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今日から、2回は漱石の高等学校時代の友人Oのことです。

友人Oは、次回の最後に「私は彼を想い出すたびに、達人という彼の名を考える。」とあるところから、太田達人のことを指すと思われます。

太田達人は、慶応2(1865)年生まれで、岩手県の士族。盛岡中学に入学しています。
その後の経歴は、私が確認できた限りでは、次のとおりです。
 明治26(1893)年に帝国大学理科大学(現東京大学理学部)を卒業。
 明治27(1894)年に石川県尋常中学校教諭に赴任。
 明治32(1899)年から明治35(1902)年、大阪府第一中学校の校長に赴任。
 明治35(1902)年、設立された北京大学の教員に着任。
 明治40(1907)年~明治43(1910)年、秋田県立秋田中学校の校長に赴任。

漱石の話によれば、その後は、「それも秋田から横手に遷されて、今では樺太の校長をしているのである。」となったようです。

私にも、学生時代には、毎日、一緒に過すほど親しかったのに、お互いに社会人になった途端にほとんど会うことがなくなってしまったという経験があります。私の場合、その友人と十数年ぶりに会ったとき、何かの都合でちょっと会わなかっただけのように、すぐに昔の友人関係に戻ることができ、とても不思議な気持ちになりました。

漱石Oと再会したときに、そんな気持ちになったので、「私はその時透明な好い心持がした。」と記したのではないでしょうか。


硝子戸の中』(夏目漱石)





 私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際った友達の中にOという人がいた。その時分からあまり多くの朋友を持たなかった私には、自然Oと往来を繁くするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼を訪ねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真砂町に下宿している彼を誘って、大川の水泳場まで行った。




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kinkun

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