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2008 / 10
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今日は三日月でした。

私は、三日月を見ると、中学校のときに教科書で読んだ芥川龍之介の『杜子春』の最後の場面を思い出します。

その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
〔『杜子春』(芥川龍之介)から〕


ちなみに、クロワッサン(Croissant)は、フランス語三日月という意味で、三日月形のパンのためそう呼ばれているとのことです。

季節は初秋だと思いますが、秋の三日月を詠んだ句を紹介します。

三日月の 地はおぼろなり 蕎麦の花 (芭蕉




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シテの持つ“狂い笹”

柏崎』のシテ柏崎某の妻は、を持って登場します。
柏崎』、『角田川』、『三井寺』などの狂女物シテが持つのことを“狂い笹”と言います。

は時間が経つと葉が萎れてしまうということで、今回も、当日、金春穂高師が自ら楽屋での形を整えていらっしゃいました。
その姿を拝見し、能楽師はいろんなことを、ご自分でされるんだなあと改めて思いました。

でも、どうして狂女(子を思う母)が持つのはなのでしょうか。を持ってシテが出てきたら、一目で狂女だとすぐわかるようにするための様式美のようなものなのでしょうか。

ところで、世阿弥は『風姿花伝』で、「時の花を挿頭〔かざし〕に挿すべし」と述べています。いったい、いつに変わったのでしょうか。

風姿花伝』(世阿弥

およそ、物狂の出立、似合ひたる様に出で立つべきこと、是非なし。さりながら、とても物狂にこと寄せて、時によりて、なにとも花やかに出で立つべし。時の花を挿頭に挿すべし。 
(「第二 物学条々、物狂」から抜粋)


確かにシテが手に持つの繊細なそよぎには、狂女(子を思う母)の揺れ動く心がよく表れているように思えます。



この句は、正岡子規の代表句の一つです。

明治28(1895)年3月、子規日清戦争の従軍記者として東京を発ち、4月10日、宇品から中国遼東半島金州(現在の遼寧省大連市金州区)に到着します。
しかし、4月17日に講和がなったので、5月に帰国の途のつきますが、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院します。
その後、2か月間須磨保養院で療養し、8月25日に母と妹のいる松山大原の家に帰省します。
そして、ちょうどその年の春に松山中学校英語教師として東京から松山に赴任していた漱石の勧めにより、松山市内の漱石の下宿・愚陀佛庵で10月まで共同生活を送ります。
10月19日に子規は上京するため松山を発ち、10月31日に東京に戻るまでの約2週間、広島須磨大坂を経て、奈良に立ち寄ります。
そして、10月26日奈良でこの句を詠みます。

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺


今日の名古屋は、朝から雨の寒い一日でした。
朝からのどが痛く、昨日の地謡のせいかとも思いましたが、多分カゼだと判断し、昼に風邪薬を飲みました。
そうしたら、たちまち眠くなり、今日の午後はほとんど寝ていました。
今もまだ、のどが痛いので今日は早く寝ようと思っています。



第29回名古屋金春会が開催されました。

今日の名古屋は、秋らしい過ごしやすい一日でした。
午後1時30分から名古屋能楽堂名古屋金春会が開かれ、私は金春穂高師の柏崎』で地謡を勤めさせていただきました。
何とか、を間違えることもなく、また終了後も無事に立ち上がって退場できました。

また、午前中に同じく、名古屋能楽堂で開かれた名古屋金春流友会では、仕舞岩船』を舞いました。
こちらも、シテ謡を忘れることもなく、も間違えずに舞うことができました。

いずれも及第点とは言えないまでも、最低限のラインには到達できたもののと思っています。

また、今日は花もいただいてしまいました。全く予想していなかったので、まさに望外の喜びでした。

フラワーアレンジメント20081025

忙しい中、見所にお越しいただいた皆さん、本当にありがとうございました。



名古屋金春会の申し合わせの日でした。

能・狂言では、本番前に一度出演者が集まって合わせることを“申し合わせ”といいます。
今日は、明日の名古屋金春会の申し合わせが午後3時過ぎから名古屋能楽堂で行われました(…というか行われたはずです)。

金春穂高師の柏崎』に地謡を勤めさせていただく私も申し合わせに参加する予定で、職場にはかなり前に休暇(正確には休日出勤の代休ですが)の申請もして、準備万端だったんですが、突然発生した私事のよんどころない用事で参加できなくなってしまいました。

そんなわけで、明日はぶっつけ本番となってしまいましたが、諸先輩のみなさんの足を引っ張らないように勤めたいと思っています(寝る前にもう一度、謡をチェックしなきゃ…)。



スコットランドのハイランド地方の秋

永日小品』の20番目の短編「」にスコットランド・ハイランド地方の10月の風景が描かれています。

永日小品・昔』(夏目漱石)

 ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包んで、じかには地にも落ちて来ぬ。と云って、山向へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔し、二百年の昔にかえって、やすやすと寂びてしまう。人は世に熟れた顔を揃えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地を透かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。
 自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色に枯れている西の端に、一本の薔薇が這いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟まった花をいくつか着けた。大きな弁は卵色に豊かな波を打って、萼から翻えるように口を開けたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香は薄い日光に吸われて、二間の空気の裡に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓の届かぬ限りを尽くして真直に聳えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄の奥から落ちて来る。
 足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥の下が、平たく色で埋まっている。その向う側の山へ上る所は層々と樺の黄葉が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明かで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿って動いている。泥炭を含んだ渓水は、染粉を溶いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
 後から主人が来た。主人の髯は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装も尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥の膝掛のように粗い縞の織物である。それを行灯袴に、膝頭まで裁って、竪に襞を置いたから、膝脛は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
 主人は毛皮で作った、小さい木魚ほどの蟇口を前にぶら下げている。夜煖炉の傍へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草を出す。そうしてぷかりぷかりと夜長を吹かす。木魚の名をスポーランと云う。
 主人といっしょに崖を下りて、小暗い路に這入った。スコッチ・ファーと云う常磐木の葉が、刻み昆布に雲が這いかかって、払っても落ちないように見える。その黒い幹をちょろちょろと栗鼠が長く太った尾を揺って、駆け上った。と思うと古く厚みのついた苔の上をまた一匹、眸から疾く駆け抜けたものがある。苔は膨れたまま動かない。栗鼠の尾は蒼黒い地を払子のごとくに擦って暗がりに入った。
 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯るとキリクランキーの峡間があると云った。
 高地人(ハイランダース)と低地人(ローランダース)とキリクランキーの峡間で戦った時、屍が岩の間に挟って、岩を打つ水を塞いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
 自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪おうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散っていた。


ピトロクリ」は、現在、スコットランドハイランド地方の有名なリゾート地となっているピットロッホリー(Pitlochry)のことのようです。
ただ、私には、Pitlochryピトロクリと発音するのはかなり無理があるように思えるんですが…。

キリクランキーの古戦場」はスコットランドの有名な古戦場です。
1688年~1689年にイギリスステュアート朝イングランド王ジェームズ2世(James VII of Scotland and James II of England)を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領ウィリアム3世(William III (of Orange))イングランド王に即位させるクーデター、いわゆる名誉革命(Glorious Revolution)が起こります。
この革命に反対し、ジェームズ2世とその直系男子のみが正統な国王であるとして、その復位を支持するジャコバイト(Jacobite)ダンディー子爵(John Graham of Claverhouse, 1st Viscount Dundee)は、アイルランドで起きた反革命のウィリアマイト戦争(The Williamite war in Ireland)に呼応して武装蜂起し、キリクランキー(Killiecrankie)イングランド軍と戦い、勝利します。
しかし、この戦いでダンディー子爵が戦死したことにより、スコットランドの反革命は急速に勢いを失い、翌年、ダンケルド(Dunkeld)の戦いでイングランド軍に敗北します。

高地人(ハイランダース)と低地人(ローランダース)」というのは、スコットランド人が自分たちを区別して呼ぶ名称だそうです。
スコットランド人は、自分たちをハイランダー(高地人)ローランダー(低地人)に区別する傾向があるそうです。
ハイランダーは、カトリックが多く、ケルト色が濃く、強い氏族意識をもつ者が多く、ローランダーは、主としてアングロ・サクソン人の血をひくプロテスタントが多いとのことです。

私は、まだスコットランドに行ったことはありませんが、この作品を読み、ぜひ秋に行ってみたくなりました。



犯罪は、ついに発覚します。

主人公のの犯罪は、黒猫によって明るみに出ます。
165年の時を経ても色褪せないスリルを味わってください。

今日は、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の『黒猫』の最終回(7回目)です。


黒猫』〔7〕

エドガー・アラン・ポー)〔佐々木直次郎訳〕


 二日目も過ぎ三日目も過ぎたが、それでもまだ私の呵責者は出てこなかった。もう一度私は自由な人間として呼吸した。あの怪物は永久にこの屋内から逃げ去ってしまったのだ! 私はもうあいつを見ることはないのだ! 私の幸福はこの上もなかった! 自分の凶行の罪はほとんど私を不安にさせなかった。二、三の訊問は受けたが、それには造作なく答えた。家宅捜索さえ一度行われた、――が無論なにも発見されるはずがなかった。私は自分の未来の幸運を確実だと思った。
 殺人をしてから四日目に、まったく思いがけなく、一隊の警官が家へやって来て、ふたたび屋内を厳重に調べにかかった。けれども、自分の隠匿の場所はわかるはずがないと思って、私はちっともどぎまぎしなかった。警官は私に彼らの捜索について来いと命じた。彼らはすみずみまでも残るくまなく捜した。とうとう、三度目か四度目に穴蔵へ降りて行った。私は体の筋一つ動かさなかった。私の心臓は罪もなくて眠っている人の心臓のように穏やかに鼓動していた。私は穴蔵を端から端へと歩いた。腕を胸の上で組み、あちこち悠々と歩きまわった。警官はすっかり満足して、引き揚げようとした。私の心の歓喜は抑えきれないくらい強かった。私は、凱歌のつもりでたった一言でも言ってやり、また自分の潔白を彼らに確かな上にも確かにしてやりたくてたまらなかった。
「皆さん」と、とうとう私は、一行が階投をのぼりかけたときに、言った。「お疑いが晴れたことをわたしは嬉しく思います。皆さん方のご健康を祈り、それからも少し礼儀を重んぜられんことを望みます。ときに、皆さん、これは――これはなかなかよくできている家ですぜ」〔なにかをすらすら言いたいはげしい欲望を感じて、私は自分の口にしていることがほとんどわからなかった〕――「すてきによくできている家だと言っていいでしょうな。この壁は――お帰りですか? 皆さん――この壁はがんじょうにこしらえてありますよ」そう言って、ただ気違いじみた空威張りから、手にした杖で、ちょうど愛妻の死骸が内側に立っている部分の煉瓦細工を、強くたたいた。
 だが、神よ、魔王の牙より私を護りまた救いたまえ! 私の打った音の反響が鎮まるか鎮まらぬかに、その墓のなかから一つの声が私に答えたのであった! ――初めは、子供の啜り泣きのように、なにかで包まれたような、きれぎれな叫び声であったが、それから急に高まって、まったく異様な、人間のものではない、一つの長い、高い、連続した金切声となり、――地獄に墜ちてもだえ苦しむ者と、地獄に墜して喜ぶ悪魔との咽喉から一緒になって、ただ地獄からだけ聞えてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣――慟哭するような悲鳴――となった。
 私自身の気持は語るも愚かである。気が遠くなって、私は反対の側の壁へとよろめいた。一瞬間、階段の上にいた一行は、極度の恐怖と畏懼とのために、じっと立ち止った。次の瞬間には、幾本かの逞しい腕が壁をせっせとくずしていた。壁はそっくり落ちた。もうひどく腐爛して血魂が固まりついている死骸が、そこにいた人々の眼前にすっくと立った。その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼を光らせて、あのいまわしい獣が坐っていた。そいつの奸策が私をおびきこんで人殺しをさせ、そいつのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ。その怪物を私はその墓のなかへ塗りこめておいたのだった!




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スイフヨウの花も、もうすぐ終わります。

一月以上次々と花を咲かせていた実家の庭のスイフヨウ(酔芙蓉)の花も終わりが近づいていました。

スイフヨウ200810

フヨウ(芙蓉)は、中国台湾沖縄九州四国に自生する落葉低木で、学名はHibiscus mutabilis
朝咲いて、夕方にはしぼむ一日花で、学名からもわかるようにハイビスカスと同じ仲間です。

スイフヨウは、フヨウの一種で、花が朝の咲き始めは白く、時間がたつにつれてピンクに変わり、夜から翌朝にかけてしぼむと赤くなる八重咲きの品種です。
この花の色の変わる様子を酒によって顔がだんだん赤くなってくることに例えて、酔芙蓉と名付けられたとのことです。

酔芙蓉といえば、石川さゆりの『風の盆恋歌』〔平成元(1989)年〕を思い出します。

風の盆恋歌』(作詞:なかにし礼、作曲:三木たかし

蚊帳の中から 花を見る
咲いてはかない 酔芙容
若い日の 美しい
私を抱いてほしかった
しのび逢う恋 風の盆

……



相変わらず、年がわかってしまうなぁ!



烏猫

江戸時代から大正時代ぐらいまで、黒猫のことを烏猫と呼んでいたそうです。
野口雨情に『烏猫』と言うタイトルの童謡があります。

烏猫』(野口雨情

烏猫 烏猫
眼ばかり光る
烏猫

のろり のろり 歩いてる
ほんとに狡い
烏猫

矮鶏の雛 追つかけた
尻尾の長い
烏猫

厩の背戸に
昼寝しろ
ぐうぐうぐう昼寝しろ

火箸が ぐんにやり曲るほど
たたいてやるから
昼寝しろ。


今日は、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の『黒猫』の6回目です。
物語もいよいよ佳境に入ります。


黒猫』〔6〕

エドガー・アラン・ポー)〔佐々木直次郎訳〕


 ある日、妻はなにかの家の用事で、貧乏のために私たちが仕方なく住んでいた古い穴蔵のなかへ、私と一緒に降りてきた。猫もその急な階段を私のあとへついて降りてきたが、もう少しのことで私を真っ逆さまに突き落そうとしたので、私はかっと激怒した。怒りのあまり、これまで自分の手を止めていたあの子供らしい怖さも忘れて、斧を振り上げ、その動物をめがけて一撃に打ち下ろそうとした。それを自分の思ったとおりに打ち下ろしたなら、もちろん、猫は即座に死んでしまったろう。が、その一撃は妻の手でさえぎられた。この邪魔立てに悪鬼以上の憤怒に駆られて、私は妻につかまれている腕をひき放し、斧を彼女の脳天に打ちこんだ。彼女は呻き声もたてずに、その場で倒れて死んでしまった。
 この恐ろしい殺人をやってしまうと、私はすぐに、きわめて慎重に、死体を隠す仕事に取りかかった。昼でも夜でも、近所の人々の目にとまる恐れなしには、それを家から運び去ることができないということは、私にはわかっていた。いろいろの計画が心に浮んだ。あるときは死骸を細かく切って火で焼いてしまおうと考えた。またあるときには穴蔵の床にそれを埋める穴を掘ろうと決心した。さらにまた、庭の井戸のなかへ投げこもうかとも――商品のように箱のなかへ入れて普通やるように荷造りして、運搬人に家から持ち出させようかとも、考えてみた。最後に、これらのどれよりもずっといいと思われる工夫を考えついた。中世紀の僧侶たちが彼らの犠牲者を壁に塗りこんだと伝えられているように――それを穴蔵の壁に塗りこむことに決めたのだ。
 そういった目的にはその穴蔵はたいへん適していた。そこの壁はぞんざいにできていたし、近ごろ粗い漆喰を一面に塗られたばかりで、空気が湿っているためにその漆喰が固まっていないのだった。その上に、一方の壁には、穴蔵の他のところと同じようにしてある、見せかけだけの煙突か暖炉のためにできた、突き出た一カ所があった。ここの煉瓦を取りのけて、死骸を押しこみ、誰の目にもなに一つ怪しいことの見つからないように、前のとおりにすっかり壁を塗り潰すことは、造作なくできるにちがいない、と私は思った。
 そしてこの予想ははずれなかった。鉄梃を使って私はたやすく煉瓦を動かし、内側の壁に死体を注意深く寄せかけると、その位置に支えておきながら、大した苦もなく全体をもとのとおりに積み直した。できるかぎりの用心をして膠泥(モルタル)と、砂と、毛髪とを手に入れると、前のと区別のつけられない漆喰をこしらえ、それで新しい煉瓦細工の上をとても念入りに塗った。仕上げてしまうと、万事がうまくいったのに満足した。壁には手を加えたような様子が少しも見えなかった。床の上の屑はごく注意して拾い上げた。私は得意になってあたりを見まわして、こう独言を言った。――「さあ、これで少なくとも今度だけは己の骨折りも無駄じゃなかったぞ」
 次に私のやることは、かくまでの不幸の原因であったあの獣を捜すことであった。とうとう私はそれを殺してやろうと堅く決心していたからである。そのときそいつに出会うことができたなら、そいつの命はないに決っていた。が、そのずるい動物は私のさっきの怒りのはげしさにびっくりしたらしく、私がいまの気分でいるところへは姿を見せるのを控えているようであった。その厭でたまらない生きものがいなくなったために私の胸に生じた、深い、この上なく幸福な、安堵の感じは、記述することも、想像することもできないくらいである。猫はその夜じゅう姿をあらわさなかった。――で、そのために、あの猫を家へ連れてきて以来、少なくとも一晩だけは、私はぐっすりと安らかに眠った。そうだ、魂に人殺しの重荷を負いながらも眠ったのだ!




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今年もホトトギスが咲き始めました。

実家の庭で、今年もホトトギスが咲き始めました。
今年は、何株か庭から掘り上げてプランターに移植したとのことで、プランターを秋になって、日のあたる場所に移動したのが良かったのか、プランターのものから咲き始めているそうです。

ホトトギス200810

ホトトギスは、東北地方以南の日本列島に広く自生していた日本原産多年草だそうですが、最近、街中の道端などで見かけるものは園芸用に育てられていたものが広がったもののようです。

ホトトギスの花を見ると秋を感じます。




ユリオプスデージーが咲き始めていました。

実家の庭の隅で、ユリオプスデージーが今年も咲き始めています。

ユリオプスデージー200810

ユリオプスデージーユリオプスというのは、学名のEuryops pectinatusからもわかるように属名です。
ユリオプス属は、キク科の属の一つで、南アフリカからアラビア半島にかけて100種ほどが分布して いるそうです。なお、ユリオプスギリシャ語で“大きな目を持つ”という意味とのこと。

デージーは、day's eye(日の目)が語源で、花の芯の黄色を太陽に見立てたものだそうです。



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ランの館に行きました。

ランの館は、平成10(1998)年5月にオープンした南欧風の建物をアジアの香りで染めたランのミニテーマパークです。
欧州のある国のラン好きの外交官、アジョナ・オーキッド氏の邸宅が、ラン生産日本一の愛知県の中心・名古屋に屋敷を構えたという想定で作られているそうです。
建物は、スペインパティオのある屋敷を基本に設計され、アトリウムの屋根はロンドン万国博覧会の水晶宮をイメージしたものだそうです。
また、世界各地を赴任した外交官との想定なので、当然ランの宝庫、アジアにも赴任しており、アジアの文化の影響も色濃いという設定とのことです。

ランの館200810_01
庭園の「アジアの庭」と名付けられたコーナーでもランが咲いていました。

ランの館200810_02
パティオには、ハロウィンの飾りつけもされていました。

秋の朝の澄んだ空気の中、庭を散策したら、疲れと眠気が吹き飛びました。



Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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