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明治34年6月30日、虚子は舟弁慶を謡いました。


正岡子規の『墨汁一滴』によると、見舞い客が帰った後、虚子が舟弁慶を謡ったとあります。
墨汁一滴』は、明治34(1901)年1月16日から7月2日まで、新聞「日本」に途中4日休んだだけで、164回にわたって連載されました。

墨汁一滴』(正岡子規)

羯翁〔かつおう〕の催しにて我枕辺に集まる人々、正客不折を初として鳴雪、湖村、虚子、豹軒、及び滝氏ら、蔵六も折から来合されたり。草庵ために光を生ず。
虚子後に残りて謡曲「舟弁慶」一番謡ひ去る。
(六月三十日)


見舞い客のうち、
不折は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家、書家の中村不折(なかむら ふせつ)〔1866~1943年〕のこと、
鳴雪は、明治・大正期に活躍した子規門下の俳人内藤鳴雪(ないとうめいせつ)〔1847~1926年〕のこと、
湖村は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢学者、漢詩人の桂湖村(かつら こそん)〔1868~1937年〕のこと、
豹軒は、中国文学者で和歌を子規に師事した鈴木虎雄(すずき とらお)〔1878年~1963年〕のことと思われます。なお、豹軒は漢詩のときの号とのこと。彼は、戦後も活躍し、1958年に文化功労者に選ばれ、1961年に文化勲章受章しています。
滝氏蔵六が誰なのかは、私にはわかりませんでした。ご存じの方があれば、お知らせください。



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耳なし芳一は映画にもなっています。

昭和39(1964)年に製作され、翌昭和40(1965)年に公開された東宝映画「怪談KWAIDAN」(監督:小林正樹、音楽:武満徹)で映画化されています。
※「怪談」(ラピュタ阿佐ヶ谷のサイトから)
この映画は、「黒髪」、「雪女」、「耳無芳一の話」、「茶碗の中」という八雲の4つの短編からなるオムニバス映画で、1965年度カンヌ国際映画祭7月特別賞を受賞しています。
耳なし芳一役は、当時26歳の中村賀津雄(現在の中村 嘉葎雄)で、東映を退社し、フリーになった第1作目です。他に芳一を連れに来る武士役に丹波哲郎住職役に志村喬など豪華キャストです。
ちなみに「雪女」と「耳無芳一の話」は、『怪談』の同名短編を、「黒髪」は『』の「和解」を、「茶碗の中」は『骨董』の同名短編を原作としているとのことです。
意外にも、映画化はこの一度だけです。

今日は、小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」3回目です。

耳無芳一の話』〔3〕(小泉八雲)(訳:戸川明三)

 叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
 事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅されていたのは確かなので、一同は芳一を捕え、その身体をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。
 芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
 すると住職は云った……
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ! もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった! お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影だ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為るがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される……ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』
 日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』
 日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
 すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
 芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!……奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』……
 縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。
 遂に自分のすぐ傍であらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない……よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に……』
 その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった……
 日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然として声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か……お前、怪我をしたのか』……
 住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!……お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた! そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!……いや、どうもそれはもう致し方のない事だ――出来るだけ早く、その傷を治すより仕方がない……芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』
 深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった……しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。




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下関市の赤間神宮には、

耳なし芳一の木像があるそうです。
耳なし芳一の木像赤間神宮のサイトから)

今日は、小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」の2回目です。
この話は、八雲の妻セツが、八雲に語った話が元になっているというのが定説のようです。
さらに、妻セツの話は、『臥遊奇談』〔一夕散人著・天明2(1782)年出版〕に収録されている「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくいうれいをかなしむ)」という物語と言われています。

耳無芳一の話』〔2〕(小泉八雲)(訳:戸川明三)

 芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
 さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下を語れという殿様の御所望で御座いますか?』
 女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦の話をお語りなされ――その一条下が一番哀れの深い処で御座いますから』
 芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧い琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦き慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
 その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前で演奏をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』
 芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。
 芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
 芳一は言い逭れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
 住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。
 すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後と周囲と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅されているのだ!……芳一さん!』
 しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』




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今日は、小泉八雲が生まれた日です。

小泉八雲(こいずみ やくも)〔1850~1904年〕は、1850年6月27日にギリシアレフカダ島で生まれました。
明治29(1896)年に日本国籍を取得する前の名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)
父はアイルランド出身、母はギリシア出身です。
明治23(1890)年、39歳で来日し、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師となります。

今日から3回に分けて、小泉八雲の代表作『怪談』の中から、「耳なし芳一のはなし」を紹介します。
ほとんどの人が知っている話だと思いますが、今回改めて読み直したところ、私にはいくつか新しい発見がありました。

耳無芳一の話』〔1〕(小泉八雲)(訳:戸川明三)

 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。
 幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
 芳一には出世の首途の際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。
 ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下を呼びつけるような風に――
『芳一!』
 芳一はあまりに吃驚してしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
 見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許へ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。ところで、お前がその戦争の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』
 当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。また手引きをしたその手は鉄のようであった。武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居の衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。「開門!」と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で「これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た」と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後の段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭き込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角をり、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。




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世の中を神秘主義が跋扈しています。

スピリチュアリズム(心霊主義)が流行している現在のわが国は、神秘主義が満ちていると言っても良いでしょう。
神秘主義とは、この世界には人智の及ばない事物、すなわち神秘が存在するとする考え方と定義されています。

今日は、芥川龍之介神秘主義についての考え方を述べているの『侏儒の言葉』の中の「神秘主義」を紹介します。

この作品に出てくるスウエデンボルグは、スウェーデン出身の神秘主義思想家エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg)〔1688~1772〕のことです。
また、ベエメは、ドイツ神秘主義者ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme)〔1575~1624〕のことです。
いずれも代表的な神秘主義者として知られています。

侏儒の言葉』(芥川龍之介)

神秘主義

 神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
 古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉こう云う信念に安んじている。
 これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。
 次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未に時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こう云う今人の論法は勿論所謂循環論法に過ぎない。




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今日は、浜木綿忌です。

宮城道雄(みやぎ みちお)は、明治27(1894)年生まれの箏曲家です。
兵庫県神戸市生まれで、旧姓は(すが)とのこと。
十七弦(17本の絃を持つ箏)の発明者としても知られています。
昭和4(1929)年に発表した「春の海」は、世界的な評価を得、昭和7(1932)年に日本アメリカフランスレコードが発売されました。
昭和31(1956)年6月25日の未明、大阪の公演へ向かう途中、愛知県刈谷市の刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」から転落して亡くなりました。
現在でも事故か自殺か、真相は不明のままとのことです。
命日の今日(6月25日)は遺作の歌曲にちなみ、浜木綿忌と呼ばれているそうです。

今日は、宮城道雄が昭和16(1941)年に発表した随筆『音の世界に生きる』から「声を見る」を紹介します。

音の世界に生きる』(宮城道雄)

声を見る

 まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。
 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。
 年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。



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ランキング依存症候群について考えました。

今月(2008年6月)5日のNHKの番組「クローズアップ現代」で、“ランキング依存症候群”が取り上げられていました。この番組で取り上げられていたのは出版の分野でしたが、私は、今や多くの分野が“ランキング依存症候群”に陥っていると感じています。

私が、この言葉を初めて目にしたのは、昨年(2007年)4月16日付の日本経済新聞の朝刊1面のコラムで取り上げられた“ランキング症候群”でした。
このコラムでは、『どこに自分の欲しいもの があるのか。人はさまようが、迷ったときはちょっとキーボードをたたけば順位が分かる。本来は参考指標にすぎないランキングに身をゆだね、 「決めてもらう」 人も増えている。』と、主にネット上に氾濫するランキングに依存する人が増えていることを取り上げていました。

しかし、テレビや新聞、雑誌で報じられるさまざまなランキングに依存する傾向はますます強まっているように感じます。

こうした傾向の最大の原因は、何が良いかが自分で判断できないということだと思います。
しかし、自分で判断すべきだとわかっていても、あまり詳しくない分野のことだと、ついつい他人の判断、特に専門家といわれる人の判断を鵜呑みにしがちです。

ただ、こうした傾向は、別に最近、始まったことではないようです。

今日は、芥川龍之介の短編『沼地』を紹介します。


沼地』(芥川龍之介)

 ある雨の降る日の午後であった。私はある絵画展覧会場の一室で、小さな油絵を一枚発見した。発見――と云うと大袈裟だが、実際そう云っても差支えないほど、この画だけは思い切って彩光の悪い片隅に、それも恐しく貧弱な縁へはいって、忘れられたように懸かっていたのである。画は確か、「沼地」とか云うので、画家は知名の人でも何でもなかった。また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。
 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊(ポプラア)や無花果を彩るものは、どこを見ても濁った黄色である。まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟まずにはいられなかったのである。
 しかしその画の中に恐しい力が潜んでいる事は、見ているに従って分って来た。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑な淤泥の心もちである。私はこの小さな油画の中に、鋭く自然を掴もうとしている、傷しい芸術家の姿を見出した。そうしてあらゆる優れた芸術品から受ける様に、この黄いろい沼地の草木からも恍惚たる悲壮の感激を受けた。実際同じ会場に懸かっている大小さまざまな画の中で、この一枚に拮抗し得るほど力強い画は、どこにも見出す事が出来なかったのである。




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今日は、独歩忌です。

わが国の自然主義文学の先駆者として知られる国木田独歩は、今からちょうど100年前の明治41(1908)年の今日(6月23日)に神奈川県茅ヶ崎の結核療養所で肺結核のため亡くなります。36歳の若さでした。

今日は、国木田独歩の代表作『武蔵野』から、夏の武蔵野の散歩の楽しさを描いた章を紹介します。
この頃の独歩は、ワーズワースに傾注しており、作品も浪漫主義的な色彩の濃いものでした。
今日、紹介する章でも、ワーズワースの詩の一節が引用されています。


武蔵野』(国木田独歩)



 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗うようであった。
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑い雲が湧きいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良一面、糸遊上騰して永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘ぎ喘ぎ辿ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪の間から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏が時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠って、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鶏の群が幾組となく桜の陰などに遊んでいる。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬く間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上がまばゆく煌いてきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉みあって、みずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!

“――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”

の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わしたくなる。自分はこの流れの両側に散点する農家の者を幸福の人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子とステッキ一本で散歩する自分たちをも。




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今日は、雨の日曜日になりそうです。

今日の名古屋は、梅雨空の一日になりそうです。

今日は、昨日紹介した芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』の原案とされているポール・ケーラス(Paul Carus)の『カルマ(Karma)』の鈴木大拙による翻訳『因果の小車』を紹介します。
ぜひ、芥川の『蜘蛛の糸』と読み比べてみてください。
芥川の文章のすばらしさが実感できると思います。

芥川の作品には、この作品のように元となった話があるケースが多いので、芥川には独創性がないという言説を、最近よく見かけます。さらに、最近のネット上での風潮からすると、『蜘蛛の糸』などは盗作とさえ言われかねません。

しかし、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と鈴木大拙による翻訳『因果の小車』を読み比べてみると、たとえ話の筋を他から借りたとしても、小説としての独創性は非常に高く、芥川オリジナルの小説になっていることがよくわかると思います。


因果の小車』(訳:鈴木大拙)

蜘蛛の糸

 慈悲深き僧がいと懇に摩訶童多(マハードータ)の創口を洗ひ清めたるとき、彼はしきりに懺悔して曰く「吾は多くの悪事を働き一善をも行はず、われ如何にして我執の一妄念より織出したる瀰天の罪網を遁れ出づべきか、わが業報は我を地獄に導くべし、解脱の御法は遂に聞くべからず」と
僧「善因善果、悪因悪果は天の道なれば、御身が今生にてなせる罪業はめぐりめぐりて来生に報いきたるべし、されど失望すべからず、真の教に帰して、我執の妄念を刈除したるものは、一切の情念罪慾を離れて、自他利生、円満ならずと云ふことなし




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今日は、雨が降ったり止んだりの一日でした。

昨晩から今朝にかけて、名古屋でもかなりの雨が降りました。今日の日中は、降ったり止んだりという感じでしたが、降っているときはかなり強い雨でした。

今日は、『杜子春』とともに教科書の定番ともいえる芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』を紹介します。
この作品は、今では芥川が、ポール・ケーラス(Paul Carus)というアメリカの東洋学者の書いた『カルマ(Karma)』の中の一節を元に書いたというのが通説です。
この『カルマ』は明治31(1898)年に鈴木大拙によって翻訳され、『因果の小車』という題で出版されています。
この翻訳で鈴木大拙は、カンダタ犍陀多という漢字を当てており、芥川はこの点も踏襲しています。
しかし、鈴木大拙の『因果の小車』の中の「蜘蛛の糸」と芥川の『蜘蛛の糸』を読み比べると、同じ話とは思えないほどその小説としての巧みさ歴然としています。

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
この書き出しで、既に読者は極楽の蓮池のほとりに誘われます。


蜘蛛の糸』(芥川龍之介)



 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇みになって、水の面を蔽っている蓮の葉の間から、ふと下の容子を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、犍陀多(カンダタ)と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢いている姿が、御眼に止まりました。この犍陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。




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今日は、夕方から本格的な雨になりました。

最近、なかなか当たらない天気予報ですが、今日も名古屋は予報よりも大分遅く、夕方になって本格的に雨が降り出しました。

今日は、芥川龍之介の短編『』を紹介します。
芥川は、カエルの声を『ころろ、からら』と表現しています。
カエルの声がうるさい季節の到来ですが、我が家の周辺には田んぼも池もないので、ここ数年はカエルの声を聞くことはほとんどありません。

』(芥川龍之介)

 自分の今寝ころんでゐる側に、古い池があつて、そこに蛙が沢山ゐる。
 池のまはりには、一面に芦や蒲が茂つてゐる。その芦や蒲の向うには、背の高い白楊の並木が、品よく風に戦いでゐる。その又向うには、静な夏の空があつて、そこには何時も細い、硝子のかけのやうな雲が光つてゐる。さうしてそれらが皆、実際よりも遙に美しく、池の水に映つてゐる。
 蛙はその池の中で、永い一日を飽きず、ころろ、かららと鳴きくらしてゐる。ちよいと聞くと、それが唯ころろ、かららとしか聞えない。が、実は盛に議論を闘してゐるのである。蛙が口をきくのは、何もイソツプの時代ばかりと限つてゐる訳ではない。
 中でも芦の葉の上にゐる蛙は、大学教授のやうな態度でこんなことを云つた。
「水は何の為にあるか。我々蛙の泳ぐ為にあるのである。虫は何の為にゐるか。我々蛙の食ふ為にゐるのである。」




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明日は、雨のようです。

今日もまた、名古屋では天気予報ほどには雨は降らず、結局、私は傘は使いませんでした。…が、明日は本格的な雨になるようです。
今日は、芥川龍之介の最晩年の短編『三つの窓』の3回目です。


三つの窓』(芥川龍之介)

3 一等戦闘艦××

 一等戦闘艦××は横須賀軍港のドックにはいることになった。修繕工事は容易に捗どらなかった。二万噸の××は高い両舷の内外に無数の職工をたからせたまま、何度もいつにない苛立たしさを感じた。が、海に浮かんでいることも蠣にとりつかれることを思えば、むず痒い気もするのに違いなかった。
 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊していた。一万二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だった。彼等は広い海越しに時々声のない話をした。△△は××の年齢には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂い易いことに同情していた。が、××を劬るために一度もそんな問題を話し合ったことはなかった。のみならず何度も海戦をして来た××に対する尊敬のためにいつも敬語を用いていた。
 するとある曇った午後、△△は火薬庫に火のはいったために俄かに恐しい爆声を挙げ、半ば海中に横になってしまった。××は勿論びっくりした。(もっとも大勢の職工たちはこの××の震えたのを物理的に解釈したのに違いなかった。)海戦もしない△△の急に片輪になってしまう、――それは実際××にはほとんど信じられないくらいだった。彼は努めて驚きを隠し、はるかに△△を励したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中にただ唸り声を立てるだけだった。
 それから三四日たった後、二万噸の××は両舷の水圧を失っていたためにだんだん甲板も乾割れはじめた。この容子を見た職工たちはいよいよ修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離していた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまった。こう云う△△の運命を思えば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め尽していた。××はもう昔になったある海戦の時を思い出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさえ折れてしまう海戦だった。……
 二万噸の××は白じらと乾いたドックの中に高だかと艦首を擡げていた。彼の前には巡洋艦や駆逐艇が何隻も出入していた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかった。しかしそれ等は××には果なさを感じさせるばかりだった。××は照ったり曇ったりする横須賀軍港を見渡したまま、じっと彼の運命を待ちつづけていた。その間もやはりおのずから甲板のじりじり反り返って来るのに幾分か不安を感じながら。……



一 鼠」のA中尉、「二 三人」のK中尉、そして「3 一等戦闘艦××」の一等戦闘艦××は、いずれも芥川自身であるように思います。
それゆえに、最後の『幾分か不安を感じながら。』という句が、芥川の遺書の『ぼんやりとした不安』という言葉を思い出させます。
この短編を書いているときに、既に芥川は死に向かっていたのでしょうか。




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Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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