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2008 / 07
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暑かった7月も今日で終わりです。

今日の名古屋は、明け方ににわか雨があったりして、昨日までに比べると少し涼しい一日で、最高気温も32.6℃でした。

夏の夜』(中原中也)

あゝ 疲れた胸の裡を
桜色の 女が通る
女が通る。

夏の夜の水田の滓、
怨恨は気が遐くなる
――盆地を繞る山は巡るか?

裸足はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしやうもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣が通る。

疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼が著物に触れて。
靄はきれいだけれども、暑い!


中也の詩には、忘れられないフレーズがいくつかありますが、この『靄はきれいだけれども、暑い!』もその一つです。
今年の7月は本当に暑い7月でした。





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今日は、蝸牛忌です。

昭和22(1947)年の今日(7月30日)、幸田露伴は80歳で亡くなりました。
露伴が、蝸牛庵と号したことから、その命日は蝸牛忌と呼ばれています。
なお、露伴旧宅「蝸牛庵」は、現在、博物館 明治村に移築されて保存されています。

今日は、露伴の初期の代表作『風流仏』の冒頭を紹介します。

風流仏』(幸田露伴)

発端 如是我聞

上 一向専念の修業幾年


 三尊四天王十二童子十六羅漢さては五百羅漢、までを胸中に蔵めて鉈小刀に彫り浮かべる腕前に、運慶も知らぬ人は讃歎すれども鳥仏師知る身の心耻かしく、其道に志す事深きにつけておのが業の足らざるを恨み、爰日本美術国に生れながら今の世に飛騨の工匠なしと云わせん事残念なり、珠運命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈ケを尽してせめては我が好の心に満足さすべく、且は石膏細工の鼻高き唐人めに下目で見られし鬱憤の幾分を晴らすべしと、可愛や一向専念の誓を嵯峨の釈迦に立し男、齢は何歳ぞ二十一の春是より風は嵐山の霞をなぐって腸断つ俳諧師が、蝶になれなれと祈る落花のおもしろきをも眺むる事なくて、見ぬ天竺の何の花、彫りかけて永き日の入相の鐘にかなしむ程凝り固っては、白雨三条四条の塵埃を洗って小石の面はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水に、瓜浸して食いつつ歯牙香と詩人の洒落る川原の夕涼み快きをも余所になし、徒らに垣をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀の切り屑蚊遣りに焼きて是も余徳とあり難かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉に争いて酒に暖めらるる風流の仲間にも入らず、硝子越しの雪見に昆布を蒲団にしての湯豆腐を粋がる徒党にも加わらねば、まして島原祇園の艶色には横眼遣い一トつせず、おのが手作りの弁天様に涎流して余念なく惚れ込み、琴三味線のあじな小歌は聞もせねど、夢の中には緊那羅神の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩の魂魄も乗り移らでやあるべき。
かくて三年ばかり浮世を驀直に渡り行れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備っての稟賦、雪をまろめて達摩を作り大根を斬りて鷽の形を写ししにさえ、屡人を驚かせしに、修業の功を積し上、憤発の勇を加えしなれば冴し腕は愈々冴え鋭き刀は愈鋭く、七歳の初発心二十四の暁に成道して師匠も是までなりと許すに珠運は忽ち思い立ち独身者の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠が跡訪わんと少し許の道具を肩にし、草鞋の紐の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。





インディ・ジョーンズ最新作を見ました。

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」では、19年ぶりにハリソン・フォードHarrison Fordインディを演じるということで、インディが前作「最後の聖戦」でショーン・コネリーSean Conneryが演じたインディの父のヘンリー・ジョーンズのような感じになっているのではないかと予想していました。
しかし、風貌は19年前のショーン・コネリー風でしたが、行動パターンは以前のインディのままでした。
映画の舞台設定も、前作「最後の聖戦」の1938年の19年後の1957年で、インディの老けぶりも違和感がない設定となっています。
映画には、前3作を見た人にしかわからないコネタもあちこちに散りばめられていますが、未見の方もあると思いますので、映画の筋に重大な影響のある人間関係とともに、今日はその点にはふれないことにします。
また、第1作「レイダース/失われたアーク」でヒロイン、マリオン・レイヴンウッドを演じたカレン・アレンKaren Allenが同じ役で再登場することも見どころの一つと思います。
個人的には、この映画の最大の見どころは、ケイト・ブランシェットCate Blanchettが演じるソ連KGBのイリーナ・スパルコ大佐の悪役ぶりです。
エリザベス」、「エリザベス/ゴールデンエイジ」でエリザベス1世を演じているときとは別人のようなアクションに目を奪われました。特に、密林を失踪する車の上でのフェンシングの殺陣は必見です。
ここまで別人を演じ分けられる女優さんは、最近はハリウッドでは少なくなっていると思います。
私は、この作品でケイト・ブランシェットのファンになりました。




今日は夕立がありました。

名古屋は、連日の猛暑です。
昨日は、ついに最高気温37.7℃最低気温27.2℃にまで上昇しました。
今日は午後3時過ぎから夕立があったので、少しは涼しくなるのではと期待しましたが、思ったほどではありません。ちなみに今日の最高気温37.3℃最低気温28.4℃です。

夕立を詠んだ句はいくつかありますが、一番有名なのは蕪村
夕立や 草葉をつかむ むら雀
でしょうか。
私が一番すきな句は、丈草
夕立に 走り下るや 竹の蟻
です。
内藤丈草(ないとう じょうそう)〔寛文2(1662)年~宝永元(1704)年〕は、尾張犬山藩士で、蕉門十哲の一人です。

ベランダでは、猛暑の中ハイビスカスの鉢植えが咲き始めています。
5月に強く剪定したのが原因なのか、昨年よりは大分遅れています。

ハイビスカス200807



「第9回ヨコの会」に行きました。

切り絵作家の今井眸さんの展覧会「第9回ヨコの会」を見に、(名古屋市中区)ガロー エ アルバーノに行ってきました。

第9回ヨコの会01

第9回ヨコの会02

今回も、昨年に引き続き、山を描いたものが多かったです。
ただ、今年は会場となった画廊の意向で、わかりやすい作品にしてほしいとのことだったそうでで、写実性の高い作品が多かったです。

第9回ヨコの会03


いっしょに展示会を開催していた高綱公子さんの猫の作品も相変わらずかわいらしかったです。
展示会は今日が最終日でした。私は、昼休みに行きましたが、会場はにぎわっていました。

なお、今井眸さんは、8月19日(火)から24日(日)まで、ノリタケの森ギャラリーペーパーワーク・3つの道を開催されますので、ぜひお出かけください。



今日の名古屋の最高気温は、36.1℃

およそ1週間、お休みしてしまいましたが、前回(14日)には、2日連続の酷暑日(猛暑日)だということを書きました。
その後の名古屋の気温は、
15日、最高気温:34.4℃、最低気温:26.5℃ 熱帯夜
16日、最高気温:34.2℃、最低気温:25.8℃ 熱帯夜
17日、最高気温:35.5℃、最低気温:24.8℃ 酷暑日
18日、最高気温:32.7℃、最低気温:25.5℃ 熱帯夜
19日、最高気温:35.7℃、最低気温:24.3℃ 酷暑日
というように、熱帯夜酷暑日ということで、夜暑い昼暑いかの違いはあっても、毎日とても暑かったです。
そして、昨日、梅雨明となり、今日はいきなり夏本番で、最高気温:36.1℃、最低気温:25.9℃熱帯夜酷暑日となりました。

実家では、赤花のハイビスカスの鉢植えが満開でした。

ハイビスカスの花(赤)

明日も暑くなりそうです。



今日の名古屋の最高気温は36℃。

2日連続の酷暑日となりました。
一日の最高気温が35℃以上の日を酷暑日と言います。以前はニュースでも良く使われていましたが、昨年、気象庁が予報用語で猛暑日と呼ぶと定義したため、最近のニュースでは猛暑日と呼ばれています。
でも、やっぱり酷暑日のほうが暑い!という感じが出ているような気がします。

今日は、あまりの暑さに毛皮も脱ぎたくなってしまった猫の気分が良くわかる一日でした。

吾輩は猫である」(夏目漱石) 

六から(冒頭の抜粋)

 こう暑くては猫といえどもやり切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利(イギリス)のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入の毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な銭のかからない生涯を送っているように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水の一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の暖簾を潜った事はない。折々は団扇でも使って見ようと云う気も起らんではないが、とにかく握る事が出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は贅沢なものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮て見たり、焼いて見たり、酢に漬けて見たり、味噌をつけて見たり好んで余計な手数を懸けて御互に恐悦している。着物だってそうだ。猫のように一年中同じ物を着通せと云うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へ載せて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、蚕の御世話になったり、綿畠の御情けさえ受けるに至っては贅沢は無能の結果だと断言しても好いくらいだ。衣食はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存上直接の利害もないところまでこの調子で押して行くのは毫も合点が行かぬ。第一頭の毛などと云うものは自然に生えるものだから、放っておく方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な恰好をこしらえて得意である。坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと頭巾で包む。これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うと櫛とか称する無意味な鋸様の道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨の上へ人為的の区劃を立てる。中にはこの仕切りがつむじを通り過して後ろまで食み出しているのがある。まるで贋造の芭蕉葉のようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角な枠をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。とにかくそんなに憂身を窶してどうするつもりか分らん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。これで見ると人間はよほど猫より閑なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人がよると障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりたければ吾輩のように夏でも毛衣を着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは云うものの少々熱い。毛衣では全く熱つ過ぎる。



天気予報によると明日の最高気温は34℃で少し涼しくなるということ。本当に涼しく感じられるだろうか?



テーマのもう一つは安楽死です。

今日の名古屋は、最高気温が35.5℃まで上がり、今年初めての酷暑日になりました。とにかく、暑い!

今日は、『高瀬舟』の最後の回(4回目)です。

今日の場面のテーマは、いわゆる「安楽死」の問題です。
このことについて、鴎外は『高瀬舟縁起』で、「しかし醫學社會には、これを非とする論がある。即ち死に瀕して苦むものがあつたら、樂に死なせて、其苦を救つて遣るが好いと云ふのである。これをユウタナジイといふ。樂に死なせると云ふ意味である。」と説明しています。
ユウタナジイeuthanasieというのは、「幸福な死」という意味のフランス語で、安楽死をさす言葉として使われています。
今世紀に入り、オランダベルギーでは安楽死が法律で認められましたが、その両国でもこの言葉が安楽死の意味で使われているそうです。
フランスでは、アンベール事件2003年に交通事故で四肢麻痺担った19歳の青年Vincent Humbertが大統領に死ぬ権利を手紙で要求するも拒否され、青年の母親が安楽死させようとするも未遂に終わり、担当医師により人工呼吸器をはずされ死亡したため、母親担当医師が訴追されるた事件。2人は2006年に裁判で免訴になる。)をきっかけに、2005年に法律で「治療を中止する安楽死(消極的な安楽死)」が認められましたが、現在も「薬などで死を早める安楽死(積極的な安楽死)」は禁止されているとのことです。

高瀬舟』(森鴎外)〔4〕

 庄兵衛は喜助の顔をまもりつつまた、「喜助さん」と呼びかけた。今度は「さん」と言ったが、これは充分の意識をもって称呼を改めたわけではない。その声がわが口から出てわが耳に入るや否や、庄兵衛はこの称呼の不穏当なのに気がついたが、今さらすでに出たことばを取り返すこともできなかった。
「はい」と答えた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思うらしく、おそるおそる庄兵衛の気色をうかがった。
 庄兵衛は少し間の悪いのをこらえて言った。「いろいろの事を聞くようだが、お前が今度島へやられるのは、人をあやめたからだという事だ。おれについでにそのわけを話して聞せてくれぬか。」
 喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」と言って、小声で話し出した。「どうも飛んだ心得違いで、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げようがございませぬ。あとで思ってみますと、どうしてあんな事ができたかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫でなくなりまして、弟と二人あとに残りました。初めはちょうど軒下に生まれた犬の子にふびんを掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、近所じゅうの走り使いなどをいたして、飢え凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないようにいたして、いっしょにいて、助け合って働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟といっしょに、西陣の織場にはいりまして、空引きということをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。そのころわたくしどもは北山立小屋同様の所に寝起きをいたして、紙屋川橋を渡って織場へ通っておりましたが、わたくしが暮れてから、食べ物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人でかせがせてはすまないすまないと申しておりました。ある日いつものように何心なく帰って見ますと、弟はふとんの上に突っ伏していまして、周囲は血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包みや何かを、そこへおっぽり出して、そばへ行って『どうしたどうした』と申しました。すると弟はまっ青な顔の、両方の頬からあごへかけて血に染まったのをあげて、わたくしを見ましたが、物を言うことができませぬ。息をいたすたびに、傷口でひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうといたすと、弟は右の手を床に突いて、少しからだを起こしました。左の手はしっかりあごの下の所を押えていますが、その指の間から黒血の固まりがはみ出しています。弟は目でわたくしのそばへ寄るのを留めるようにして口をききました。ようよう物が言えるようになったのでございます。『すまない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きにらくがさせたいと思ったのだ。笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつなくっていけない。どうぞ手を借して抜いてくれ』と言うのでございます。弟が左の手をゆるめるとそこからまた息が漏ります。わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟の喉の傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。柄がやっと二寸ばかり傷口から出ています。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようという思案もつかずに、弟の顔を見ました。弟はじっとわたくしを見詰めています。わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は恨めしそうな目つきをいたしましたが、また左の手で喉をしっかり押えて、『医者がなんになる、あゝ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と言うのでございます。わたくしは途方に暮れたような心持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ております。こんな時は、不思議なもので、目が物を言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と言って、さも恨めしそうにわたくしを見ています。わたくしの頭の中では、なんだかこう車の輪のような物がぐるぐる回っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。それにその目の恨めしそうなのがだんだん険しくなって来て、とうとう敵の顔をでもにらむような、憎々しい目になってしまいます。それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。わたくしは『しかたがない、抜いてやるぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変わって、晴れやかに、さもうれしそうになりました。わたくしはなんでもひと思いにしなくてはと思ってひざを撞くようにしてからだを前へ乗り出しました。弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手のひじを床に突いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。この時わたくしの内から締めておいた表口の戸をあけて、近所のばあさんがはいって来ました。留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、わたくしの頼んでおいたばあさんなのでございます。もうだいぶ内のなかが暗くなっていましたから、わたくしにはばあさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、ばあさんはあっと言ったきり、表口をあけ放しにしておいて駆け出してしまいました。わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜こう、まっすぐに抜こうというだけの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手ごたえは、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。刃が外のほうへ向いていましたから、外のほうが切れたのでございましょう。わたくしは剃刀を握ったまま、ばあさんのはいって来てまた駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。ばあさんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう息が切れておりました。傷口からはたいそうな血が出ておりました。それから年寄衆がおいでになって、役場へ連れてゆかれますまで、わたくしは剃刀をそばに置いて、目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます。」
 少しうつ向きかげんになって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助は、こう言ってしまって視線をひざの上に落とした。




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今日から『敦盛』の稽古を始めました。

今日の名古屋は、最高気温が34.6℃と今年一番の暑さになりました。
先週に引き続き、なぜか土曜日なると天気が良くて暑くなります。その結果、稽古場への足が重くなる……。

今日からの稽古は、『敦盛』になりました。
先週、『唐船』を始めたばかりですが、9月に半能『敦盛』の地謡を勤めることになったので、急遽『敦盛』の後場の地謡を中心に稽古することになりました。
今日の場面は、平敦盛の霊が平家の運命の変転を語る場面です。

地謡「これかや.悪人の友をふり捨てて。
   善人のかたきを招けとは。
   御身の事か有難や。ありがたし有難し。
   とてもさん悔の物語.夜すがらいざや申さん.
   夜すがらいざや申さん。

シテ「しかるに一門かどをならべ。累葉枝をつらねしよそおい。
地謡「まことに槿花一日の栄に同じ。
   善きをすすむる教えには。逢うことかたき石の火の.
   光の間ぞと思わざりし身のならわしこそ.悲しけれ。

シテ「かみにあっては下を悩まし。
地謡「富んでは驕りを。知らざるなり。
   然るに平家。世をとって二十餘余年。
   まことに一昔の。過るは夢のうちなれや。
   寿永の秋の葉の。四方の嵐にさそわれ。
   散りぢりになる一葉の。
   舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず。
   籠鳥の雲を恋い。帰雁行を乱るなる。
   空定めなき旅衣。日も重なりて年なみの。
   立ち帰る春の頃.この一の谷にこもりて。
   しばしはここに須磨の浦。

シテ「うしろの山風吹き落ちて。
地謡「野も冴えかえる海際の。船の夜となく昼となき。
   千鳥の声もわが袖も波にしおるる磯枕。
   海人の苫屋に共寝して。須磨人にのみ磯馴れ松の。
   立つるやうす煙。柴というふもの折り敷きて。
   思いを須磨の山里の。かかる所に住まいして。
   須磨人となりはつる.一門の果ぞ.悲しき。




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テーマの一つは知足です。

今日は、『高瀬舟』の3回目です。あわせて、『高瀬舟縁起』も紹介します。

鴎外は、『高瀬舟縁』で自ら『高瀬舟』の主題を「一つは財産と云ふものの觀念である」と「今一つは死に掛かつてゐて死なれずに苦んでゐる人を、死なせて遣ると云ふ事である」だと述べています。
今日の場面のテーマは、いわゆる「知足」の問題です。
知足」は『老子33章辨徳
知人者智 自知者明 勝人者有力 自勝者強 知足者富(人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。)
が語源で、「分相応のところで満足すること」の意味です。

喜助が「足るを知る」ということ実践していることを知った庄兵衛は、「今さらのように驚異の目をみはって喜助を見」、「空を仰いでいる喜助の頭から毫光がさす」ように感じています。


高瀬舟』(森鴎外)〔3〕

 しばらくして、庄兵衛はこらえ切れなくなって呼びかけた。「喜助。お前何を思っているのか。」
「はい」と言ってあたりを見回した喜助は、何事をかお役人に見とがめられたのではないかと気づかうらしく、居ずまいを直して庄兵衛の気色を伺った。
 庄兵衛は自分が突然問いを発した動機を明かして、役目を離れた応対を求める言いわけをしなくてはならぬように感じた。そこでこう言った。「いや。別にわけがあって聞いたのではない。実はな、おれはさっきからお前の島へゆく心持ちが聞いてみたかったのだ。おれはこれまでこの舟でおおぜいの人を島へ送った。それはずいぶんいろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へゆくのを悲しがって、見送りに来て、いっしょに舟に乗る親類のものと、夜どおし泣くにきまっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へゆくのを苦にしてはいないようだ。いったいお前はどう思っているのだい。」
 喜助はにっこり笑った。「御親切におっしゃってくだすって、ありがとうございます。なるほど島へゆくということは、ほかの人には悲しい事でございましょう。その心持ちはわたくしにも思いやってみることができます。しかしそれは世間でらくをしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へやってくださいます。島はよしやつらい所でも、鬼のすむ所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこといって自分のいていい所というものがございませんでした。こん度お上で島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたい事でございます。それにわたくしはこんなにかよわいからだではございますが、ついぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ行ってから、どんなつらい仕事をしたって、からだを痛めるようなことはあるまいと存じます。それからこん度島へおやりくださるにつきまして、二百文の鳥目をいただきました。それをここに持っております。」こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。遠島を仰せつけられるものには、鳥目二百銅をつかわすというのは、当時の掟であった。
 喜助はことばをついだ。「お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文というお足を、こうしてふところに入れて持っていたことはございませぬ。どこかで仕事に取りつきたいと思って、仕事を尋ねて歩きまして、それが見つかり次第、骨を惜しまずに働きました。そしてもらった銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面のいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがお牢にはいってからは、仕事をせずに食べさせていただきます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文をいただきましたのでございます。こうして相変わらずお上の物を食べていて見ますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることができます。お足を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが始めでございます。島へ行ってみますまでは、どんな仕事ができるかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事の本手にしようと楽しんでおります。」こう言って、喜助は口をつぐんだ。
 庄兵衛は「うん、そうかい」とは言ったが、聞く事ごとにあまり意表に出たので、これもしばらく何も言うことができずに、考え込んで黙っていた。
 庄兵衛はかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。平生人には吝嗇と言われるほどの、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこしらえぬくらいにしている。しかし不幸な事には、妻をいい身代の商人の家から迎えた。そこで女房は夫のもらう扶持米で暮らしを立ててゆこうとする善意はあるが、ゆたかな家にかわいがられて育った癖があるので、夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしてゆくことができない。ややもすれば月末になって勘定が足りなくなる。すると女房が内証で里から金を持って来て帳尻を合わせる。それは夫が借財というものを毛虫のようにきらうからである。そういう事は所詮夫に知れずにはいない。庄兵衛は五節句だと言っては、里方から物をもらい、子供の七五三の祝いだと言っては、里方から子供に衣類をもらうのでさえ、心苦しく思っているのだから、暮らしの穴をうめてもらったのに気がついては、いい顔はしない。格別平和を破るような事のない羽田の家に、おりおり波風の起こるのは、これが原因である。
 庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。喜助は仕事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡してなくしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な境界である。しかし一転してわが身の上を顧みれば、彼と我れとの間に、はたしてどれほどの差があるか。自分も上からもらう扶持米を、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼と我れとの相違は、いわば十露盤の桁が違っているだけで、喜助のありがたがる二百文に相当する貯蓄だに、こっちはないのである。
 さて桁を違えて考えてみれば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。その心持ちはこっちから察してやることができる。しかしいかに桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。
 喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ。それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようよう口を糊することのできるだけで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。
 庄兵衛はいかに桁を違えて考えてみても、ここに彼と我れとの間に、大いなる懸隔のあることを知った。自分の扶持米で立ててゆく暮らしは、おりおり足らぬことがあるにしても、たいてい出納が合っている。手いっぱいの生活である。しかるにそこに満足を覚えたことはほとんどない。常は幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼が潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾の上に頭をもたげて来るのである。
 いったいこの懸隔はどうして生じて来るだろう。ただ上べだけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである。しかしそれはうそである。よしや自分が一人者であったとしても、どうも喜助のような心持ちにはなられそうにない。この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。
 庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。
 庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光がさすように思った。
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この話は、『流人の話』が元になっています。

高瀬舟』は、鴎外自身が『高瀬舟縁起』の中で、「この話は『翁草』に出ている。池辺義象さんの校訂した活字本で一ペエジ余に書いてある。」と書いているように、江戸時代に京都奉行所与力だった神沢貞幹がまとめた「翁草」という随筆集の中の『流人の話』が元になっています。
この「翁草」には異本も多くあるようですが、鴎外がはっきり書いているので、明治38(1905)年~39(1906)年にかけて池辺義象が校訂し、京都五車楼書店が出版したものだということがわかります。

今日は、『高瀬舟』の2回目ですが、『流人の話』も紹介します。


高瀬舟』(森鴎外)〔2〕

 いつのころであったか。たぶん江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた寛政のころででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。
 それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。
 護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて来る間、この痩肉の、色の青白い喜助の様子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわぬようにしている。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢に媚びる態度ではない。
 庄兵衛は不思議に思った。そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。
 その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏の温かさが、両岸の土からも、川床の土からも、もやになって立ちのぼるかと思われる夜であった。下京の町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただ舳にさかれる水のささやきを聞くのみである。
 夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。その額は晴れやかで目にはかすかなかがやきがある。
 庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。
 庄兵衛は心の内に思った。これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾たびだか知れない。しかし載せてゆく罪人は、いつもほとんど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。それにこの男はどうしたのだろう。遊山船にでも乗ったような顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、よしやその弟が悪いやつで、それをどんなゆきがかりになって殺したにせよ、人の情としていい心持ちはせぬはずである。この色の青いやせ男が、その人の情というものが全く欠けているほどの、世にもまれな悪人であろうか。どうもそうは思われない。ひょっと気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つつじつまの合わぬことばや挙動がない。この男はどうしたのだろう。庄兵衛がためには喜助の態度が考えれば考えるほどわからなくなるのである。
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今日は、鴎外忌です。

現在、夏目漱石と並び明治の文豪として知られる森鴎外は、大正11(1922)年の7月9日に、萎縮腎・肺結核のために61歳で亡くなりました。本名は、森林太郎島根県津和野町出身で、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)を卒業し、陸軍の軍医となり、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長まで上りつめます。

今日から、4回に分けて森鴎外の『高瀬舟』を紹介します。
この小説は、『阿部一族』や『山椒大夫』、『渋江抽斎』とともに、大正元(1912)年9月13日の乃木希典殉死に影響を受け、歴史小説に転じたと言われている鴎外歴史小説の代表作の一つです。

高瀬舟』(森鴎外)〔1〕

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
 当時遠島を申し渡された罪人は、もちろん重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、獰悪な人物が多数を占めていたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。有りふれた例をあげてみれば、当時相対死と言った情死をはかって、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というような類である。
 そういう罪人を載せて、入相の鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川を横ぎって下るのであった。この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも返らぬ繰り言である。護送の役をする同心は、そばでそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族の悲惨な境遇を細かに知ることができた。所詮町奉行の白州で、表向きの口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。
 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙もろい同心が宰領してゆくことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。
 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で不快な職務としてきらわれていた。
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Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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