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2008 / 02
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今日は、4年に一度の2月29日です。

今日の名古屋は、春を感じさせる暖かな一日でした。

今日は、昨日に続いて新美南吉の童話を紹介します。今日紹介する童話は、「のら犬」です。
のら犬」は、『赤い鳥』の昭和7(1932)年5月号に掲載されました。南吉が19歳のときの作品です。


『のら犬』(新美南吉)



 常念御坊は、碁がなによりもすきでした。きょうも、となり村の檀家へ法事でよばれてきて、お昼すぎから碁をうちつづけ、日がかげってきたので、びっくりしてこしをあげました。
「まあ、いいじゃありませんか。これからでは、とちゅうで夜になってしまいます。今夜は、とまっていらっしゃいましよ。」
と、ひきとめられました。
「でも、小僧がひとりで、さびしがりますから。さいわいに風もございませんので。」
と、おまんじゅうのつつみをもらって、かえっていきました。
 常念御坊は歩きながらも、碁のことばかり、考えつづけていました。さっきのいちばんしまいの、あすこのあの手はまずかった。むこうがああきた、そこであすこをパチンとおさえた、それからこうきたから、こうにげたが、あれはやっぱり、こっちのところへ、こうわたるべきだったなどと、むちゅうになって、歩いてきました。そのうちに、その村のはずれに近い、烏帽子をつくる家の前まできますと、もう冬の日も、とっぷりくれかけてきました。
 しばらくしてなんの気もなく、ふと、うしろをふりかえってみますと、じきうしろに、犬が一ぴきついてきています。きつね色の毛をした、耳のぴんとつったった、あばらの間のやせくぼんだ、ぶきみな、よろよろ犬です。どこかここいらの、かい犬だろうと思いながら、また碁のことを考えながらいきました。
 一、二丁いって、またふりむいてみますと、さっきのやせ犬が、まだとぼとぼあとを追ってきています。うす暗いおうらいのまん中で、二、三人の子どもが、こまをまわしています。
「おい、坊。この犬はどこの犬だい。」
 子どもたちは、こまを足でとめて、御坊の顔と犬とを見くらべながら、
「おらァ、知らねえ。」
「おいらも、知らねえ。」
といいました。
 常念御坊は、村を出はずれました。左右は麦畑のひくい岡で、人っ子ひとりおりません。うしろを見ると、犬がまだついてきています。
「しっ」といって、にらみつけましたが、にげようともしません。足をあげて追うと、二、三尺ひきさがって、じっと顔を見ています。
「ちょっ、きみのわるいやつだな。」
 常念御坊は、舌うちをして、歩きだしました。あたりはだんだんに、暗くなってきました。うしろには犬が、のそのそついてきているのが、見なくもわかっています。




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今日は、ビスケットの日だそうです。

今日の名古屋は、風は強かったですが、日差しには春が感じられる一日でした。
ビスケットというと思い出す新美南吉の童話「正坊とクロ」を紹介します。

新美南吉(本名:渡辺正八)は、大正2(1913)年7月に愛知県半田市に生まれます。そして、大正10(1921)年、8歳のときに母の生家の養子となり、新美に姓が変わります。
昭和6(1931)年に、半田中学を卒業し、小学校の先生になるために師範学校を受験しますが、体が弱くて入学できず、母校の半田第二尋常小学校の代用教員となります。しかし、8月には退職します。
正坊とクロ」は、『赤い鳥』の昭和6年8月号に、南吉が初めて入選し、掲載された童話です。南吉が18歳のときの作品です。


『正坊とクロ』(新美南吉)



 村むらを興行して歩くサーカス団がありました。十人そこそこの軽業師と、年をとった黒くまと馬二とうだけの小さな団です。馬は舞台に出るほかに、つぎの土地へうつっていくとき、赤いラシャの毛布などをきて、荷車をひくやくめをもしていました。
 ある村へつきました。座員たちは、みんなで手わけして、たばこ屋の板かべや、お湯屋のかべに、赤や黄色ですった、きれいなビラをはって歩きました。村のおとなも子どもも、つよいインキのにおいのするそのビラをとりまいて、おまつりのようによろこびさわぎました。
 テントばりの小屋がかかってから、三日めのお昼すぎのことでした。見物席から、わあっという歓声といっしょに、ぱちぱちと拍手の音がひびいてきました。すると、ダンスをおわったお千代さんが、うすももいろのスカートをひらひらさせて、舞台うらへひきさがってきました。つぎは、くまのクロが出る番になっていました。くまつかいの五郎が、ようかん色になったビロードの上着をつけ、長ぐつをはいて、シュッシュッとむちをならしながら、おりのそばへいきました。
「さあ、クロ公、出番だ。しっかりたのむよ」
と、わらいながらとびらをあけましたが、どうしたのか、クロはいつものように立ちあがってくるようすが見えません。おやと思って、五郎がこごんでみますと、クロはからだじゅうあせだくになって、目をつむり、歯をくいしばって、ふといいきをついているのです。
「たいへんだ、団長さん。クロがはらいたをおこしたらしいです」
 団長もほかの座員も、ドカドカとあつまってきました。五郎は団長とふたりがかりで、竹の皮でくるんだ、黒い丸薬をのませようとしましたが、クロはくいしばった口からフウフウあわをふきふき、首をふりうごかして、どうしても口をひらきません。しばらくして、ピリピリッとおなかのあたりが波をうったと思いますと、クロは四つんばいになって、おりの中をこまのようにくるいまわりました。それから、わらのとこにドタリとたおれて、ふうッと大きくいきをふいて、目をショボショボさせています。
 見物席のほうからは、つぎの出しものをさいそくする拍手の音が、パチパチひびいてきます。そこでとうとう、道化役の佐吉さんが、クロにかわって、舞台に出ることにしました。そのとき、だれかが、
「正坊がいたら、薬をのむがなあ」
と、ためいきをつくようにいいました。団長は、
「そうだ。お千代、正坊をつれてこい」
と、ふといだみ声でめいじました。お千代は馬を一とうひきだして、ダンスすがたのまま、ひらりとまたがると、白いたんぼ道を、となり村へむかってかけていきました。




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昭和11年の今日、東京市に戒厳令が

敷かれました。前日、発生した二・二六事件に対応したものです。
この戒厳令は、行政戒厳と呼ばれているものです。

大日本帝国憲法下の戒厳令には、二つあったようです。
一つは、大日本帝国憲法第14条(「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス、戒厳ノ要件及ビ効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」)に基づく戦時戒厳です。
この詳細を定めた法律が、憲法発布に先立つ明治15(1882)年に布告された「戒厳令」で、この「戒厳令」によると、戒厳には「臨戦地境」と「合囲地境」の2種類あり、この「戒厳令」に基づくものが、戦時戒厳と呼ばれました。
臨戦地境戒厳は、日清戦争中の広島市宇品日露戦争中の長崎市佐世保市対馬函館市台湾などに敷かれました。合囲地境戒厳がしかれたことはありません。
この「戒厳令」は、昭和22(1947)年に廃止されました。

もう一つは、大日本帝国憲法第8条(「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」)に基づいた行政戒厳です。
この行政威厳は、東京周辺を対象に、明治大正昭和に1回ずつ計3回、宣告されています。



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今から72年前の今日、

昭和11年(1936)年2月26日、陸軍の青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて、クーデター未遂事件を起こします。いわゆる二・二六事件です。

名古屋とも関係の深いジャーナリスト桐生悠々は、この二・二六事件についても激しく非難します。
桐生悠々(明治6(1873)年生まれ)は、石川県出身の反骨・反軍で知られたジャーナリストです。
悠々は、日露戦争後から日米開戦前夜に至るまで、信濃毎日新聞新愛知新聞の主筆として、また晩年は、個人雑誌『他山の石』の発行人として、反戦と不正追及の姿勢を貫きます。
明治40(1910)年から大正3(1914)年まで、信濃毎日新聞の主筆を務め、その後、大正3(1914)年から大正13(1924)年までは新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で反権力・反軍の論陣の張ります。
その後、昭和3(1928)年に信濃毎日新聞の主筆に復帰し、昭和8(1933)年8月11日、東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤ふ』を執筆します。
この社説は、12年後の日本各都市の空襲による惨状をかなり正確に予言したことで、現在では高く評価されていますが、当時は、陸軍の怒りを買い、9月に退社に追い込まれます。
以後、死に至るまでの8年間を名古屋郊外の守山(現在の名古屋市守山区)の自宅で「名古屋読書会」の主宰者として、個人雑誌『他山の石』を毎月2回発行して時局批判、軍部攻撃を続けます。
そのため、この雑誌もたびたびの発禁処分を受け、ついに昭和16(1941)年8月、愛知県当局から廃刊命令を受けます。そして、悠々はその翌月の9月10日に69歳で亡くなります。

今日は、二・二六事件から3か月あまりたった6月に、悠々が「他山の石」に発表した『言いたい事と言わねばならない事と』を紹介します。



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今日は、彰子が入内した日です。

藤原道長の娘・彰子〔永延2(988)年~ 承保元(1074)年〕は、長保2(1000)年の2月25日に一条天皇に入内します。
そして、既に中宮だった定子皇后と呼ばれるようになり、彰子中宮となり、前代未聞の一帝二后となります。
彰子女房には、紫式部和泉式部赤染衛門伊勢大輔などがおり、当代一流の文芸サロンを形成していました。
その彰子(上東門院)の発願によって、長元3(1030)年に造営されたのが東北院です。
藤原道長が建立したのが法成寺の東北にあったので、東北院と名付けられたと言われています。
その東北院にある和泉式部が愛情をそそいでいたという白梅軒端の梅です。
その軒端の梅和泉式部の霊が現れるのが、能『東北』です。

和泉式部の歌と言えば、百人一首に入っている

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
        いまひとたびの 逢ふこともがな


が有名ですが、梅の花を呼んだ歌では、

むめの香を 君によそへて みるからに
        花のをりしる 身ともなるかな


が知られています。

現在も、軒端の梅と呼ばれている白梅の木は、東北院にあります。ただし、東北院は火事で焼失後、元禄6(1693)年に現在の地(京都市左京区浄土寺真如町83)に移ったそうです。
そろそろ、満開になっている頃でしょうか。



謡『安宅』の稽古は、今日が5回目

今朝の名古屋は、氷点下の冷え込みとなり、日中も冷たい強風が吹く一日でした。
あまりに寒いので、稽古をサボりそうになりましたが、今日行かないと今月は一度も稽古に行かないことになってしまうことの気付き、午後から出かけました。

今日から、いよいよ『勧進帳』の部分に入りました。さすがに『勧進帳』の部分は、私には難しく、なかなか先生と同じように謡うことはできません。

シテ「それ山伏といっぱ。役の優婆塞の行義を受け。
立衆「その身は不動明王の尊容をかたどり。
シテ「兜巾といっぱ五智の宝冠なり。
立衆「十二因縁のの襞をすえて戴き。
シテ「九会曼荼羅の柿の篠懸。
立衆「胎蔵黒色の脛巾をはき。
シテ「さてまた八目の草鞋は。
立衆「八葉の蓮華を踏まえたり。
シテ「出で入る息には阿吽の二字を唱え。
立衆「即心即仏の山伏を。
シテ「ここにて討ちとめたまわん事。
立衆「明王の照覧計りがたう。
シテ「熊野権現の御罰を当らん事。
立衆「立ち所において。
シテ「疑いあるべからず。
地謡「唵阿毘羅吽欠と.数珠さらさらと.おしもめば。
ワキ「近頃おん勤め殊勝に候。ただ今承り候は。
   南都東大寺勧進聖のよし仰せ候。
   とてもの事に勧進帳が承りとう候。

シテ「なかなかの事読みて聞かせ申そう。
   その時笈の中よりも。巻物一巻取り出だし。
   勧進帳と名づけつつ。高らかにこそ.読みあげけれ。
   それ.つらつら。思ん見れば.大恩教主の秋の月は。
   涅槃の雲に隠れ.生死長夜の長き夢。
   驚かすべき.人もなし。ここに中頃。
   帝おわします。おん名をば。
   聖武皇帝と.名づけ奉る最愛の.夫人に別れ。
   恋慕やみがたく。涕泣眼にあって涙玉をつらぬく思いを。
   泉路にひるがえして。廬遮那仏を.建立す。


能楽辞典などによると、「安宅」の『勧進帳』、「正尊」の『起請文』、「木曾」の『願書』が三読物と呼ばれているそうです。
…が、金春流に「木曾」はありません。金春流では二読物なのでしょうか。今日、先生に聞こうと思っていて忘れてしまいました(次の稽古のときには忘れずに尋ねて、ご報告します)。



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白梅がもうすぐ満開です。

今日の名古屋は、強い北風の中、ときおり雪がちらつく寒い一日でした。
実家の庭で白梅が満開になろうとしていました。白梅は香りが強いので、横を通り過ぎただけでも、その香りが漂ってきます。

白梅200802


白梅を見ると太宰治の短編『I can speak』の女工の姉夜学に通う弟が工場の塀越しに話す場面を思い出します。

私は、なぜか兄弟と姉弟の出てくるシーンには弱くて、弟思いの兄、姉思いの弟などが出てくるとすぐ涙が出そうになります。どうも、兄弟間、姉弟間の心の通い合いに感情移入しやすい傾向があるようです。
これまで紹介した中原中也の『冬の日の記憶』(2008年1月30日)や樋口一葉の『大つごもり』(2007年12月28日29日)同様に、この小説でも姉と弟の心の交流が印象に残っています。


『I can speak』 太宰治

 くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。
 わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。




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今日は、猫の日だそうです。

今日、2月22日を猫の日と決めたのはペットフードの団体とのこと。

歴史上、日本で一番有名なといえば、漱石の『吾輩は猫である』の猫(吾輩)のモデルとなった猫(吾輩)でしょう。
この猫(吾輩)は、『吾輩は猫である』(明治39(1905)年)が執筆され始めた明治38(1904)年には既に漱石邸に住み着いており、明治41(1908)年9日13日の夜に亡くなりますので、死んだときは5歳ぐらいだったと思われます。としてもあまり長生きではなかったようです。
猫(吾輩)が亡くなる前後のことを、漱石が書いた短編が「猫の墓」です。この作品は、『永日小品』の8番目の短編です。

早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た』とあります。漱石早稲田南町に転居したのが、明治40(1907)年9月ですから、猫(吾輩)は死ぬ1年前から元気がなくなっていたようです。
猫(吾輩)が死んで『三日目の夕方』に『たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ愛子は、漱石四女です。愛子は、明治38(1905)年12月生まれで、このとき数えで『四つになる女の子』でした。


永日小品・猫の墓』(夏目漱石)


 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍で騒いでも、知らぬ顔をしている。小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度の食を、台所の隅に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒る様子もなかった。喧嘩をするところを見た試しもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕がない。伸んびり楽々と身を横に、日光を領しているのと違って、動くべきせきがないために――これでは、まだ形容し足りない。懶さの度をある所まで通り越して、動かなければ淋しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳子を、ぼんやり一と所に落ちつけているのみである。彼れが家の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然と認めていなかったらしい。



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今日は、夏目漱石が博士号を辞退した日です。

明治44(1911)年2月20日、文部省が、漱石文学博士号授与を通知します。しかし、その翌21日に、漱石はこれを辞退します。その後、両者の対立は2か月近く続くことになります。
結局、4月11日に文部省は既に発令ずみだから辞退はできないと漱石に伝え、13日に漱石が改めて拒否します。
このときのやり取りを漱石は、4月15日の東京朝日新聞に「博士問題の成行」と題して寄稿しています。

わが国の学位は、明治19(1886)年に帝国大学令(勅令)が、翌明治20(1887)年に学位令(勅令)が発布され、日本で教育を受けた者や一定の研究を行った者に、大博士または博士の学位を文部大臣が授与することになりました。
このとき、博士の種類は、法学、医学、工学、文学、理学の5種類でした。
その後、明治31(1898)年に大博士が廃止され、大正9(1920)年には、文部大臣の認可を得て大学が授与する形になりますが、戦前は一貫して文部大臣が関与するものでした。
戦後、学位令は廃止され、昭和28(1953)年定められた学位規則が公布され、大学院をおく大学が授与する形になりました。


博士問題の成行』(夏目漱石)


 二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日に至るまで、当局者と余とは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図らずも上田万年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合って別れた。
 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこの段申進候敬具」




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西洋桜草の花が咲いています。

ベランダで西洋桜草(プリムラ・マラコイデス)の花が咲いています。
西洋桜草は、サクラソウ科の1年草で、学名はPrimula malacoides(プリムラ・マラコイデス)
Primula(プリムラ)は、ラテン語の「primos(最初)」が語源のようで、 早春、他の花に先駆けて咲くことから名付けられたとのことです。
西洋」という名前ですが、中国南部原産とのことで、 イギリスで改良され、明治から大正にかけて日本に来たので、「西洋」と呼ばれているようです。
我が家のベランダでも、12月の中旬頃から咲き始め、最初の花がほぼ満開になろうとしています。

西洋桜草200802


実家の庭では、毎年、数え切れないほどの西洋桜草が一人生えで生えてきます。この鉢植えは、そうして生えた芽を鉢上げしたものです。



今日は、雨水です。

今日の名古屋は、久しぶりに日中の最高気温が10℃を超え、暦どおり春の到来を感じさせる一日でした。
雨水は、二十四節気の一つで、雪が雨に変わり、氷が融けて水になるという意味とのことです。
天文学的には、太陽が天球上の黄経330度の点を通過する瞬間だそうで、今年は今日(2008年2月19日)の午後4時だそうです。

今日は、中原中也の『早春の風』を紹介します。

早春の風』(中原中也)

  けふ一日また金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

  女王の冠さながらに
 卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋ぶ

  鳶色の土かをるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

  青き女の顎かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……


中也の詩には、忘れられないフレーズがいくつかありますが、この『大きい風には銀の鈴』もその一つです。静かな春の風に鈴の音が聞こえてくるようです。



今日は、満州国が独立を宣言した日です。

昭和7(1932)年2月18日、満州国は「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と中国国民党政府からの分離独立宣言します。
満州でのわが国の利権は、日露戦争〔明治37(1904)年-明治38(1905年)〕に勝利し、ポーツマス条約によってロシアから、東清鉄道の支線・長春~大連間の鉄道施設とその付属地の譲渡を受け、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立したことに始まります。

今日は、漱石が学生時代の親友・中村の思い出について書いた短編「変化」を紹介します。この作品は、『永日小品』の24番目の短編です。

中村というのは、漱石と第一高等中学校の同期で親友だった中村是公(なかむら よしこと)のことです。通称は「ぜこう」だったとのことです。漱石も「ぜこう」と呼んでいたようです。
中村は、漱石と同じ、慶応3(1867)年生まれです。
明治26(1893)年に東京帝国大学を卒業して、大蔵省に入省、台湾総督府勤務を経て、明治39(1906)年に初代満鉄総裁後藤新平の下で副総裁、明治41(1908)年に第2代満鉄総裁に就任します。
漱石が大正5(1916)年に亡くなった後、大正6(1917)年に貴族院議員となり、翌大正7(1918)年に鉄道院総裁関東大震災後の大正13(1923)年に東京市長に就任します。
昭和2(1927)年に、漱石と同じ胃潰瘍で亡くなります。

永日小品・変化』(夏目漱石)


 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。その時窓の真下の家の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。


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kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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