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漱石の理想の女性像が、

永日小品』の23番目の短編「」に描かれていると言われています。


永日小品・心』(夏目漱石)


 二階の手摺に湯上りの手拭を懸けて、日の目の多い春の町を見下すと、頭巾を被って、白い髭を疎らに生やした下駄の歯入が垣の外を通る。古い鼓を天秤棒に括りつけて、竹のへらでかんかんと敲くのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向の医者の門の傍へ来て、例の冴え損なった春の鼓をかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向の方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一摶に手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴の細枝に留っていたが、落ちつかぬと見えて、二三度身ぶりを易える拍子に、ふと欄干に倚りかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙るごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗な足で手摺の桟を踏まえている。
 まだ見た事のない鳥だから、名前を知ろうはずはないが、その色合が著るしく自分の心を動かした。鶯に似て少し渋味の勝った翼に、胸は燻んだ、煉瓦の色に似て、吹けば飛びそうに、ふわついている。その辺には柔かな波を時々打たして、じっとおとなしくしている。怖すのは罪だと思って、自分もしばらく、手摺に倚ったまま、指一本も動かさずに辛抱していたが、存外鳥の方は平気なようなので、やがて思い切って、そっと身を後へ引いた。同時に鳥はひらりと手摺の上に飛び上がって、すぐと眼の前に来た。自分と鳥の間はわずか一尺ほどに過ぎない。自分は半ば無意識に右手を美しい鳥の方に出した。鳥は柔かな翼と、華奢な足と、漣の打つ胸のすべてを挙げて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中に、安らかに飛び移った。自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。しかしこの鳥は……の後はどうしても思い出せなかった。ただ心の底の方にその後が潜んでいて、総体を薄く暈すように見えた。この心の底一面に煮染んだものを、ある不可思議の力で、一所に集めて判然と熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。自分は直に籠の中に鳥を入れて、春の日影の傾くまで眺めていた。そうしてこの鳥はどんな心持で自分を見ているだろうかと考えた。




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kinkun

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名古屋春栄会のホームページの管理人

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