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今日から謡の稽古は、『藤永』になりました。

の稽古は、今日から『藤永』になりました。
今日の場面は、最明寺時頼が、修行僧の姿になって西国に下り、芦屋で宿を借りようとする場面です。

ワキ「夢の世なればおどろきて。夢の世なればおどろきて。
   捨つるやうつつなるらん。

ワキ「これは諸国一見の僧にて候。
   われいまだ西国を見ず候ほどに。
   このたび思い立ち西国修行と志して候。

〔道行〕
ワキ「夕べ夕べの仮枕。夕べ夕べの仮枕。
   宿はあまたに変われども。同じうきねの身のゆくえ。
   そことも知らぬ習いかな。そことも知らぬ習いかな。
   急ぎ候程にこれは早や。芦屋の里に着きて候。
   日の暮れて候ほどに。
   これなる塩屋に宿を借らばやと思い候。
   いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。

ワキツレ「たれにてわたり候ぞ
ワキ「行き暮れたる修行者にて候。一夜の宿をおん貸し候え。
ワキツレ「あまりに見苦しく候ほどに。おん宿は叶い候まじ。
ワキ「いや見苦しきは苦しからず候。ただ一夜をおん貸し候え。
ワキツレ「さらばお宿を参らせんと。いぶせき閨の塵はらい
地謡「十符の菅ごも。しきりに松風や.浮世の夢を覚ますらん。


今日、3月から稽古を始める方が見学にいらっしゃいました。いつものことですが、見学の方がいると緊張します。



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漱石の生家の話です。

今日は、漱石の生まれた家の近所の思い出話です。

話に出てくる“小倉屋”という酒屋は、『硝子戸の中(14)』で、『「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい。」』と言って、『とうとう金は一文も奪られ』なかったという酒屋の小倉屋のことです。
※『硝子戸の中(14)』:2008年1月24日の日記

また、“御北さん”の唄っている長唄は、おそらく『勧進帳』でしょう。長唄の『勧進帳』はその冒頭が、「旅に衣は篠懸の 旅に衣は篠懸の 露けき袖やしをるらん」です。
なお、この“小倉屋”という酒屋今も続いているようです。
小倉屋酒店のサイト:http://www.h5.dion.ne.jp/~kokuraya/index.html 


硝子戸の中』(夏目漱石)

十九

 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。
 それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過などに、私はよく恍惚とした魂を、麗かな光に包みながら、御北さんの御浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠たせて、佇立んでいた事がある。その御蔭で私はとうとう「旅の衣は篠懸の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。




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久しぶりに漱石の『硝子戸の中』を紹介します。

今日は、その十八で、漱石を訪ねてきたの話です。

硝子戸の中』のは、漱石の家を、突然、全く知らないが訪ねてきて、相談を持ちかけるという話ですが、今日のは、一応、漱石の知り合いのようです。
※『硝子戸の中・六』:2007年12月11日の日記
 『硝子戸の中・七』:2007年12月12日の日記
 『硝子戸の中・』:2007年12月13日の日記

また、その相談ごともそれほど深刻なものではないようで、は言いたいことだけ言うとあっさり帰っていってしまいます。


硝子戸の中』(夏目漱石)

十八

 私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲がきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜しいものでしょう」と聞いた。
 この女はある親戚の宅に寄寓しているので、そこが手狭な上に、子供などが蒼蠅いのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家を探して下宿でもしたら好いでしょう」
「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」
 私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。
「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」
「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」
「どんなものと云って、真直な直線なのです」
 私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。
「物には何でも中心がございましょう」
「それは眼で見る事ができ、尺度で計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」




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今日の名古屋は、弱い雨の一日でした。

今週中、雨の日が続くようで、1か月早い菜種梅雨と言っているテレビのニュース番組もありました。
テレビのニュースといえば、先週は酔っ払って醜態を晒した人が話題でしたが、今日は、酔っ払いを描いた夏目漱石の短編「人間」を紹介します。
この作品は、『永日小品』の11番目の短編です。
ところで、この作品の主人公“御作”は、『硝子戸の中・十七』に登場する床屋の主人の姪の“御作”と同一人物なのでしょうか。
※『硝子戸の中・十七』:2008年2月8日の日記


永日小品・人間』(夏目漱石)


 御作さんは起きるが早いか、まだ髪結は来ないか、髪結は来ないかと騒いでいる。髪結は昨夕たしかに頼んでおいた。ほかさまでございませんから、都合をして、是非九時までには上りますとの返事を聞いて、ようやく安心して寝たくらいである。柱時計を見ると、もう九時には五分しかない。どうしたんだろうと、いかにも焦れったそうなので、見兼ねた下女は、ちょっと見て参りましょうと出て行った。御作さんは及び腰になって、障子の前に取り出した鏡台を、立ちながら覗き込んで見た。そうして、わざと唇を開けて、上下とも奇麗に揃った白い歯を残らず露わした。すると時計が柱の上でボンボンと九時を打ち出した。御作さんは、すぐ立ち上って、間の襖を開けて、どうしたんですよ、あなたもう九時過ぎですよ。起きて下さらなくっちゃ、晩くなるじゃありませんかと云った。御作さんの旦那は九時を聞いて、今床の上に起き直ったところである。御作さんの顔を見るや否や、あいよと云いながら、気軽に立ち上がった。
 御作さんは、すぐ台所の方へ取って返して、楊枝と歯磨と石鹸と手拭を一と纏めにして、さあ、早く行っていらっしゃい、と旦那に渡した。帰りにちょっと髯を剃って来るよと、銘仙のどてらの下へ浴衣を重ねた旦那は、沓脱へ下りた。じゃ、ちょいと御待ちなさいと、御作さんはまた奥へ駆け込んだ。その間に旦那は楊枝を使い出した。御作さんは用箪笥の抽出から小さい熨斗袋を出して、中へ銀貨を入れて、持って出た。旦那は口が利けないものだから、黙って、袋を受取って格子を跨いだ。御作さんは旦那の肩の後へ、手拭の余りがぶら下がっているのを、少しの間眺めていたが、やがて、また奥へ引込んで、ちょっと鏡台の前へ坐って、再び我が姿を映して見た。それから箪笥の抽出を半分開けて、少し首を傾けた。やがて、中から何か二三点取り出して、それを畳の上へ置いて考えた。が、せっかく取り出したものを、一つだけ残して、あとは丁寧にしまってしまった。それからまた二番目の抽出を開けた。そうしてまた考えた。御作さんは、考えたり、出したり、またはしまったりするので約三十分ほど費やした。その間も始終心配そうに柱時計を眺めていた。ようやく衣裳を揃えて、大きな欝金木綿の風呂敷にくるんで、座敷の隅に押しやると、髪結が驚いたような大きな声を出して勝手口から這入って来た。どうも遅くなってすみません、と息を喘ませて言訳を云っている。御作さんは、本当に、御忙がしいところを御気の毒さまでしたねえと、長い煙管を出して髪結に煙草を呑ました。





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永日小品』の中の短編「行列」を紹介した2008年3月21日の日記を訂正します。

2008年3月21日に『永日小品・行列』と題して、次の文章を掲載しました。

*****
夏目漱石には7人の子どもがいました。

漱石が、『永日小品』を朝日新聞に連載していたのは、明治42(1909)年の1月から3月にかけてです。
そのとき、漱石には4人の娘2人の息子がいました。
6人の子ども達は、
 長女筆子:明治32(1899)年5月生まれ
 次女恒子:明治34(1901)年1月生まれ
 三女栄子:明治36(1903)年10月生まれ
 四女愛子:明治38(1905)年12月生まれ
 長男純一:明治40(1907))年6月生まれ
 次男伸六:明治41(1908)年12月生まれ  です。

今日、紹介する短編が「行列」で仮装行列のような遊びをしているのは、4人の女の子たちでしょう。長男は2歳ですし、次男は生まれたばかりなので、この遊びは無理だと思われます。
この作品は、『永日小品』の19番目の短編です。


永日小品・行列』(夏目漱石)


 ふと机から眼を上げて、入口の方を見ると、書斎の戸がいつの間か、半分明いて、広い廊下が二尺ばかり見える。廊下の尽きる所は唐めいた手摺に遮られて、上には硝子戸が立て切ってある。青い空から、まともに落ちて来る日が、軒端を斜に、硝子を通して、縁側の手前だけを明るく色づけて、書斎の戸口までぱっと暖かに射した。しばらく日の照る所を見つめていると、眼の底に陽炎が湧いたように、春の思いが饒かになる。
 その時この二尺あまりの隙間に、空を踏んで、手摺の高さほどのものがあらわれた。赤に白く唐草を浮き織りにした絹紐(リボン)を輪に結んで、額から髪の上へすぽりと嵌めた間に、海棠と思われる花を青い葉ごと、ぐるりと挿した。黒髪の地に薄紅の莟が大きな雫のごとくはっきり見えた。割合に詰った顎の真下から、一襞になって、ただ一枚の紫が縁までふわふわと動いている。袖も手も足も見えない。影は廊下に落ちた日を、するりと抜けるように通った。後から、――
 今度は少し低い。真紅の厚い織物を脳天から肩先まで被って、余る背中に筋違の笹の葉の模様を背負っている。胴中にただ一葉、消炭色の中に取り残された緑が見える。それほど笹の模様は大きかった。廊下に置く足よりも大きかった。その足が赤くちらちらと三足ほど動いたら、低いものは、戸口の幅を、音なく行き過ぎた。
 第三の頭巾は白と藍の弁慶の格子である。眉廂の下にあらわれた横顔は丸く膨らんでいる。その片頬の真中が林檎の熟したほどに濃い。尻だけ見える茶褐色の眉毛の下が急に落ち込んで、思わざる辺から丸い鼻が膨れた頬を少し乗り越して、先だけ顔の外へ出た。顔から下は一面に黄色い縞で包まれている。長い袖を三寸余も縁に牽いた。これは頭より高い胡麻竹の杖を突いて来た。杖の先には光を帯びた鳥の羽をふさふさと着けて、照る日に輝かした。縁に牽く黄色い縞の、袖らしい裏が、銀のように光ったと思ったらこれも行き過ぎた。
 すると、すぐ後から真白な顔があらわれた。額から始まって、平たい頬を塗って、顎から耳の附根まで遡ぼって、壁のように静かである。中に眸だけが活きていた。唇は紅の色を重ねて、青く光線を反射した。胸のあたりは鳩の色のように見えて、下は裾までばっと視線を乱している中に、小さなヴァイオリンを抱えて、長い弓を厳かに担いでいる。二足で通り過ぎる後には、背中へ黒い繻子の四角な片をあてて、その真中にある金糸の刺繍が、一度に日に浮いた。
 最後に出たものは、全く小さい。手摺の下から転げ落ちそうである。けれども大きな顔をしている。その中でも頭はことに大きい。それへ五色の冠を戴いてあらわれた。冠の中央にあるぽっちが高く聳えているように思われる。身には井の字の模様のある筒袖に、藤鼠の天鵞絨(びろうど)の房の下ったものを、背から腰の下まで三角に垂れて、赤い足袋を踏んでいた。手に持った朝鮮の団扇が身体の半分ほどある。団扇には赤と青と黄で巴を漆で描いた。
 行列は静かに自分の前を過ぎた。開け放しになった戸が、空しい日の光を、書斎の入口に送って、縁側に幅四尺の寂しさを感じた時、向うの隅で急にヴァイオリンを擦る音がした。ついで、小さい咽喉が寄り合って、どっと笑う声がした。
 宅の小供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな遊戯をしている。



ちょうど4組出てきますので、4人の娘に間違いないと思います。
漱石娘たちへの愛情が感じられる短編です。


*****

しかし、一昨日(2009年2月20日)、“ぴーなっつ”さんから、次のような指摘をいただきました。

行列を創っているのは5人だと思うのですが、いかかでしょうか?
(1)紫の布をまとっている子と(2)真紅の羽織をかぶっている子と(3)弁慶姿の子と(4)真っ白な顔の子と(5)五色の冠をかぶっている子です。


読み直してみると、ご指摘いただいたとおりで、5人の子どもが登場しています。
昨年、どうして4人と思ったのかは、今となってはわかりませんが、本日、訂正させていただきます。
漱石が、『最後の出たものは、全く小さい』と書いていることからも、5人目が当時2歳の長男純一だと思います。




寒の戻りのような天気です。

名古屋でも、昨日から冬が戻ってきました。まだ、2月なので“寒の戻り”という表現は適切ではないのかもしれませんが、先週末の春本番のような陽気の後だと、“寒の戻り”という表現がぴったりに感じます。

今日は、2月の話から始まる芥川龍之介の短編『』を紹介します。
この短編のテーマは、芥川の小説の重要なテーマの一つである“近代人の苦悩”と思われます。

』(芥川龍之介)

 書紀によると、日本では、推古天皇の三十五年春二月、陸奥で始めて、貉が人に化けた。尤もこれは、一本によると、化レ人(ヒトニナリテ)でなくて、比レ人(ヒトニマジリテ)とあるが、両方ともその後に歌之(ウタウ)と書いてあるから、人に化けたにしろ、人に比ったにしろ、人並に唄を歌った事だけは事実らしい。
 それより以前にも、垂仁紀を見ると、八十七年、丹波の国の甕襲と云う人の犬が、貉を噛み食したら、腹の中に八尺瓊曲玉があったと書いてある。この曲玉は馬琴が、八犬伝の中で、八百比丘尼妙椿を出すのに借用した。が、垂仁朝の貉は、ただ肚裡に明珠を蔵しただけで、後世の貉の如く変化自在を極めた訳ではない。すると、貉の化けたのは、やはり推古天皇の三十五年春二月が始めなのであろう。



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胡蝶蘭の花が満開です。

先月〔2009年1月22日の日記〕にも紹介した鉢植えの胡蝶蘭の花が、満開になりました。

胡蝶蘭20090215
[2009年2月15日(日)撮影]

亡くなった祖母を思い出す花です。



日展に行きました。

愛知県美術館8階ギャラリーで今日〔2009年2月15日(日)〕まで開催されていた「第40回日展 東海展」に出かけました。展覧会は最終日ということもあって、大変にぎわっていました。

日展40東海展200902
[愛知県美術館2階入り口:2009年2月15日(日)]

毎回のことですが、非常に多くの作品が展示されていました。その中から私の印象に残った作品を紹介します。

○日本画
 『静寂』 國井たか子
  繊細の線に心を奪われました。
 『天水』 岩澤重夫 (審査員)
  じっと見ていると、絵の中に吸い込まれそうになりました。
 ※『天水』:日展のサイトから
○洋画
 『釣人と空」 片岡世喜 (特選)
 ※『釣人と空』:日展のサイトから
  水面に写る青い空と雲が、シャープな美しさを感じました。
○彫刻
 『飛騨の曲獅子』 小林啓利
  縦に並んだ獅子をかぶっている子どもの顔と獅子の顔の対比が心に残りました。 
○書
 『香具山』 林玲玉
  紙と文字のバランスがすばらしい作品でした。
○工芸
 ・人形
  『それぞれの旅立』 八田洋子
   白い服と顔の表情が印象的でした。
 ・陶器
  『bod』 山本幸嗣
   触ることはできませんでしたが、心地よい肌触りが感じられるような作品でした。

今日の名古屋は、昨日に引き続き、暖かい晴天でした。美術館を出ると名古屋テレビ塔が雲ひとつない青空にそびえていました。

名古屋テレビ塔200902
オアシス21・水の宇宙船から:2009年2月15日(日)]



梅の花が満開です。

今日は全国的に異常なほど暖かい一日でしたが、名古屋でも最低気温10.0℃最高気温19.1℃4月中旬の陽気でした。
そんな季節はずれの陽気のせいか、実家の庭のが、白梅紅梅も満開になっていました。

梅の花200902_01

梅の花200902_02

梅の花200902_03

野路の梅 白くも赤くも あらぬかな (蕪村




今日は左利きの日

今朝の日経新聞の「春秋」によると、2月10日は“左利きの日”だそうです。

一説によると、きょうは左利きの日らしい。世界的な左利きの日は別にあるが、0(レ)2(フ)10(ト)と日本語と英語が交じった語呂合わせと聞く。

ちなみに世界的な左利きの日は8月13日だそうです。
また、夏目漱石の『坊っちゃん』の主人公も左利きらしいと書いてありました。

夏目漱石の「坊っちゃん」も左利きと読める。友達を前にナイフで「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」と文中にある。

この部分は、“坊っちゃん”が自分の無鉄砲な性格を説明する小説の冒頭の有名な一節ですが、この部分から左利きであることが推測されていることは、私は今日まで知りませんでした。

今日は、少し長くなりますが、『坊っちゃん』の第一章を紹介します。

坊っちゃん』(夏目漱石)



 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。
 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。




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新春日本画名品展が開催中でした。

名古屋市美術館では、常設企画展「新春日本画名品展」が昨日〔2009年2月8日(日)〕まで開催されていました。
この展覧会は、同じく昨日〔2009年2月8日(日)〕まで開催されていた特別展 モネ「印象 日の出」展にあわせて開催されたとのことで、印象派の技法を取り入れている日本画横山大観の『日月』[1902年頃]が展示されていました。線を使わず、色の濃淡で表現する大観らが試みたいわゆる朦朧体は、印象派の技巧を取り入れたものだそうです。

今回の展示作品の中で、私の一番のお気に入りは前田青邨の『修羅道』[1920~1930年代]です。
ユーモラスな顔に描かれた阿修羅が、風を切っている様子が金の細い線で描かれており、躍動感にあふれた作品でした。

モネ展のチケットでこちらも見学できるのですが、モネ展の喧騒が嘘のように人がいませんでした。この展示室も見応えがあるのに残念だと感じました。



モネを見に行きました。

名古屋市美術館で、日仏交流150周年記念・名古屋市美術館開館20周年記念として開催されている「モネ「印象 日の出」展」を、最終日の今日〔2009年2月8日(日)〕、見てきました。
1週間ほど前からかなり混雑していると聞いていましたので、朝早く出かけましたが、開館時刻〔9時30分〕の10分ほど前に到着したときには、既に入館待ちの列が伸びていました。

名古屋市美術館200902_01
[名古屋市美術館入り口:2009年2月8日(日)]

今回の展覧会の目玉は、展覧会のタイトルでもあり、この展覧会のポスター、パンフレット、看板などにも使われているフランスパリマルモッタン美術館所蔵の『印象 日の出』(クロード・モネ Claude Monet)[1873年]です。今回、日本では名古屋でのみ公開されるということで、東京大阪から見に来ている方もたくさんいらっしゃるそうです。

パリ市内ブローニュの森の近くにあるマルモッタン美術館は、フランス語の正式館名がMusée Marmottan Monetであることからもわかるように、フランスの美術史家、ポール・マルモッタンの邸宅を利用したモネのコレクションで有名な美術館です。

この展覧会には、モネの作品を中心に、ブーダンピサロシスレーセザンヌルノワールなどの印象派を代表する画家の作品が展示されていました。

一番人気を集めていたのは、やはり『印象 日の出』(クロード・モネ Claude Monet)[1873年]でしたが、私の印象に残ったのは、モネの最初の油絵と言われている『ルエルの眺め』(クロード・モネ Claude Monet)[1858年]です。油絵を描き始めて半年、17歳のときの作品とは思えない完成度の高さに驚きました。
※『ルエルの眺め』:丸沼芸術の森のサイトから

モネの作品では、『ヴェルノンの教会の眺め』(クロード・モネ Claude Monet)[1883年]も印象に残りました。春の暖かい日差しと水面に写る教会の美しい風景を眺めていると、実際にその場所に行きたくなってしまいます。
※『ヴェルノンの教会の眺め』:名古屋市美術館のサイトから

実は、今回の展覧会で私が一番見たかった作品は、モネではなく、『サン=クルーの風景』(アルフレッド・シスレー Alfred Sisley)[1876年]でした。想像していたとおりの作品で、しばらく見入ってしまいました。

今回の展覧会の作品の中、『印象 日の出』以外は全て国内の美術館や個人が所蔵しているということを知り、日本に印象派の作品がたくさんあることに驚きました。

名古屋市美術館200902_02
[白川公園入り口:2009年2月8日(日)]

冬枯れの白川公園に冬の朝の弱い日差しが差し込んでいました。



kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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