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2008 / 01
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今日も、名古屋は寒い一日でした。

昨日が比較的暖かかったので、今日は気温以上に寒く感じました。
こんな日、ストーブやエアコンのなかった昔の人はどうやって寒さをしのいでいたのだろうと思います。
昔の日本家屋は、今と違って機密性が低かったことですし…。

今日は、そんな冬の寒い一日を描いた夏目漱石の短編「火鉢」を紹介します。
この作品は、『永日小品』の5番目の短編で、、『風呂場は氷でかちかち光っている』ほど寒い日の漱石の話です。
当時の暖房器具といえば、やはり火鉢だったようです。
芥川龍之介は、「漱石山房の冬」で漱石没後の書斎の様子を、『洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。銅印もある。瀬戸の火鉢もある。天井には鼠の食ひ破つた穴も、……』と書いていますので、書斎の火鉢は瀬戸だったようです。

でも、当時、既に有名作家だった漱石が、に『おい、去年、子供の病気で、煖炉(ストーブ)を焚いた時には炭代がいくら要ったかな 』と尋ね、が『「あの時は月末に廿八円払いました』と答えると、『自分は妻の答を聞いて、座敷煖炉を断念した』というのには少し驚きました。


永日小品・火鉢』(夏目漱石)


 眼が覚めたら、昨夜抱いて寝た懐炉が腹の上で冷たくなっていた。硝子戸越に、廂の外を眺めると、重い空が幅三尺ほど鉛のように見えた。胃の痛みはだいぶ除れたらしい。思い切って、床の上に起き上がると、予想よりも寒い。窓の下には昨日の雪がそのままである。
 風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍り着いて、栓が利かない。ようやくの事で温水摩擦を済まして、茶の間で紅茶を茶碗に移していると、二つになる男の子が例の通り泣き出した。この子は一昨日も一日泣いていた。昨日も泣き続けに泣いた。妻にどうかしたのかと聞くと、どうもしたのじゃない、寒いからだと云う。仕方がない。なるほど泣き方がぐずぐずで痛くも苦しくもないようである。けれども泣くくらいだから、どこか不安な所があるのだろう。聞いていると、しまいにはこっちが不安になって来る。時によると小悪らしくなる。大きな声で叱りつけたい事もあるが、何しろ、叱るにはあまり小さ過ぎると思って、つい我慢をする。一昨日も昨日もそうであったが、今日もまた一日そうなのかと思うと、朝から心持が好くない。胃が悪いのでこの頃は朝飯を食わぬ掟にしてあるから、紅茶茶碗を持ったまま、書斎へ退いた。




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涙が出そうになる詩

誰しも胸がいっぱいになって、涙が出そうになる詩があると思います。
私は、けなげな男の子が出てくると胸が詰まってしまう傾向あります。
その代表的な詩が、中原中也の『冬の日の記憶』です。


冬の日の記憶』(中原中也)

昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。

次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。

夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。

つるべの音が偶々した時、
父親からの、返電が来た。

毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。

その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。


詩の中では2回しか出てこない死んでしまった子の兄のことを思うと涙が出そうになります。



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名古屋城のロウバイは満開でした。

梅はまだ咲いていませんでしたが。ロウバイは満開でした。
名古屋城内には、10数本のロウバイが植えられているとのことです。
ロウバイ(蝋梅)は、 学名Chimonanthus praecoxで、梅の字が使われていますが、梅とはまったく別種の蝋梅科の花で、中国原産です。
17世紀中頃に日本に渡来し、中国名の「蝋梅」がそのまま和名になったとそうです。
名前の由来としては、蝋細工のような、梅に似た花から蝋梅という名になったという説と臘月(ろうげつ:陰暦の12月)に梅に似た花を咲かせるところからという説があるようです。
よく見かけるのは、園芸品種のソシンロウバイ(素心蝋梅)で、花の外側だけでなく内側も黄色いのが特徴です。
開花時期はクリスマスの頃から、3月中旬までで、お正月頃から咲き出すことが多いようです。花の少ない季節に咲く、とてもよい香りの花です。

名古屋城のロウバイ2008


このロウバイの木の横に、「青松葉事件之遺跡」の石碑がありました。
この石碑は、もとはここから南へ約100mいった実際の処刑地に建てられていたそうですが、所在不明になり現在の位置に復元されたそうです。
青松葉事件というのは、鳥羽伏見の戦争直後の慶応4(1868)年1月20日から25日にかけて起きた尾張藩内での佐幕派弾圧事件です。
京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝は、国許から佐幕派のクーデターの動きがあるという注進を受け帰国するや、その日のうちに渡辺新左衛門在綱榊原勘解由正帰石川内蔵允照英の三重臣を「朝命によって死を賜るものなり」と告げただけで、その理由を言うことも無く、また何の抗弁の機会を与えることなく、斬首に処し、その後、藩内佐幕派の11人を斬首、20名を処罰しました。
何らかの密命を朝廷より下されていたとも言われていますが、真相はいまだにはっきりしていません。
青松葉事件という名称のは、渡辺新左衛門家が藩内に多数ある同族一門と区別するために青松葉家と称したことに由来しているとのことです。

この事件とロウバイの関係は不明です。偶然、隣に植えられただけなのでしょうか?




名古屋城の梅の蕾はまだ固かったです。

今朝の名古屋は、この冬一番の冷え込みでした。
昨日の名古屋も、天気は良くてきれいな青空でしたが、とても寒い一日でした。
名古屋城も、つぼみが少しふくらんでいましたが、咲き始めるにはまだ少し時間がかかりそうでした。

名古屋城200801


名古屋城の梅200801


1か月後には満開になっていることと思います。



名古屋城本丸御殿の8分の1模型の組立作業

が、今日、名古屋城内で公開されました。
この模型は、昭和20(1945)年5月の空襲で焼失した名古屋城本丸御殿の上洛殿・上段の間を、建築当時の技法を用いて8分の1で再現するものです。名古屋市技能職団体連合会加盟の9組合が名古屋城本丸御殿匠工房を作り、製作に取りかかっているとのこと。
名古屋城本丸御殿の上洛殿は、寛永10(1633)年、3代将軍家光の上洛にあわせ、その宿舎として作られたもので、その中でも上段の間は、最も格式の高い部屋だそうです。

今日は、名古屋城内の西の丸展示館で、その組立作業が一般公開されました。
作業は午後2時に始まり、40分ほどで終了しました。
館内は見学者でいっぱいで、後ろの方からは作業の様子を肉眼で見ることはできず、手を高く上げて撮影した写真でやっと見ることができました。


名古屋城本丸御殿匠工房200801_01



名古屋城本丸御殿匠工房200801_02



名古屋城本丸御殿匠工房200801_03




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謡『安宅』の稽古は、今日が4回目

今朝の名古屋は、氷点下の冷え込みとなり、冷たい一日でした。
ただ、天気はよかったので、日当たりのよい室内は暖かかったです。

今日は、安宅の関についた義経弁慶たち一行が、東大寺大仏再興の勧進の山伏と偽って関所を通ろうとしますが、関守山伏は一人も通さないと言われ、斬られるのならば最後の勤めをしたい伝える場面です。

ワキ「いかに客僧関が候。
シテ「これは南都東大寺建立の為に。
   国国をめぐり勧進を申し候。北陸道をばこの聖承つて。
   一紙半銭を選はず。勧め申す勧進聖にて候。
   勧進におん入り候え。

ワキ「なかなかの事勧進には参り候べし。
   ただしこの関に限って山伏を止め申し候。

シテ「その謂は候。
ワキ「語って聞かせ申そう。
   さても頼朝義経ご兄弟のおん中不和にならせたまい。
   義経は都の住居叶わせたまわず。十二人の作り山伏となり。
   奥州秀衡を頼みおん下向のよし頼朝聞こしめし及ばせたまい。
   国国に新関をすえ。
   山伏をかたく選み申せとのおん事にて候ほどに。
   一人も通し申すまじく候。

シテ「しばらく。頼朝よりの仰せには。
   さようの作り山伏をこそ選べとは仰せあるべけれ。
   さてわれら如きの眞のの山伏をもおん留め候べきか。

太刀持「ようのか.わなおしやっそ。
     きのうも山伏を三人まで切ってかけてすは。
シテ「それが判官殿か
ワキ「ご問答は無益。とにかく通し申すまじく候。
シテ「さてはわれらをも止めては誅したもうべきか。
ワキ「なかなかの事。
シテ「ああ粗忽のご沙汰候いてご後悔候な。言語道断。
   かかる不運なる所へ参り逢いて候ものかな。
   さあらば最後の勤めをして尋常に斬らりょうずるにて候。
   皆皆ご覚悟候え。いかに申し候。
   さあらば最後の勤めをして尋常に斬らりょうずるにて候。
   少しの暇をたまわり候え。これにて聴聞申そうずるにて候。


治承4(1180)年、平重衡南都焼き打ちにより、東大寺の大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏が大破します。しかし、平家の滅亡後、大勧進となった俊乗房重源のもと、全国に勧進聖が派遣され、大仏再建のための寄付を募ります。この事業には、後白河法皇頼朝も協力します。だから、弁慶はこの勧進の山伏になりすまそうとしたのでしょう。



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今日も、漱石の家に入った泥棒の話です。

今日は、漱石が生まれる前後に夏目家に入った泥棒の話です。
漱石は、慶応3(1867)年2月9日の生まれですから、まさに『何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行ったやかましい頃』のことです。
この年の10月14日には、将軍徳川慶喜が大政を奉還し、12月9日には、王政復古の大号令でて、形の上では江戸幕府が滅亡します。

漱石は、本名金之助で、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)で数代前からの名主の夏目小兵衛直克の末子として生まれます。
江戸は、明治維新による混乱の最中で、夏目家も没落しつつあったためか、生後4か月で四谷の古具屋(八百屋という説も)に里子に出されますが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見たが不憫に思い実家へ連れ戻したと言われています。
その後、1歳の時に父親の友人である塩原昌之助の養子に出されます。しかし、養父昌之助の女性問題で養父母が不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻ります。そのため、漱石は一時、実父母のことを祖父母と思い込んでいたと言われています。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れます。
この漱石を不憫に思って連れ戻したが、この話に出てくる御沢さんなのでしょうか。

私の家では柱を切り組にして、その中へあり金を隠す方法を講じた』とのことですが、どのようにして隠したのでしょうか。
切り組とは、柱や梁、桁など、2つ以上の部材を組み合わせ、接合する際に、木材の仕口部分に、ほぞ(差し込む側の木材の小口の部分を細くして、合わせる相手側の材に差し込めるようにした凸の部分)とほぞ穴(合わせる側の凹の部分)を設け、隙間なくあわせて連結することです。以前は、建築現場で職人が手作業でほぞほぞ穴を刻んでいましたが、現在では事前に工場で加工され、現地では組み立てるだけのことが多いいそうです。
このほぞ穴を深く作って、お金の隠し場所にしたということかもしれません。

「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい。」』と言って、『とうとう金は一文も奪られ』なかった、角の酒屋の小倉屋の半兵衛さんは、よく考えるととんでもない人ですが、なぜか憎めないキャラクターです。

硝子戸の中』(夏目漱石)

十四

 ついこの間昔し私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳しく聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行ったやかましい頃なのである。




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今日の名古屋は、この冬一番の寒い一日

でした。今晩から明日の朝にかけても冷え込みが厳しいようです。

今日は、夏目漱石の短編「泥棒」を紹介します。
この作品は、『永日小品』の3番目の短編で、漱石邸に泥棒が入った話です。
漱石は、泥棒の入った翌日に来た巡査に『じゃ仕方がない、締りが悪いとどこからでも這入りますよ』と言われ、『悪いものは、泥棒じゃなくって、不取締な主人であるような心持にな』ります。
この泥棒は、『帯泥棒であった』ので、『子供が三箇日にも着物を着換える事ができない』とに『異な顔』をされてしまいます。
この巡査は、に聞いて、『紛失した物を手帳に書き付けてい』ますが、『繻珍の丸帯が一本ですね、――丸帯と云うのは何ですか、丸帯と書いておけば解るですか、そう、それでは繻珍の丸帯が一本と、それから……』と『丸帯も腹合せもいっこう知ら』ず、頼りないです。

丸帯とは、江戸時代に作られた礼装用の帯のことで、留袖紋付に用いられていましたが、現在では、重く結びにくく高価なため、花嫁衣裳や舞妓の振袖ぐらいにしか使われなくなったとのことです。
一尺八寸(約70cm)の帯地を二つ折りにして並幅九寸(約34cm)に仕立てて、片方を縫い合わせて仕立てた帯とのことで、長さは4m30cmほど。金糸、銀糸を織り込んだ唐錦の総模様で地厚であるために「厚板」とも呼ばれていたそうです。
また、繻珍とは、繻子(しゅす=サテン)織りの一種で、地糸のほかに種々の色糸を用いて模様が浮き出るように織った織物のことだそうです。
腹合せ帯とは、昼夜帯合せ帯鯨帯とも呼ばれ、表と裏を別の布地を縫い合せ、芯を入れて仕立てた女帯のことだそうです。こちらも現在ではほとんど使われていないそうです。
幅は約30cm、長さは約4m20cmで、もともと、片側に黒繻子、他の片端に白地をつけた女帯だたので、白を昼、黒を夜に、または白を鯨の腹、黒を鯨の背になぞらえて名づけられたとのこと。
江戸中期から明治までの女帯は、晴れ着は丸帯普段着は腹合せ帯が主流だったそうです。


永日小品・泥棒』(夏目漱石)


 寝ようと思って次の間へ出ると、炬燵の臭がぷんとした。厠の帰りに、火が強過ぎるようだから、気をつけなくてはいけないと妻に注意して、自分の部屋へ引取った。もう十一時を過ぎている。床の中の夢は常のごとく安らかであった。寒い割に風も吹かず、半鐘の音も耳に応えなかった。熟睡が時の世界を盛り潰したように正体を失った。
 すると忽然として、女の泣声で眼が覚めた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽えるといつでも泣声を出す。この間家の赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯気に上って、引きつけたといって五分ばかり泣声を出した。自分がこの下女の異様な声を聞いたのは、それが始めてである。啜り上げるようにして早口に物を云う。訴えるような、口説くような、詫を入れるような、情人の死を悲しむような――とうてい普通の驚愕の場合に出る、鋭くって短い感投詞の調子ではない。




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今日は、八甲田山雪中行軍が始まった日です。

今から106年前の明治35(1902)年1月23日新田次郎の山岳小説『八甲田山死の彷徨』〔昭和46(1971)年〕や高倉健北大路欣也主演の東宝映画『八甲田山』〔昭和52(1977)年〕で有名な八甲田山雪中行軍に青森第5連隊が青森を出発しました。

この演習はロシアとの戦争で津軽海峡がロシア海軍により封鎖されることを想定したもので、弘前ルート(弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森)青森ルート(青森~田代~三本木~八戸)の2ルートが想定され、弘前ルート日本陸軍第8師団歩兵第31連隊弘前第31連隊:映画では高倉健が指揮者)が、八戸ルートは同じく日本陸軍第8師団歩兵第5連隊青森第5連隊:映画では北大路欣也が指揮者)がそれぞれ受持つ形となりました。
このうち、青森ルートを取った日本陸軍第8師団歩兵第5連隊後藤房之助伍長が、演習5日目の1月27日に仮死状態で捜索隊に発見され、その遭難が明らかになり、結果的に訓練参加者210名199名が死亡する、日本の冬山登山史上最悪の遭難事件となりました。
事件から4年後の明治39(1906)年7月、遭難の地に後藤房之助伍長の銅像が立てられました。

後藤伍長銅像


実際には、八甲田山という山は存在せず、八甲田火山群地域の山々を八甲田連峰が呼ばれています。
大岳(1585m)を主峰として高田大岳(1552m)、井戸岳(1550m)、赤倉岳(1548m)、前嶽(1252m)、 田茂萢岳(1326m)、小岳(1478m)、硫黄岳(1360m)、石倉岳(1205m)、雛岳(1240m)の10の山々が北八甲田と呼ばれ、 櫛ケ峰(1517m)、駒ケ峯(1416m)、乗鞍岳(1450m)、 猿倉岳(1354m)、 赤倉岳(1298m)、 逆川岳 (1183m)の6つの山々が南八甲田と呼ばれています。





今日は、血の日曜日事件のあった日です。

血の日曜日事件とは、今から103年前の1905年1月22日(現在のグレゴリオ暦、当時ロシアはユリウス暦を使用していたので、ロシアでは1月9日の日曜日)、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者による皇宮への請願行進に対し、政府が弾圧を加えた事件のことです。

請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、行進の参加者6万人、行進に先立って行われたストライキの参加者は、サンクトペテルブルグの全労働者18万人の6割を超える11万人に達したと言われています。
この時の軍隊の発砲を伴う弾圧による死者は、一説では4,000人以上とされ、少なくとも1,000人以上死傷者が出たと言われています。
当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていたので、民衆は皇帝ニコライ2世に直訴すれば、情勢が改善されると信じていたとのこと。この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、ロシア第一革命につながったと言われています。

当時は、日露戦争の最中で、前年(1904年12月4日日本軍が203高地を占領し、この年の1月1日にロシア軍の旅順要塞司令官ステッセル中将が降伏、翌1月2日旅順は開城しています。
この血の日曜日事件は、ロシア国内での皇帝の権威を失墜させ、政治情勢も混沌としたため、日露戦争でのロシア敗戦の原因の一つと言われています。
その後、5月27日日本海海戦での日本の勝利により、ロシアでは戦争継続が困難となり、アメリカの仲介で10月14日ポーツマス条約を締結し、日露戦争は終結します。

この事件を題材にしたものに、ショスタコーヴィチ交響曲第11番ト短調「1905年」(作品103)があります。ショスタコーヴィチは、名古屋フィルハーモニーがよく演奏するので、私も何度か聞いたことがあります。私はこの交響曲11番ショスタコーヴィチの交響曲の中では一番好きです。



今日は、大寒。

大寒は、二十四節気の最後(旧暦では12月)で、太陽黄経が300度のときで、寒さが最も厳しくなるころといわれています。

今日の名古屋は、昨日の天気予報では、朝には雪が積もっているはずでしたが、幸いにもはずれて、朝、雪はありませんでした。
しかし、大寒らしい寒い一日でした。

大寒の句で私が一番好きな句は、水原秋桜子

大寒の 入日野の池を 見失ふ   です。

また、今日のような寒い日に思い出す句と言えば、やはり

せきをしてもひとり   です。

この句は、自由律俳句で有名な尾崎放哉の代表句です。
放哉は、大正14(1925)年8月に、小豆島の西光寺・奥の院の南郷庵に住まいを移します。
そして、翌大正15(1926)年4月7日に亡くなります。41歳でした。
この句は、南郷庵で詠まれた句ですので、大正14年から15年の冬の句ということになります。





甥から修学旅行の土産をもらいました。

高校生の甥が修学旅行でシンガポールに行ったということで、マンゴーのドライフルーツを土産にもらいました。

修学旅行の土産


高校で修学旅行で海外に行くところがあるという話は聞いていましたが、公立でも行くんだと少し驚きました(年がわかる?)。

財団法人全国修学旅行研究協会の調査によると、平成17年度に海外に修学旅行に行った高校は、公立で10.0%、私立で33.4%とのこと。
行き先では、1位がオーストラリア(19.6%)、2位が韓国(18.8%)、3位がシンガポール(11.1%)、4位がハワイ(10.0%)の順で多いとのこと。
日数は、5日間が一番多いそうです。
なお、平成17年度で反日デモが激化したため、中国への旅行を予定していた高校で中止したところもかなりあったようです。
今は、中国がもっと多いかもしれません。

公立でも1割の高校は、海外に修学旅行に行く時代なんですね。
うらやましい限りです。




kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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