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2010 / 04
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名都美術館に出かけました。

今日の名古屋は、10時過ぎには昨夜来の雨も上がり、すがすがしい晴天の一日でした。
午後から、名都美術館愛知県愛知郡長久手町)に出かけました。名都美術館では、特別展「~生~命へのまなざし 上村松篁」〔2010年3月20日(土)~5月16日(日)〕が開催中でした。
名都美術館のサイトの特別展「~生~命へのまなざし 上村松篁」のページ:http://www.meito.hayatele.co.jp/exhibition/2009/1003.htm

名都美術館201004_01

この展覧会では、上村松篁画伯の生涯にわたる画業を、素描画を含む約80点の作品で一望することができます。

日本画花鳥画としては先進的だった熱帯の動植物を描いた「ハイビスカスとカーディナル」や「鳳凰木」、「燦雨」など色鮮やかな作品も数多く展示されていました。
ハイビスカスとカーディナル富山県水墨美術館のサイトから
鳳凰木富山県水墨美術館のサイトから
燦雨名都美術館のサイトから

一方、伝統的な花鳥画の題材を描いた「杜若」や「丹頂」などの作品は落ち着いた色使いで、日本画の端正さが感じられる作品でした。
丹頂名都美術館のサイトから
杜若フジテレビのサイトから

また、松篁が29歳のときに自宅の庭のハクモクレンを描いた「鳥影趁春風」が1階の展示室に、その44年後の73歳のときに同じハクモクレンを自宅の2階から描いた「白木蓮」が2階の展示室に展示されているなど、展示方法にも工夫があって楽しい展覧会でした。

今日の青空のように心をすっきりできる展覧会でした。
館内は、ゴールデンウィーク初日ということもあり、大変賑わっていました。


帰りに最寄り駅となるリニモ杁ヶ池公園駅にも展覧会のポスターが貼ってあることに気付きました。
リニモ(東部丘陵線)の公式サイト:http://www.linimo.jp/

名都美術館201004_02

このポスターに使われている作品は、「母子の羊」という、松篁が35歳のときに描いた作品です。



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胡蝶蘭の花のその後です。

先週、紹介した胡蝶蘭の鉢植えです(2010年4月23日の日記参照)が胡蝶蘭ですが、1週間経ち、やはりミニタイプの蕾は咲くことなく落ちてしまいました。

胡蝶蘭201004_03
[2010年4月25日撮影]

しかし、大輪のタイプの胡蝶蘭の方は、もう一鉢も咲き始めました。


こちらは順調に咲いていってくれるといいんですが…。



藤の花も満開になろうとしています。

一週間経ち(2010年4月20日の日記参照)、実家の藤の花が満開に近づいてきました。

藤の花201004_02


藤の花は、枕草子では高貴なものの一つとされています。

あてなるもの枕草子第42段)

 薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて 新しき金まりに入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に夢の降りかかりたる。いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。


芭蕉は、藤の花を詠んだ句を一句しか残していません。

草臥て 宿かる比や 藤の花 (芭蕉

この句、、最初は『ほととぎす 宿かる頃の 藤の花』という句だったものを、これだと“ほととぎす”と“藤の花”と季語が二つある季重ねで、それも春と夏であることから、このように直したとのことです。
私は、句としては洗練されてはいないものの、最初の句の方が好きです。



ツツジが満開でした。

実家の庭には何本かツツジありますが、いずれも満開になっていました。

ツツジ201004_01

これは、ヒラドツツジで隣との境界の石垣の上に植わっています。

ツツジ201004_02

こちらは野生種に近い種類だそうです。
芭蕉が見たツツジはこんな感じだったのでしょうか。

躑躅生けて その陰に干鱈 割く女 (芭蕉

この“躑躅”という難しい漢字ですが、中国でツツジにこの漢字が使われているからだそうです。
躑躅〔てきちょく〕”とは、足が止まって動けなくなることをいうそうで、毒性のあるツツジが誤って食べたところ、足ぶみしてもがき、うずくまってしまったことから、ツツジのことを“躑躅”と表すようになったとのことです。

ツツジの中でもレンゲツツジには毒があるそうです。



今年も胡蝶蘭の花が咲き始めました。

昨年は2月中旬に満開になった(2009年2月16日の日記参照)胡蝶蘭ですが、今年は4月になってようやく咲き始めました。

胡蝶蘭201004_01
[2010年4月18日撮影]

亡くなった祖母から生前に預ったミニタイプの胡蝶蘭に加え、昨年の夏に大輪のタイプの胡蝶蘭の鉢が実家から我が家にやってきました。こちらも花が咲き始めました。

胡蝶蘭201004_02
[2010年4月18日撮影]

あとの蕾も順調に咲いていくよう祈っていますが、このところ天候が不順なので心配です。



ミニバラの花が咲き始めました。

ベランダの鉢植えのミニバラの花が咲き始めました。

ミニバラ201004
[2010年4月18日撮影]

このミニバラは、「シルクレッド」という四季咲きの品種です。

ミニバラは、中国原産の庚申バラの矮小種が、ヨーロッパで改良されたものだそうです。
また、庚申バラという名前は、冬も庚申月(隔月)に咲くこと由来しており、四季咲きバラの総称にもなっているとのことです。

今日は、庚申バラの登場する芥川龍之介の短編『』を紹介します。


』(芥川龍之介

 雌蜘蛛は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた。
 すると空に翅音がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛は咄嗟に眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂の翅音の名残りが、かすかな波動を残していた。
 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。
 残酷な沈黙の数秒が過ぎた。
 紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐いた。と思うと蜘蛛は猛然と、蜂の首もとへ跳りかかった。蜂は必死に翅を鳴らしながら、無二無三に敵を刺そうとした。花粉はその翅に煽られて、紛々と日の光に舞い上った。が、蜘蛛はどうしても、噛みついた口を離さなかった。
 争闘は短かった。
 蜂は間もなく翅が利かなくなった。それから脚には痲痺が起った。最後に長い嘴が痙攣的に二三度空を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横わっていた。翅も脚もことごとく、香の高い花粉にまぶされながら、…………
 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静に蜂の血を啜り始めた。
 恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞を切り開いて、この殺戮と掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。灰色の繻子に酷似した腹、黒い南京玉を想わせる眼、それから癩を病んだような、醜い節々の硬まった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。
 こう云う残虐を極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた。――
 その内に雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙間をくぐって、一つの枝の先へ這い上った。先には土いきれに凋んだ莟が、花びらを暑熱にられながら、かすかに甘いを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯れた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。
 しばらくの後、そこには絹を張ったような円錐形の嚢が一つ、眩いほどもう白々と、真夏の日の光を照り返していた。
 蜘蛛は巣が出来上ると、その華奢な嚢の底に、無数の卵を産み落した。それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一天井、紗のような幕を張り渡した。幕はまるで円頂閣〔ドーム〕のような、ただ一つの窓を残して、この獰猛な灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断してしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。
 何週間かは経過した。
 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢の天井を噛み切った。無数の仔蜘蛛は続々と、そこから広間へ溢れて来た。と云うよりはむしろその敷物自身が、百十の微粒分子になって、動き出したとも云うべきくらいであった。
 仔蜘蛛はすぐに円頂閣の窓をくぐって、日の光と風との通っている、庚申薔薇の枝へなだれ出した。彼等のある一団は炎暑を重く支えている薔薇の葉の上にひしめき合った。またその一団は珍しそうに、幾重にも蜜のを抱いた薔薇の花の中へまぐれこんだ。そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空を裂いている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔薇は、梢にかけたヴィオロンが自ら風に歌うように、鳴りどよんだのに違いなかった。
 しかしその円頂閣の窓の前には、影のごとく痩せた母蜘蛛が、寂しそうに独り蹲っていた。のみならずそれはいつまで経っても、脚一つ動かす気色さえなかった。まっ白な広間の寂寞と凋んだ薔薇の莟のと、――無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所と墓とを兼ねた、紗のような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。


この作品の出てくるクモは、糸で巣を作らないハナグモでしょう。
ハナグモのメスの体長は6mmぐらいのようですから、この庚申バラも小輪かもしれません。
ハナグモは自分より大きいミツバチを捕まえることがあるそうです。
※「ミツバチ 花の上でクモに捕まる」(NHKクリエイティブ・ライブラリーから):http://cgi4.nhk.or.jp/creative/cgi/page/MaterialView.cgi?das_id=D0002030179_00000

また、クモは“血を吸う”と言われますがが、実際には、“消化液を獲物の体内に注入して、液体にして飲み込んでいる”(体外消化)のだそうです。



藤の花が咲いていました

実家の藤の花が今年も咲き始めました。

藤の花201004
[2010年4月17日撮影]


藤の花は古くから鑑賞の対象となってきました。
枕草子でも、“木の花は、濃きも薄きも紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。”(第37段)と書かれています。

今日は、若山牧水の『藤の花』という小品を紹介します。


藤の花』(若山牧水

 私は五六歳のころから齒を病んだ。そして十歳の春、私の村にない高等小學校に入るために、村から十里離れた或る城下町の父の知人の家に預けられ、其處でも一二年續いて齒痛のために苦しめられた。
 預けられた二三軒先の隣に鈴木の健ちやんといふ仲よしの同級生がゐた。子供の眼にもつく美少年であつた。その健ちやんの阿母さんが非常に優しい人で、それこそ子供の眼にもつく美しい人であつた。健ちやんに二人の妹があつた。その人たちが七つに九つといつた年ごろであつたとおもふ。或る日、健ちやんの阿母さんは私の齒痛を見かねて、その三人の子供と私とを連れて齒痛どめの神さまとして知られてゐる附近の村の水神さまにお詣りに行つてくれた。
 水神さまは村の人家からずつと離れた溪川の岸に在つた。岩の斷崖の一部を掘り窪めたやうなところに小さなお宮が建ててあり、その眞下は底も見えぬ清らかな淵となつてゐた。お詣りが濟むと我々はお宮の前の狹い狹い岩の窪みに坐つてお辨當を開いた。
 その日もしくしくと私は齒が痛んでゐた。そしてともすると涙を落したい樣な氣持になつてゐた。膝を押し並べた三人の美しい友だちとその阿母さんとに泣き顏を見られるがいやさに、お辨當をたべわづらひながら、ふと眼をそらすとお宮の横から淵の上にかけて眞盛りのうすむらさきの藤の花が岩を傳うて咲き枝垂れてゐるのであつた。
 藤といふと、いつもその日の事を思ひ出す。


若山牧水には、藤の花が出てくる作品が結構ありますが、このエピソードが原因で藤の花が好きになったのかもしれません。




爲三郎記念館を訪ねました。

古川美術館(2010年4月18日の日記参照)のあと、爲三郎記念館に向かいました。
爲三郎記念館では、この日まで特別企画「和紙の灯りあそび」が開催されていました。

為三郎記念館201004_02
古川美術館にて:2010年4月18日(日)撮影]

この展示は、愛知県立芸術大学准教授で、デザイナーとしても活躍されている柴幸次氏と、和紙素材を研究する大学院生・学生によるものだそうです。
数奇屋造りの爲春亭の中に置かれた22の和紙を使った照明によって、和紙の暖かな光が演出されていました。
古川美術館の「和紙の灯りあそび」のページ:http://www.furukawa-museum.or.jp/exhibit/2010/02/index.html

柴幸次氏の作品は、どれも幾何学模様が巧みに使われていて、和室だけでなく洋室にも合いそうなデザインのものが多かったです。
その他の作品では、小林彩智枝さんの『foam』が幻想的で印象に残りました。
小林彩智枝『foam』古川美術館のサイトから

為三郎記念館201004_01
[門:2010年4月18日(日)撮影]

展示の最終日ということもあり、館内は大変混雑していました。



古川美術館に行きました。

今日の名古屋は、春らしい晴天の一日でした。
古川美術館では、ちょうど企画展「弥生のころの最終日でした。

古川美術館201004_01

古川美術館企画展「弥生のころのページ:http://www.furukawa-museum.or.jp/exhibit/2010/02/index.html

1階の第一展示室は、3つのテーマで展示されていました。

春の予感~そして春へ
ここで、印象に残ったのは中村岳陵の『春庭』。早春のはかなさが感じられました。
中村岳陵『春庭』:古川美術館のサイトから

弥生のころ
ここには、美術館の展示ではめずらしく阿部肥の人形が展示されていました。

桜咲く春
ここで、目についたのは森田曠平の『遊楽図』。鮮やかな色使いが印象に残りました。
森田曠平『遊楽図』:古川美術館のサイトから

2階の第二展示室は、2つのテーマで展示されていました。

春の景~今昔
ここでは、並んで展示されていた下川辰彦の『渡月橋』と成田陽の大作『長良の春』が目を引きました。
春本番の華やいだ雰囲気が見事に描かれていました。

春感(春を感じる)
ここでは、日本画で描かれたチューリップが印象的な加倉井和夫の『』と蝶の黄色が鮮やかな牧進の『』が心に残りました。

展示室の中は、まさに春という雰囲気でした。

古川美術館201004_02

古川美術館は、こぢんまりとした美術館ですが、いつも満ち足りた気分にさせてくれます。
今日は、企画展の最終日ということもあり、多くの入場者で賑わっていました。





今日の謡の稽古は、『海人』の7回目。

この一週間も寒い日が多かった名古屋ですが、今日は久しぶりに暖かい一日でした。

今日のの稽古は、『海人』の7回目でした。 
今日の場面は、藤原房前が玉を取りに海に入り、龍宮から玉を取って帰る場面です。

地謡「かくて龍宮にいたりて。宮中をみればその高さ。三十丈の玉塔に。
   かの珠をこめおき.香華を供え守護神に。
   八龍なみいたり.その外悪魚鰐の口。のがれがたしやわが命。
   さすが恩愛の.ふる里の方ぞ恋しき。あの波のあなたにぞ。
   わが子はあるらん.父大臣もおわすらん。さるにてもこのままに。
   別れ果てなん悲しさよと。涙ぐみて立ちしが。
   又思い切りて.手を合わせ。
   なむや志渡寺の観音薩唾の.力をわはせてたび給えとて。
   大悲の利劍を額にあて。龍宮の中にとび入れば。
   左右へばっとぞのいたりける。そのひまに宝珠を盗みとって。
   逃げんとすれば。守護神追っかく.かねてたくみし事なれば。
   持ちたる劍をとりなおし。乳の下をかききり玉おしこめ.
   剣をすててぞふしたりける.龍宮のならいに死人をいめば。
   辺りに近づく悪龍なし.約束の縄を動かせば。
   人々喜び引きあげたりけり.玉は知らずあまびとは海上に浮かみ.いでたり。

シテ「かくて浮かみはいでたれども。悪龍の業と見えて。
   五体もつずかず朱になりたり。玉もいたずらになり。
   母もむなしくなり給うと。大臣嘆き給えば。



今日、稽古した玉ノ段の後半でした。
和吟強吟が入り交じる箇所が、やはり難しかったです。

弓八幡』の舞囃子の稽古は、今日は神舞の最後まで教えていただきました。
その後、先生から“それでは引き続いて仕舞の部分を舞ってください”と言われましたが、今日は仕舞の部分は全く稽古して行かなかったので、ボロボロでした。
きちんと復習しておかないといけないと改めて思いました。




今日は、「河童」の第14章を紹介します。

前章でこの章で、詩人のトックの自殺にショックを受けた主人公は、河童の宗教に関心を持ち、学生のラップから、河童の国には、基督教〔キリスト教〕、仏教モハメット教〔イスラム教〕、拝火教〔ゾロアスター教〕などがあるが、最も勢力のある宗教は近代教(生活教)だと教えられます。


河童』(芥川龍之介)

十四

 僕に宗教というものを思い出させたのはこういうマッグの言葉です。僕はもちろん物質主義者ですから、真面目に宗教を考えたことは一度もなかったのに違いありません。が、この時はトックの死にある感動を受けていたためにいったい河童の宗教はなんであるかと考え出したのです。僕はさっそく学生のラップにこの問題を尋ねてみました。
「それは基督教、仏教、モハメット教、拝火教なども行なわれています。まず一番勢力のあるものはなんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」(「生活教」という訳語は当たっていないかもしれません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利語の ism という意味に当たるでしょう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合(こうごう)を行なったり」する意味です。)
「じゃこの国にも教会だの寺院だのはあるわけなのだね?」
「常談を言ってはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行っては?」
 ある生温かい曇天の午後、ラップは得々と僕といっしょにこの大寺院へ出かけました。なるほどそれはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を一つに組み上げた大建築です。僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や円屋根をながめた時、なにか無気味にさえ感じました。実際それらは天に向かって伸びた無数の触手のように見えたものです。僕らは玄関の前にたたずんだまま、(そのまた玄関に比べてみても、どのくらい僕らは小さかったのでしょう!)しばらくこの建築よりもむしろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げていました。
 大寺院の内部もまた広大です。そのコリント風の円柱の立った中には参詣人が何人も歩いていました。しかしそれらは僕らのように非常に小さく見えたものです。そのうちに僕らは腰の曲がった一匹の河童に出合いました。するとラップはこの河童にちょっと頭を下げた上、丁寧にこう話しかけました。
「長老、御達者なのは何よりもです。」
 相手の河童もお時宜をした後、やはり丁寧に返事をしました。
「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかったのはラップの嘴の腐っているのにやっと気がついたためだったでしょう。)――ああ、とにかく御丈夫らしいようですね。が、きょうはどうしてまた……」
「きょうはこの方のお伴をしてきたのです。この方はたぶん御承知のとおり、――」
 それからラップは滔々と僕のことを話しました。どうもまたそれはこの大寺院へラップがめったに来ないことの弁解にもなっていたらしいのです。
「ついてはどうかこの方の御案内を願いたいと思うのですが。」
 長老は大様に微笑しながら、まず僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑との果がなっています。あの金の果を『善の果』と言い、あの緑の果を『悪の果』と言います。……」
 僕はこういう説明のうちにもう退屈を感じ出しました。それはせっかくの長老の言葉も古い比喩のように聞こえたからです。僕はもちろん熱心に聞いている容子を装っていました。が、時々は大寺院の内部へそっと目をやるのを忘れずにいました。





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今日は、「河童」の第13章を紹介します。

芥川龍之介の「河童」を紹介していますが、再び少し間が空いてしまいました。
※第12章:2009年12月7日の日記

この章で、主人公は、詩人のトックの自殺に遭遇します。一方、その現場にたまたま通りかかった音楽家のクラバックは、トックが残した詩を見て、「しめた! すばらしい葬送曲が出来るぞ。」と叫んで飛び出していってしまいます。


河童』(芥川龍之介)

十三

 僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植えの中に仰向けになって倒れていました。そのまたそばには雌の河童が一匹、トックの胸に顔を埋め、大声をあげて泣いていました。僕は雌の河童を抱き起こしながら、(いったい僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることをあまり好んではいないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろトック君はわがままだったからね。」
 硝子会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに金口の巻煙草に火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創口などを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹とです。)
「もう駄目です。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
 哲学者のマッグは弁解するようにこう独り語をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆頸をのばし、(もっとも僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにおえる谷へ。」

 マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」




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kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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