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COP10の名古屋開催が決定しました。

昨日、ボンで開かれていた第9回生物多様性条約締約国会議(COP9)で、次回、平成22(2010年)の第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)の開催地が名古屋に決定しました。
名古屋市で開催される始めての大きな国際会議ということで、今日、名古屋市役所の前を通ったら、庁舎に横断幕が掲げられていました。

COP10横断幕
〔名古屋市役所西庁舎〕

平成22(2010)年の10月に、名古屋市熱田区名古屋国際会議場で開催される予定ということです。

生物多様性条約Convention on Biological Diversity/CBDというのは、平成4(1992)年にリオ・デ・ジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)気候変動枠組条約Framework Convention on Climate Change/FCCCとともに採択された条約で、翌平成5(1993)年に発効しました。
この条約は、生物の多様性を「生態系」、「種」、「遺伝子」の3つのレベルで捉え、条約の第1条にあるように、生物多様性の保全、その構成要素の持続可能な利用、遺伝資源の利用から生ずる利益の公正な配分を目的としているとのことです。

※第一条 目的
 この条約は、生物の多様性の保全、その構成要素の持続可能な利用及び遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分をこの条約の関係規定に従って実現することを目的とする。この目的は、特に、遺伝資源の取得の適当な機会の提供及び関連のある技術の適当な移転(これらの提供及び移転は、当該遺伝資源及び当該関連のある技術についてのすべての権利を考慮して行う。)並びに適当な資金供与の方法により達成する。


生物多様性というのは、非常に難しい概念だと思います。2年後までには自分の言葉で説明でいるようになりたいです。



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ブーゲンビレアの花が満開です。

実家のブーゲンビレアの鉢植えが、去年よりも2週間ほど早く満開になっています。
園芸店での表記は「ブーゲンビリア」で統一されている(?)ようですが、学名Bougainvilleaから見ても、「ブーゲンビレア」の方が正しいような気がします。

ブーゲンビレア2008


私は、ブーゲンビレアというと、たまの「さよなら人類」を思い出します(年がわかるなぁ)。

さよなら人類」(作詞・作曲 柳原幼一郎)



あのこは花火を打ち上げて この日が来たのを祝ってる
冬の花火は強すぎて 僕らの身体はくだけちる
ブーゲンビリヤの木の下で ぼくはあのこを探すけど
月の光にじゃまされて あのこのかけらは見つからない
今日 人類が始めて木製についたよ
ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ



この歌でも、表記は「ブーゲンビリヤ」ですが…。



日本海海戦は明治38(1905)年の

今日(5月27日)始まります。

日本海海戦は、対馬沖日本海軍連合艦隊ロシア海軍バルチック艦隊との間で行われ、日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅しました。
日本側の損失はほとんどなく、世界の海戦史上まれな一方的勝利となりました。

〔海戦の経緯〕
26日5時5分、朝鮮半島鎮海湾に待機中の連合艦隊全艦艇に出撃命令が出され、連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電しています。
13時55分、東郷大将は、連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗の掲揚を指示します。Z旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という意味の信号旗とのことです。
14時24分、連合艦隊は一斉砲撃を開始し、バルチック艦隊の先頭を航行していた戦艦スワロフオスラビアはたちまち火炎に包まれ、戦線から離脱します。
戦闘は、その後も日本側に有利な状況で続き、日没までにロシア側は戦艦4隻が沈み、勝敗はほぼ決します。
夜になり、日本側は駆逐艦水雷艇による襲撃を開始し、ロシア側はさらに戦艦2隻を失い、艦隊行動が不可能な状況に追い込まれます。
翌朝、日本側はさらに追撃戦を行い、10時53分にロシア側が降伏して戦闘は終了します。

ロシア側の損失が、戦艦6隻を含めて撃沈21隻、戦死者4830人に上ったのに対し、日本側は、水雷艇3隻を失っただけで、戦死者は117人にとどまりました。
当時、後進国と思われていた日本が、英仏に次ぐ世界第3位の海軍国でもある大国ロシアに勝利したというニュースは世界を驚かせます。
そしてこのニュースは、ロシアの脅威を感じていたトルコなどのロシア周辺国を熱狂させ、圧政に苦しんでいたロシア国内では、革命の機運が高まります。

芥川龍之介は、「追憶」の中で、この2日間のことを思い出しています。



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「明暗」連載、第1回。


大正5(1916)年の今日(5月26日)、夏目漱石の絶筆となる長編小説「明暗」の連載が朝日新聞で始まりました。
この連載は、漱石がこの年の12月9日に49歳で亡くなったため、188回(12月14日)で終了となり、「明暗」は未完の長編小説となります。

この回を読んだだけでは、主人公の津田の病気が何なのかはわかりません(わかる人にはわかるのかも?)が、津田の病気はです。
結核性の痔は、当時では結構重い病気だったそうで、治療に1年以上かかることも多かったようですし、場合によっては、命にかかわることもあったとのことです。
なお、現在では、結核の感染が激減したこともあり、ほとんど見られないそうです。


明暗」(夏目漱石) 



 医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」




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アマリリスの花が咲きました。

昨日、実家に行ったらアマリリスの花が咲いていました。
昨年までは鉢植えでしたが、今年はプランターに植えたら、大輪で、しかもたくさん咲いたとのことでした。

アマリリス2008


小学校の頃、リコーダーの練習曲に「アマリリス」というのがありました。
※MIDI「アマリリス」:「Reinmusik」さんのサイトから

この曲には、岩佐東一郎作詞の歌詞もあるようです。

みんなで聞こう
楽しい オルゴールを
ラリラリラリラ
しらべは アマリリス

フランスみやげ
やさしい その音色よ
ラリラリラリラ
しらべは アマリリス


今回、調べてみて、この1番と2番(…と思っていました)の間に別のメロディーがあり、そこにも歌詞がつけられていることがわかりました。

月の光
花園を あおく照らして
ああ 夢を見てる
花々の眠りよ





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柏葉アジサイの花が咲き始めました。

実家の庭で柏葉アジサイの花が、昨年より10日ほど早く咲き始めました。

柏葉アジサイ2008


葉が、の葉に似ているところから、こう名付けられたとのこと。
柏の葉
〔柏の葉〕

英語では、Oakleaf hydrangeaと言うそうです。これは、「葉がオーク(Oak)に似ているあじさい(hydrangea)」という意味だと思います。オークの葉は、の葉に似ていますので、名前の由来は日米ほぼ同じようです。

オークリーフ
〔オークの葉〕



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今日は、藤村操が投身自殺した日です。

藤村操〔明治19年(1886年)~明治36年(1903年)〕は、北海道出身の旧制一高の学生で、明治36年5月22日に日光華厳の滝で、ミズナラの木に「巌頭之感」を書き残して自殺しました。
彼の自殺は、多くの学生、若者に影響を与え、後追い自殺が相次いだそうです。
また、華厳の滝自殺の名所と言われるようになったのは、この後ということです。

「巌頭之感」

悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。


この自殺は、当時、一高で藤村のクラスの英語の担当だった夏目漱石にも大きなショックを与えたと言われています。
漱石は、自殺の直前に、授業中、藤村を叱責していたため、自殺の原因は自分ではないかと思い悩み、神経衰弱になってしまいます。
漱石が、神経衰弱を和らげるために、翌明治37(1904)年の暮れに高浜虚子のすすめで書いた小説が、処女作「吾輩は猫である」です。

なお、自殺の原因は、この遺書から哲学的な悩みとされていましたが、自殺の数か月後に、本当の原因は失恋であったことが明らかになりました。

そのためかどうかはわかりませんが、漱石は「吾輩は猫である」の中でこのことに触れています。



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駒井哲郎銅版画展に行きました。

名古屋ボストン美術館では、「一俳人のコレクションによる 駒井哲郎銅版画展 イメージと言葉の共振」が開催中です。
この展覧会は、名古屋在住の医師で俳人で、現在の名古屋ボストン美術館馬場駿吉館長の個人コレクションの展示とのことです。
以下、名古屋ボストン美術館による今回の展覧会の紹介文を引用します。

駒井哲郎は、戦後日本において現代感覚に富む独創的な作風を確立した日本を代表する銅版画家の一人です。
子供の頃から銅版画を学び、フランス詩や音楽にも親しんできた彼は、夢や幻想という言葉を想起させるようなリリカルで瀟洒な世界を、多様な技法を駆使して表現しました。
折りしも現代美術が胎動し始めた当時、詩人瀧口修造を中心とした前衛芸術家集団「実験工房」にも一時参加するなど、彼は現代美術のパイオニアでもありました。
名古屋在住の俳人で、芸術評論家としても活動している当館館長の馬場駿吉は、大学医学部の若き研究者だった1961年、市内の画廊が主催した個展で初めて駒井哲郎の作品を目にしました。
そして、それまで味わったことのない衝動に駆られ、駒井の版画1点を購入します。
それは馬場が生まれて初めて購入した美術品でした。
その後、駒井自身とも知遇を得て、70点近くに及ぶ駒井作品のコレクションを築きました。
馬場にとって彼の作品は現代美術への扉であると同時に、自らの俳句の源泉でもあります。
本展では、馬場の新旧の俳句を織り交ぜ、彼の目を通した駒井哲郎像、そして一俳人と銅版画家との領域を超えた響き合いを紹介します。


展覧会は、「イメージと言葉の共振」というサブタイトルのとおり、駒井哲郎銅版画に、その作品から馬場駿吉がイメージした俳句が添えられています。
これまで、経験したことのないユニークの展示方法で、なかなか興味深かったです。
※『束の間の幻影』:名古屋ボストン美術館のサイトから



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「クロード・モネの世界」展(続きの続き)

名古屋ボストン美術館で開催中の「クロード・モネの世界」展は、ボストン美術館が所蔵するモネの作品を中心にルノワールドガシスレーなどの印象派コレクションなどを展示する展覧会です。

展覧会は、8つの展示から構成されています。

第6は、「モネとアメリカ美術」。
モネの作品は、大西洋を越えてアメリカにわたり、アメリカの画家に影響を与えます。また、フランスに渡ったアメリカの画家たちはモネと出会い、その影響を受けます。
ここでは、こうしてモネの影響を受けたアメリカ印象派と呼ばれる画家たちが描いた作品が展示されています。
陽光の中の少女』を描いたフィリップ・レスリー・ヘールは、フランスに渡り、帰国後、アメリカ印象派を代表する画家となります。
※『陽光の中の少女』:名古屋ボストン美術館のサイトから

第7は、「モネの連作」。
モネは、同じ題材を異なった時間(さまざまな季節)、異なる光線(さまざまな天気、朝や夕方など)に描く連作を始めます。
1888年~1891年には自宅のあるジヴェルニーの積藁を、1891年にはジヴェルニーのポプラ並木を、1892年~1893年にはルーアンの大聖堂を描きます。
今回の展示では、『積藁、日没』、『ルーアン大聖堂、正面とアルバヌ塔(朝の効果)』など一点ずつしか展示されていませんでした。
その結果、連作の違いがよくわからなかったのが少し残念でした。
※『積藁、日没』:名古屋ボストン美術館のサイトから
※『ルーアン大聖堂、正面とアルバヌ塔(朝の効果)』:名古屋ボストン美術館のサイトから

参考に、異なるバージョンのものをボストン美術館の所蔵品から紹介します。
※『Grainstack (Snow Effect)』:ボストン美術館のサイトから
※『Rouen Cathedral, Façade』:ボストン美術館のサイトから



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「クロード・モネの世界」展(続き)

名古屋ボストン美術館で開催中の「クロード・モネの世界」展は、ボストン美術館が所蔵するモネの作品を中心にルノワールドガシスレーなどの印象派コレクションなどを展示する展覧会です。

名古屋ボストン美術館200805_02


展覧会は、8つの展示から構成されています。

第3は、「モネと印象派の勝利 1880年代」。
この時期、モネはノルマンディーや地中海沿岸に制作旅行に出かけます。
ここでは、そうした制作旅行で描かれた作品が展示されています。
ここで印象に残った作品は、『アンティーブの砦』です。
光きらめく海面から、南フランスのリゾート地の華やかな雰囲気が感じられる作品です。
※『アンティーブの砦』:名古屋ボストン美術館のサイトから

第4は、「モネの技法」。
ここでは、二つの作品を取り上げて、モネの絵の描き方が詳しく解説されています。
そのうちの一つが、『クルーズの谷(陽光の効果)』です。
自分で絵を描かないものにとっては、あまり詳しく解説されると少し興ざめです。
※『クルーズの谷(陽光の効果)』:名古屋ボストン美術館のサイトから





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「クロード・モネの世界」展に行きました。

名古屋ボストン美術館で開催中の「クロード・モネの世界」展は、ボストン美術館が所蔵するモネの作品を中心にルノワールドガシスレーなどの印象派コレクションなどを展示する展覧会です。

名古屋ボストン美術館200805_01


展覧会は、8つの展示から構成されています。

第1は、「初期のモネ インスピレーションの源」。
初期のモネに影響を与えたミレーコローなどのバルビゾン派の作品や、ブーダンマネなどモネの先達の作品が展示されています。
ここで印象に残った作品はウジューヌ・ブーダンの『海岸の着飾った人々』です。
青い空は、初期のモネの青空を彷彿とさせます。
※『海岸の着飾った人々』:名古屋ボストン美術館のサイトから

第2は、「モネと初期の印象派」。
第一回印象派展を開催したルノワールピサロシスレードガセザンヌといったモネの仲間たちの作品が展示されています。
モネの『アルジャンtゥイユの画家の庭のカミーユ・モネと子供』とセザンヌの『日傘をさした女性と子供』が並べて展示してありましたが、モネルノワールの違いを見ることのできる展示だと思いました。
私には、この二つではモネの作品の方が数段上に見えました。
また、ここに私のお気に入りの『ポプラ並木のある草原』もありました。数多いポプラを描いたモネの作品の中でも傑作だと思います。
この絵の青い空と白い雲を見ていると、心が癒されます。
※『ポプラ並木のある草原』:名古屋ボストン美術館のサイトから




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雨の漓江下りは少し寒かったです。

唐代の詩人韓愈(かんゆ)〔768年~824年〕は、漓江で詩を詠んでいます。

江作青羅帯
山如碧玉簪


川は青羅の帯をなし
山は碧玉のかんざしのごとし


雨に霞んでよく見えませんが、写真の中央の山から突き出ている岩は、この岩は、若い母親が子供を背負って夫の帰りを待ち望んでいる姿に見えるので、『望夫石』と呼ばれているそうです。

漓江下り05
〔望夫石〕

漓江下り04
〔望夫石(拡大)〕



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kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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