西行物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=43141(文化遺産オンラインから)
※『掃墨物語絵巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18754(文化遺産オンラインから)
江戸時代の絵画では、非常に鮮やかな色彩の『四季花鳥図屏風 伝狩野山楽筆』や白色が非常に美しい『源氏物語画帖 土佐光則筆』などが展示されていました。
ここでは、水墨画でここまで水の透明感が出せるのかという驚きを禁じ得ない『鯉亀図風炉先屏風 円山応挙筆』が秀逸でした。
※『四季花鳥図屏風 伝狩野山楽筆』・右隻:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room5/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『源氏物語画帖 土佐光則筆』〔一部〕:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h14/05/image/01_obj.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『鯉亀図風炉先屏風 円山応挙筆』〔一部〕:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h21/04/image/03.jpg、http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/02/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
書籍では、“伝”とはいうものの行成流の優美な字体が印象的な重要文化財の『重之集 伝藤原行成筆』や「源氏物語」の河内本系写本では現存最古の重要文化財『河内本源氏物語』、同じく現存最古の写本の重要文化財『続日本紀』など見応えのある展示でした。
※『重之集 伝藤原行成筆』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18967(文化遺産オンラインから)
※『河内本源氏物語』http://housa.city.nagoya.jp/collection/img/lc_1.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
※『続日本紀』:http://housa.city.nagoya.jp/collection/img/lc_2.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
また、江戸時代にこの『河内本源氏物語』を納めるために作られた『桐宇治橋蒔絵書物箪笥』の美しさには驚嘆しました。
正面のけんどん蓋には桐が、4段の引き出しには源氏物語54帖各巻の名称が、天板には第1帖「桐壺」にちなみ、たわわに花をつけた桐が、背面には最終帖「夢浮橋」にちなんで宇治橋が、側面には桐と柳と流水が豪華な蒔絵で描かれています。
※『桐宇治橋蒔絵書物箪笥』:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/img/tokugawameihou01_b.jpg(名古屋市蓬左文庫のサイトから)
さらに、重要文化財『浅葱地葵紋散辻ケ花染小袖』や湯たんぽのようになかにお湯を入れて暖を取る肘置き台の『桑木地葵紋散蒔絵湯婆』など徳川家康所用のものも展示されていました。
特に、『桑木地葵紋散蒔絵湯婆』は、こういう暖房具があることを知らなかったので、とても興味深かったです。同じく家康所用で、島津氏が琉球王家の宝庫から奪い家康の献上したという重要文化財『花鳥文七宝繋文密陀絵沈金御供飯』は、琉球漆器唯一の重要文化財ということです。
高脚付きの大きな入れ物の中に、大椀1つ、蓋付大椀10個収まっており、緻密な文様がとても美しかったです。
阿弥陀の髪に人毛が使われているという重要文化財『刺繍阿弥陀三尊来迎図』や濃い紫色の紙と金字のコントラストが美しい『紫紙金字金光明最勝王経』など神仏画や写経などの宗教関係の作品も展示されており、いずれも保存状態の良さが目を引きました。
※『刺繍阿弥陀三尊来迎図』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=82096(文化遺産オンラインから)
※『紫紙金字金光明最勝王経』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=52495(文化遺産オンラインから)
「駿河御譲本」や義直の蔵書のうち重要文化財『太平聖恵方』や重要文化財『高麗史要節』など中国・朝鮮で出版された書物や、重要文化財『龍虎図』や『琴棋書画図』などの中国絵画も数多く展示されていました。
このうち、二幅対の重要文化財『龍虎図』は、もともと『龍図 陳容筆』と『虎図 伝牧谿筆』という別々の絵だったものが、我が国に到来する前に対とされていたものだそうです。
※『龍虎図』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=82086(文化遺産オンラインから)
この他、尾張徳川家に伝えられた収蔵品のうち世界有数のコレクションとして知られる唐物漆器や唐墨も展示されていました。
展示品のうち重要文化財の占める割合が1/3を超えるという贅沢な展示で、見応えがありました。
<続きは明日以降、紹介させていただきます。>
2010/10/25 21:41:57
徳川美術館に行きました。
徳川美術館と蓬左文庫では、名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕が開催中でした。
この展覧会は、今年が徳川美術館と蓬左文庫が開館して75周年となり、徳川家康の命で名古屋が開府して400年にもあたるのを記念して、徳川美術館所蔵の名品優品を一挙に公開するものだそうです。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
徳川美術館は、江戸時代には御三家筆頭であった尾張徳川家に伝えられた、いわゆる大名道具を展示公開している美術館で昭和10(1935)年に開館しています。
収蔵品は「駿府御分物」・「駿府御譲本」と呼ばれる徳川家康の遺品を中核として、歴代藩主や夫人たちの蒐集品、婚礼の際の持参品などで、その数一万数千件にも及んでいるそうです。
これらの中には、室町将軍家を始め、織田信長・豊臣秀吉ゆかりの品々も多く含まれているとのことです。
さらに、徳川将軍家(宗家)をはじめ他の大大名家から売立てられた重宝類の一部も購入し、名古屋の豪商であった岡谷家をはじめいくつかの篤志家の寄贈品を加え、充実した内容の収蔵品を誇っているとのことです。
一方、蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を中心に優れた和漢の古典籍を所蔵する公開文庫で、同じく昭和10(1935)年に、東京の徳川家邸内に開館しています。
昭和25(1950)年からは、現在の土地に移り、名古屋市によって運営されています。
徳川家康の遺品として譲られた「駿河御譲本」3000冊を中核として、初代藩主義直が名古屋城二の丸御殿内に創設した“御文庫”の蔵書を受け継いでいるとのことです。
今回の展覧会では、両館の開館75周年と名古屋開府400年を記念して、両館が収蔵する尾張徳川家の名宝に加え、贈与されたり売却された尾張徳川家の旧蔵品も里帰りし、国宝9件、重要文化財46件を含む名品優品を、すべての展示室を用いて、これまでにない規模で一挙に公開するものだそうです。
非常の膨大な展示でしたので、徳川美術館新館、蓬左文庫展示室、徳川美術館本館(旧館)の3回に分けて紹介します。
徳川美術館の新館(第一~第五展示室)は「伝来の名品」と題した展示でした。
第一展示室では、『短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗』をはじめとする国宝の刀剣七振や徳川家康・義直親子の武器武具類が展示されていました。
※『短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
教科書でも有名な『徳川家康三方ケ原戦役画像』や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人が同一画面に描かれていることでも有名な『長篠合戦図屏風』も展示されていました。
※『徳川家康三方ケ原戦役画像』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/03/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『長篠合戦図屏風』(中央部):http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/03/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、桐紋のため、かつては秀吉着用とされていたものの、最近になって家康着用であることがわかった『花色日の丸威具足』や400年以上の時を経ているにもかかわらずその輝きが美しい家康所用で没後に義直に譲られた重要文化財『脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗』も見応えがありました。
※『花色日の丸威具足』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room1/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/01/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
首の部分にチューリップの意匠がある『唐子文染付徳利』や聖母マリアと思われる人面が描かれている『火縄銃 六匁筒 マリア像・唐草文象嵌』などヨーロッパの文化の影響を見ることができる品もあり、興味深かったです。
その他、非常に小さいものの細密な細工の後藤徳乗作の『猩々舞図三所物』や火蓋に金で葵の紋が意匠されている『火縄銃 六匁筒 人面図(アポロ)・唐草文象嵌』も印象に残りました。
第二展示室と第三展示室では、元和9(1623)年2月に、二代将軍徳川秀忠が江戸の尾張屋敷を
公式に訪問した際の記録「元和御成記」に基づき、「御数寄屋置合」、「御成書院置合」、「御鎖の間」などの飾付けのようすが現存する名物茶器によって再現されていました。
名古屋城二之丸御殿にあった猿面茶室が復元されている第二展示室では、大名物で白天目三椀の一つで重要文化財の『白天目』や表面に銀色の細かい油滴の並ぶ『曜変天目(油滴天目)』など美しさに目を奪われました。
※『白天目』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『曜変天目(油滴天目)』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、『黄天目』の不思議な透明感も印象に残りました。
また、千利休が自ら削って、最期の茶会に用い、古田織部に与えたとされる『竹茶杓 銘 泪 千利休作』や淡い墨の強弱で雄大な景色を描いた『洞庭秋月図 伝牧谿筆』も展示されており、その前は多くの人で大混雑でした。
※『竹茶杓 銘 泪 千利休作』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『洞庭秋月図 伝牧谿筆』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/09.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、第三展示室には、名古屋城二之丸御殿の広間と鎖の間の一部が復元されています。
ここでは、蓋にも千鳥をかたどったつまみが付いており、盗賊の石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだとき、この千鳥が鳴いたため捕らえられたという伝説がある『青磁香炉 銘 千鳥』や後醍醐天皇が笠置・吉野に遷幸した折にも懐中していられたと伝えられている『盆石 銘 夢の浮橋』など伝説の名品が展示されていました。
※『青磁香炉 銘 千鳥』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room3/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『盆石 銘 夢の浮橋』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room3/image/05.jpg(徳川美術館のサイトから)
名古屋城二之丸御殿の能舞台が原寸大で復元されている第四展示室では華麗な大名能の様子が偲ばれる能面や豪華な能装束などが展示されていました。
ここでは、大胆な鳳凰のデザインが目を引く『紫地鳳凰文金襴長絹』が印象に残りました。
※『紫地鳳凰文金襴長絹』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room4/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
第五展示室では、大名家に嫁いだ姫君たちが持参した婚礼調度などの奥道具が展示されていました。
『純金葵紋散蜀江文硯箱』の豪華な美しさや『純銀檜垣に梅図香盆飾り』の緻密な細工が印象に残りました。
また、金銀の砂子を使ったきらびやかで細密な描写の『歌舞伎図巻』や一瞬の動きをとらえた表現力が秀逸な『本多平八郎姿絵屏風』などの近世初期の風俗画も展示されていました。
※『歌舞伎図巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=90610(文化遺産オンラインから)
※『本多平八郎姿絵屏風』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/05.jpg(徳川美術館のサイトから)
これまで、企画展に合わせて別々にしか展示されていなかった徳川美術館の名品が一挙公開されており、大変見応えのある展示でした。
<続きは明日以降、紹介させていただきます。>
徳川美術館と蓬左文庫では、名古屋開府400年 徳川美術館・蓬左文庫開館75周年記念 秋季特別展「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」〔2010年10月2日(土)[蓬左文庫の展示室は、9月29日(水)]~11月7日(日)〕が開催中でした。
この展覧会は、今年が徳川美術館と蓬左文庫が開館して75周年となり、徳川家康の命で名古屋が開府して400年にもあたるのを記念して、徳川美術館所蔵の名品優品を一挙に公開するものだそうです。
※徳川美術館のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/index.html
※蓬左文庫のサイトの「尾張徳川家の名宝 -里帰りの名品を含めて-」のページ:http://housa.city.nagoya.jp/exhibition/index.html

[2010年10月24日(日)撮影]
徳川美術館は、江戸時代には御三家筆頭であった尾張徳川家に伝えられた、いわゆる大名道具を展示公開している美術館で昭和10(1935)年に開館しています。
収蔵品は「駿府御分物」・「駿府御譲本」と呼ばれる徳川家康の遺品を中核として、歴代藩主や夫人たちの蒐集品、婚礼の際の持参品などで、その数一万数千件にも及んでいるそうです。
これらの中には、室町将軍家を始め、織田信長・豊臣秀吉ゆかりの品々も多く含まれているとのことです。
さらに、徳川将軍家(宗家)をはじめ他の大大名家から売立てられた重宝類の一部も購入し、名古屋の豪商であった岡谷家をはじめいくつかの篤志家の寄贈品を加え、充実した内容の収蔵品を誇っているとのことです。
一方、蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を中心に優れた和漢の古典籍を所蔵する公開文庫で、同じく昭和10(1935)年に、東京の徳川家邸内に開館しています。
昭和25(1950)年からは、現在の土地に移り、名古屋市によって運営されています。
徳川家康の遺品として譲られた「駿河御譲本」3000冊を中核として、初代藩主義直が名古屋城二の丸御殿内に創設した“御文庫”の蔵書を受け継いでいるとのことです。
今回の展覧会では、両館の開館75周年と名古屋開府400年を記念して、両館が収蔵する尾張徳川家の名宝に加え、贈与されたり売却された尾張徳川家の旧蔵品も里帰りし、国宝9件、重要文化財46件を含む名品優品を、すべての展示室を用いて、これまでにない規模で一挙に公開するものだそうです。
非常の膨大な展示でしたので、徳川美術館新館、蓬左文庫展示室、徳川美術館本館(旧館)の3回に分けて紹介します。
徳川美術館の新館(第一~第五展示室)は「伝来の名品」と題した展示でした。
第一展示室では、『短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗』をはじめとする国宝の刀剣七振や徳川家康・義直親子の武器武具類が展示されていました。
※『短刀 無銘 正宗 名物 庖丁正宗』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
教科書でも有名な『徳川家康三方ケ原戦役画像』や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人が同一画面に描かれていることでも有名な『長篠合戦図屏風』も展示されていました。
※『徳川家康三方ケ原戦役画像』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h20/03/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『長篠合戦図屏風』(中央部):http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/03/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、桐紋のため、かつては秀吉着用とされていたものの、最近になって家康着用であることがわかった『花色日の丸威具足』や400年以上の時を経ているにもかかわらずその輝きが美しい家康所用で没後に義直に譲られた重要文化財『脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗』も見応えがありました。
※『花色日の丸威具足』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room1/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『脇指 無銘 貞宗 名物 物吉貞宗』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/01/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
首の部分にチューリップの意匠がある『唐子文染付徳利』や聖母マリアと思われる人面が描かれている『火縄銃 六匁筒 マリア像・唐草文象嵌』などヨーロッパの文化の影響を見ることができる品もあり、興味深かったです。
その他、非常に小さいものの細密な細工の後藤徳乗作の『猩々舞図三所物』や火蓋に金で葵の紋が意匠されている『火縄銃 六匁筒 人面図(アポロ)・唐草文象嵌』も印象に残りました。
第二展示室と第三展示室では、元和9(1623)年2月に、二代将軍徳川秀忠が江戸の尾張屋敷を
公式に訪問した際の記録「元和御成記」に基づき、「御数寄屋置合」、「御成書院置合」、「御鎖の間」などの飾付けのようすが現存する名物茶器によって再現されていました。
名古屋城二之丸御殿にあった猿面茶室が復元されている第二展示室では、大名物で白天目三椀の一つで重要文化財の『白天目』や表面に銀色の細かい油滴の並ぶ『曜変天目(油滴天目)』など美しさに目を奪われました。
※『白天目』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/02.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『曜変天目(油滴天目)』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、『黄天目』の不思議な透明感も印象に残りました。
また、千利休が自ら削って、最期の茶会に用い、古田織部に与えたとされる『竹茶杓 銘 泪 千利休作』や淡い墨の強弱で雄大な景色を描いた『洞庭秋月図 伝牧谿筆』も展示されており、その前は多くの人で大混雑でした。
※『竹茶杓 銘 泪 千利休作』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/01.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『洞庭秋月図 伝牧谿筆』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room2/image/09.jpg(徳川美術館のサイトから)
また、第三展示室には、名古屋城二之丸御殿の広間と鎖の間の一部が復元されています。
ここでは、蓋にも千鳥をかたどったつまみが付いており、盗賊の石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだとき、この千鳥が鳴いたため捕らえられたという伝説がある『青磁香炉 銘 千鳥』や後醍醐天皇が笠置・吉野に遷幸した折にも懐中していられたと伝えられている『盆石 銘 夢の浮橋』など伝説の名品が展示されていました。
※『青磁香炉 銘 千鳥』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room3/image/04.jpg(徳川美術館のサイトから)
※『盆石 銘 夢の浮橋』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room3/image/05.jpg(徳川美術館のサイトから)
名古屋城二之丸御殿の能舞台が原寸大で復元されている第四展示室では華麗な大名能の様子が偲ばれる能面や豪華な能装束などが展示されていました。
ここでは、大胆な鳳凰のデザインが目を引く『紫地鳳凰文金襴長絹』が印象に残りました。
※『紫地鳳凰文金襴長絹』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/artifact/room4/image/08.jpg(徳川美術館のサイトから)
第五展示室では、大名家に嫁いだ姫君たちが持参した婚礼調度などの奥道具が展示されていました。
『純金葵紋散蜀江文硯箱』の豪華な美しさや『純銀檜垣に梅図香盆飾り』の緻密な細工が印象に残りました。
また、金銀の砂子を使ったきらびやかで細密な描写の『歌舞伎図巻』や一瞬の動きをとらえた表現力が秀逸な『本多平八郎姿絵屏風』などの近世初期の風俗画も展示されていました。
※『歌舞伎図巻』:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=90610(文化遺産オンラインから)
※『本多平八郎姿絵屏風』:http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h22/06/image/05.jpg(徳川美術館のサイトから)
これまで、企画展に合わせて別々にしか展示されていなかった徳川美術館の名品が一挙公開されており、大変見応えのある展示でした。
<続きは明日以降、紹介させていただきます。>
2010/10/23 22:22:52
今日の謡の稽古は、『葛城』の1回目。
今日から謡の稽古は、『葛城』になりました。
今日の場面は、出羽の羽黒山の山伏が葛城の明神に参ろうと大和の国の葛城山に着きますが、折からの雪で道がわからなくなってしまい、岩陰で休んでいると、通りかかった柴を持った女から自分の庵で休むようにと声を掛けられる場面です。
※『葛城』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/kazuraki.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ワキ、立衆(二人)「神のむかしの跡とめて。
神のむかしの跡とめて。かづらき山に参らん。
ワキ「これは出羽の羽黒山よりいでたる客僧にて候。
われ宿願の子細あるにより。ただ今和州かづらきの明神に参詣仕り候。
ワキ、立衆「篠懸けの袖の朝霜.起きふしの。
立衆「袖の朝霜起きふしの。
ワキ、立衆「岩根の枕松陰の。やどりもしげき峯つづく山又山を.越えすぎて。
ゆけば程なく大和路や.葛城山につきにけり.かづらき山に.つきにけり。
ワキ「急ぎ候程に葛城山につきて候。あら笑止や俄かに雪の降り来たりて候。
これなる岩かげに立ちより雪を晴らさばやと思い候。
シテ「のうのう.あれなる山伏達はいず方へ御通り候ぞ。
ワキ「これは葛城の明神に参る者にて候が。只今の雪に休らい候。
さてさて御身はいかなる人ぞ。
シテ「これはこの葛城山にすむ者なるが。柴とる道の帰るさに。
家路をだにもわきまえぬに。ましてや知らぬ旅人の。
末いずくにかゆきの山辺に。迷いたもうは.いたはしや。
わらわが庵の候に立ち寄りて雪をおん晴らし候え。
今日の箇所は、ワキの次第、道行、着ゼリフの謡とシテの最初の謡でしたが、それほど難しいところはありませんでした。
一方、仕舞の稽古は『養老』の通しの稽古の3回目でした。
※『養老』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yoro.htm(名古屋春栄会のサイトから)
今日も、シテ謡「みずとうとうどして。波いういうたり。」を謡いながら型をする箇所について、謡に気をとられると舞がぎこちなくなり、舞に気をとられると謡が早くなるので、両方のバランスをうまく取るようにとの指導を受けました。
やはり、この箇所が最大の課題なのは間違いないようです。本番までに修正したいです。
今日から謡の稽古は、『葛城』になりました。
今日の場面は、出羽の羽黒山の山伏が葛城の明神に参ろうと大和の国の葛城山に着きますが、折からの雪で道がわからなくなってしまい、岩陰で休んでいると、通りかかった柴を持った女から自分の庵で休むようにと声を掛けられる場面です。
※『葛城』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/kazuraki.htm(名古屋春栄会のサイトから)
ワキ、立衆(二人)「神のむかしの跡とめて。
神のむかしの跡とめて。かづらき山に参らん。
ワキ「これは出羽の羽黒山よりいでたる客僧にて候。
われ宿願の子細あるにより。ただ今和州かづらきの明神に参詣仕り候。
ワキ、立衆「篠懸けの袖の朝霜.起きふしの。
立衆「袖の朝霜起きふしの。
ワキ、立衆「岩根の枕松陰の。やどりもしげき峯つづく山又山を.越えすぎて。
ゆけば程なく大和路や.葛城山につきにけり.かづらき山に.つきにけり。
ワキ「急ぎ候程に葛城山につきて候。あら笑止や俄かに雪の降り来たりて候。
これなる岩かげに立ちより雪を晴らさばやと思い候。
シテ「のうのう.あれなる山伏達はいず方へ御通り候ぞ。
ワキ「これは葛城の明神に参る者にて候が。只今の雪に休らい候。
さてさて御身はいかなる人ぞ。
シテ「これはこの葛城山にすむ者なるが。柴とる道の帰るさに。
家路をだにもわきまえぬに。ましてや知らぬ旅人の。
末いずくにかゆきの山辺に。迷いたもうは.いたはしや。
わらわが庵の候に立ち寄りて雪をおん晴らし候え。
今日の箇所は、ワキの次第、道行、着ゼリフの謡とシテの最初の謡でしたが、それほど難しいところはありませんでした。
一方、仕舞の稽古は『養老』の通しの稽古の3回目でした。
※『養老』のあらすじ:http://www.syuneikai.net/yoro.htm(名古屋春栄会のサイトから)
今日も、シテ謡「みずとうとうどして。波いういうたり。」を謡いながら型をする箇所について、謡に気をとられると舞がぎこちなくなり、舞に気をとられると謡が早くなるので、両方のバランスをうまく取るようにとの指導を受けました。
やはり、この箇所が最大の課題なのは間違いないようです。本番までに修正したいです。
2010/10/22 23:59:18
名古屋能楽堂十月定例公演に行きました。
名古屋能楽堂の10月の定例公演「能・狂言でたどる天下統一の道(後編) 徳川家康」と題て、慶長8(1603)年4月に京都の二条城で催された徳川家康将軍宣下祝賀能の演目の中から能『大江山』と狂言『朝比奈』が演じられました。
※能『大江山』のあらすじ:http://www.noh-kyogen.com/story/a/ooeyama.html(大槻能楽堂のサイトから)
※狂言『朝比奈』のあらすじ:http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc12/enmoku/asaina.html(文化デジタルライブラリーから)

徳川家康は 関ヶ原の戦い(1600年)で勝利したのち、天下人として武家の統領である征夷大将軍に就任する道を選びます。
慶長8(1603)年2月12日、京都の伏見城にて後陽成天皇からの征夷大将軍の宣旨を受けると、翌3月には竣工したばかりの二条城に移り、公家や大名衆を集めて拝賀の儀式を行います。
その後、4月の4日、6日、7日の3日間にわたって、当時の代表的な能役者を集め、盛大に将軍宣下祝賀能を開きます。
これが前例となり、以後、徳川幕府では代々、将軍が就任するときには祝賀能が開かれることになります。
さらに、同じ年の7月30日、大坂城で家康の孫・千姫と豊臣秀頼との婚礼が行われたときも、祝賀能が催されます。
こうして、婚礼や世継ぎの誕生、賓客の饗応など、重要な場面には演能がつきものとなり、能は“武家の式楽”と称されるようになります。
『大江山』は、将軍宣下祝賀能の初日の慶長8年4月4日の能としては8番目の演目として、金剛流により演じられています。
また、『朝比奈』は、2日目の4月6日に、狂言としては5番目の演目として、大蔵流により演じられています。
今日の狂言『朝比奈』は、シテ〔朝比奈三郎〕が鹿島俊裕師、アド〔閻魔大王〕が佐藤融師という狂言共同社の若手と中堅の競演でした。
鹿島俊裕師は背が高いこともあり、朝比奈三郎の堂々とした武者ぶりがよく出ていました。
佐藤融師の閻魔大王は、狂言面の関係でしょうが、少し声がこもった感じで聞き取りにくい箇所があったのが残念でしたが、朝比奈三郎に振り回される場面など情けない感じがよく出ていて良かったです。
また、この演目は、狂言では珍しく地謡と囃子のある演目でしたが、井上靖浩師らによる地謡がしっかりしていて安心して見ていられました。
能『大江山』は、シテの衣斐正宜師が小柄な方なので、前シテ〔酒呑童子〕の時はそれほど感じなかったのですが、後シテ〔鬼神〕でワキ〔源頼光〕らと斬りあう場面では若干迫力不足に見えてしまいました。
ただ、酒呑童子が酒を飲みながら、頼光らに大江山に隠れ住むようになった経緯を語る場面の謡は、さすがに厚みがあり、声もはっきりしていて聞きやすく、すばらしかったです。
また、アイの一人〔濯女〕が切戸から出入りしていました。こういう場面はあまり見たことがなかったので、珍しく感じました。
中入で間狂言が退場した後、作り物がでてくるまで少し時間が空きました。
この演目では、シテだけでなく、ワキとワキツレも装束を替える必要があるからだと思いますが、この時間でせっかく能の世界に入り込んでいた見所の空気が張り詰めていた糸が切れるように途切れてしまいました。
間狂言の時間も含め、もう少し工夫できていたら良かったのにと残念に思いました。
今日の見所には外国人の姿も目立ちました。
能『大江山』は初めて能を見る人にもわかりやすかったと思いますが、名古屋能楽堂のイヤホンガイドは能しかないので、狂言『朝比奈』は難しかったのではないかと感じました。
名古屋能楽堂の10月の定例公演「能・狂言でたどる天下統一の道(後編) 徳川家康」と題て、慶長8(1603)年4月に京都の二条城で催された徳川家康将軍宣下祝賀能の演目の中から能『大江山』と狂言『朝比奈』が演じられました。
※能『大江山』のあらすじ:http://www.noh-kyogen.com/story/a/ooeyama.html(大槻能楽堂のサイトから)
※狂言『朝比奈』のあらすじ:http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc12/enmoku/asaina.html(文化デジタルライブラリーから)

徳川家康は 関ヶ原の戦い(1600年)で勝利したのち、天下人として武家の統領である征夷大将軍に就任する道を選びます。
慶長8(1603)年2月12日、京都の伏見城にて後陽成天皇からの征夷大将軍の宣旨を受けると、翌3月には竣工したばかりの二条城に移り、公家や大名衆を集めて拝賀の儀式を行います。
その後、4月の4日、6日、7日の3日間にわたって、当時の代表的な能役者を集め、盛大に将軍宣下祝賀能を開きます。
これが前例となり、以後、徳川幕府では代々、将軍が就任するときには祝賀能が開かれることになります。
さらに、同じ年の7月30日、大坂城で家康の孫・千姫と豊臣秀頼との婚礼が行われたときも、祝賀能が催されます。
こうして、婚礼や世継ぎの誕生、賓客の饗応など、重要な場面には演能がつきものとなり、能は“武家の式楽”と称されるようになります。
『大江山』は、将軍宣下祝賀能の初日の慶長8年4月4日の能としては8番目の演目として、金剛流により演じられています。
また、『朝比奈』は、2日目の4月6日に、狂言としては5番目の演目として、大蔵流により演じられています。
今日の狂言『朝比奈』は、シテ〔朝比奈三郎〕が鹿島俊裕師、アド〔閻魔大王〕が佐藤融師という狂言共同社の若手と中堅の競演でした。
鹿島俊裕師は背が高いこともあり、朝比奈三郎の堂々とした武者ぶりがよく出ていました。
佐藤融師の閻魔大王は、狂言面の関係でしょうが、少し声がこもった感じで聞き取りにくい箇所があったのが残念でしたが、朝比奈三郎に振り回される場面など情けない感じがよく出ていて良かったです。
また、この演目は、狂言では珍しく地謡と囃子のある演目でしたが、井上靖浩師らによる地謡がしっかりしていて安心して見ていられました。
能『大江山』は、シテの衣斐正宜師が小柄な方なので、前シテ〔酒呑童子〕の時はそれほど感じなかったのですが、後シテ〔鬼神〕でワキ〔源頼光〕らと斬りあう場面では若干迫力不足に見えてしまいました。
ただ、酒呑童子が酒を飲みながら、頼光らに大江山に隠れ住むようになった経緯を語る場面の謡は、さすがに厚みがあり、声もはっきりしていて聞きやすく、すばらしかったです。
また、アイの一人〔濯女〕が切戸から出入りしていました。こういう場面はあまり見たことがなかったので、珍しく感じました。
中入で間狂言が退場した後、作り物がでてくるまで少し時間が空きました。
この演目では、シテだけでなく、ワキとワキツレも装束を替える必要があるからだと思いますが、この時間でせっかく能の世界に入り込んでいた見所の空気が張り詰めていた糸が切れるように途切れてしまいました。
間狂言の時間も含め、もう少し工夫できていたら良かったのにと残念に思いました。
今日の見所には外国人の姿も目立ちました。
能『大江山』は初めて能を見る人にもわかりやすかったと思いますが、名古屋能楽堂のイヤホンガイドは能しかないので、狂言『朝比奈』は難しかったのではないかと感じました。
2010/10/21 20:50:20
ベランダのバラの最後の花が咲きました。
ベランダで育てている鉢植えのオールドローズについた最後の蕾が咲きました。
以前に紹介した3番目の蕾です(2010年10月11日の日記参照)。
咲き初めです。

[2010年10月16日(土)撮影]
ほぼ満開です。

[2010年10月19日(火)撮影]
切花にしました。

[2010年10月20日(水)撮影]
今年のバラはこれで終わりだと思います。
来年はもう少しうまく咲かせたいです。
ベランダで育てている鉢植えのオールドローズについた最後の蕾が咲きました。
以前に紹介した3番目の蕾です(2010年10月11日の日記参照)。
咲き初めです。

[2010年10月16日(土)撮影]
ほぼ満開です。

[2010年10月19日(火)撮影]
切花にしました。

[2010年10月20日(水)撮影]
今年のバラはこれで終わりだと思います。
来年はもう少しうまく咲かせたいです。
2010/10/20 19:53:43
今日は、日曜日(2010年10月17日)に行った名古屋市博物館で開催中の名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」〔2010年9月25日(土)~11月7日(日)〕の紹介の3回目です。
※名古屋市博物館の名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」のページ:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji100925.html

[2010年10月17日(日)撮影]
第3章 変貌する桃山のわざ
武家が使う道具は、この時代、費用を気にしない信長、秀吉、家康の3人の天下人たちの要望に応えながら、大きく変貌を遂げ、その変化は一般の武士や商人たちが使う道具にも変化をもたらしたそうです。
ここでは、蒔絵と陶器について展示されていました。
(1)工芸の変貌-蒔絵
技巧的で複雑な中世の高蒔絵に替わって、桃山時代に流行した高台寺蒔絵と呼ばれる非常に簡便でわかりやすい平蒔絵を中心とした展示でした。
今回の展覧会では、高台寺(京都市東山区)所蔵の重要文化財の蒔絵の品が前期と後期2点ずつ展示されるとのことです。
前期に展示されていたのは、『竹秋草蒔絵文庫』と『楓桐菊蒔絵薬味壷』の2点でした。
『竹秋草蒔絵文庫』は、稲妻型に斜めで側面を二分したわかりやすいデザインが斬新です。
また、『楓桐菊蒔絵薬味壷』は、同じ形の5個の小壺に菊、楓、桐、梅、山萩の意匠を蒔絵で描き、それらと中心の象牙の蓋をもつ小壺を梅鉢型に漆でつなぎ合わせるというユニークなデザインです。
しかも、それぞれに薬味を入れていたようで、順に“志ほ”、“さんせうのこ”、“からし”、“こせう”、“さんせう”とその薬味が蒔絵で書かれているというのがまたすごいです。
※『竹秋草蒔絵文庫』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji10/100925/72408.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
※『楓桐菊蒔絵薬味壷』:http://www.kodaiji.com/museum/images/mt1.jpg(高台寺掌美術館のサイトから)
厳島神社所蔵の蒔絵の品も2点展示されていました。2点とも前期のみの展示でした。
『梅唐草蒔絵文台・硯箱』は、緻密で繊細な細工が印象的でした。
また、国宝の『蔦蒔絵唐櫃』は、慶長7(1602)年に福島正則が寄進したという銘がある平家納経の外箱で、こちらもとても美しい意匠でした。
この他、菊、萩、薄、桔梗、撫子と秋の花のデザインが優雅な『秋草蒔絵大徳利』や、鶴の羽根と松の葉の緻密な細工が目を引く『橘松竹鶴亀蒔絵文台・硯箱』、蓋の裏側に描かれているので写真による展示でしたが、舞を舞う動きの写実性が際立つ『舞楽蒔絵硯箱』も印象に残りました。
(2)工芸の変貌-やきもの
茶の湯を大成させた千利休の死後、自由な形や文様の美濃焼が流行しますが、その美濃焼を代表する志野、織部の品々が中心の展示でした。
古田織部の屋敷跡から出土した品がまとめて並べて展示されており、その量とデザインの多様さに圧倒されました。
最後に、照明を落とした中に“長次郎から光悦へ”として5口の名椀が展示されており、そのうちの2点は、新たな楽茶碗を産み出したとされる本阿弥光悦の楽茶碗でした。
三井記念美術館所蔵の重要文化財の『黒楽茶碗 銘「雨雲」』は、確かにその名のとおり雨が雲から降っているようでした。
また、同じく重要文化財の『黒楽茶碗 銘「時雨」』には、名古屋市博物館開館30周年記念特別展「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」以来2年半ぶりの再会でした(2008年4月12日の日記参照)。
※『黒楽茶碗 銘「雨雲」』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji10/100925/72409.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
※『黒楽茶碗 銘「時雨」』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji08/080301/5.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
これだけの楽茶碗が一度に展示されることはめったにないので、やきものファンには必見の展覧会だと思います。
昨日、聖龕の展示のところでも書きました(2010年10月19日の日記参照)が、非常に高いレベルの展示なので、もう少し宣伝するべきだと思います。
<3日間、お付き合いいただきありがとうございました。今日で、名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」の紹介は終了します。>
※名古屋市博物館の名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」のページ:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji100925.html

[2010年10月17日(日)撮影]
第3章 変貌する桃山のわざ
武家が使う道具は、この時代、費用を気にしない信長、秀吉、家康の3人の天下人たちの要望に応えながら、大きく変貌を遂げ、その変化は一般の武士や商人たちが使う道具にも変化をもたらしたそうです。
ここでは、蒔絵と陶器について展示されていました。
(1)工芸の変貌-蒔絵
技巧的で複雑な中世の高蒔絵に替わって、桃山時代に流行した高台寺蒔絵と呼ばれる非常に簡便でわかりやすい平蒔絵を中心とした展示でした。
今回の展覧会では、高台寺(京都市東山区)所蔵の重要文化財の蒔絵の品が前期と後期2点ずつ展示されるとのことです。
前期に展示されていたのは、『竹秋草蒔絵文庫』と『楓桐菊蒔絵薬味壷』の2点でした。
『竹秋草蒔絵文庫』は、稲妻型に斜めで側面を二分したわかりやすいデザインが斬新です。
また、『楓桐菊蒔絵薬味壷』は、同じ形の5個の小壺に菊、楓、桐、梅、山萩の意匠を蒔絵で描き、それらと中心の象牙の蓋をもつ小壺を梅鉢型に漆でつなぎ合わせるというユニークなデザインです。
しかも、それぞれに薬味を入れていたようで、順に“志ほ”、“さんせうのこ”、“からし”、“こせう”、“さんせう”とその薬味が蒔絵で書かれているというのがまたすごいです。
※『竹秋草蒔絵文庫』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji10/100925/72408.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
※『楓桐菊蒔絵薬味壷』:http://www.kodaiji.com/museum/images/mt1.jpg(高台寺掌美術館のサイトから)
厳島神社所蔵の蒔絵の品も2点展示されていました。2点とも前期のみの展示でした。
『梅唐草蒔絵文台・硯箱』は、緻密で繊細な細工が印象的でした。
また、国宝の『蔦蒔絵唐櫃』は、慶長7(1602)年に福島正則が寄進したという銘がある平家納経の外箱で、こちらもとても美しい意匠でした。
この他、菊、萩、薄、桔梗、撫子と秋の花のデザインが優雅な『秋草蒔絵大徳利』や、鶴の羽根と松の葉の緻密な細工が目を引く『橘松竹鶴亀蒔絵文台・硯箱』、蓋の裏側に描かれているので写真による展示でしたが、舞を舞う動きの写実性が際立つ『舞楽蒔絵硯箱』も印象に残りました。
(2)工芸の変貌-やきもの
茶の湯を大成させた千利休の死後、自由な形や文様の美濃焼が流行しますが、その美濃焼を代表する志野、織部の品々が中心の展示でした。
古田織部の屋敷跡から出土した品がまとめて並べて展示されており、その量とデザインの多様さに圧倒されました。
最後に、照明を落とした中に“長次郎から光悦へ”として5口の名椀が展示されており、そのうちの2点は、新たな楽茶碗を産み出したとされる本阿弥光悦の楽茶碗でした。
三井記念美術館所蔵の重要文化財の『黒楽茶碗 銘「雨雲」』は、確かにその名のとおり雨が雲から降っているようでした。
また、同じく重要文化財の『黒楽茶碗 銘「時雨」』には、名古屋市博物館開館30周年記念特別展「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」以来2年半ぶりの再会でした(2008年4月12日の日記参照)。
※『黒楽茶碗 銘「雨雲」』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji10/100925/72409.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
※『黒楽茶碗 銘「時雨」』:http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji08/080301/5.jpg(名古屋市博物館のサイトから)
これだけの楽茶碗が一度に展示されることはめったにないので、やきものファンには必見の展覧会だと思います。
昨日、聖龕の展示のところでも書きました(2010年10月19日の日記参照)が、非常に高いレベルの展示なので、もう少し宣伝するべきだと思います。
<3日間、お付き合いいただきありがとうございました。今日で、名古屋開府400年記念特別展「変革のとき 桃山」の紹介は終了します。>