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2007 / 10
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秋の夕暮れの雨

今日の名古屋は雨です。秋の夕暮れに雨が降っていると、芥川龍之介の『羅生門』冒頭のシーンを思い出します。
私はなぜか主人公の下人20代半ばぐらいの青年だと勝手に思っていましたが、今回読み直して、「右の頬に出来た、大きな面皰(にきび)を気にしながら、」という箇所から、もう少し若く思春期の少年なのだと気付きました。


『羅生門』(芥川龍之介)


ある日の暮方の事である。
一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。



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在俗の名は慶滋の保胤

最後の章は、姫君も、そしても登場しない、後日談です。
では、なぜ芥川はこの章を書いたのでしょうか。
私は、法師に、「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。という一言を言わせたかったためではないかと思います。
そしてこれは、言うまでもなく両親乳母と自分の周りのものに運命を委ね続けて死んでしまった姫君に対する非難です。
ただ、私は、少し姫君に厳しすぎるのではと思います。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、破れ衣の膝を抱へてゐた。
すると其処へ侍が一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路を歩いて来た。
侍は法師の姿を見ると、草履の足を止めたなり、さりげないやうに声をかけた。

「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」

法師は石畳みに蹲まつた儘、たつた一言返事をした。

「お聞きなされ。」



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「何も、――何も見えませぬ」


やっと、姫君に出会ったなのに、変わり果てた姫君を見て、声をかけるのをためらいます。

しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。男は声をかけようとした。が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。

その男の気持ちは、なんとなくわかるような気がします。
しかし、姫君の声を聞き、は思わず名前を呼びます。

男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



男は翌日から姫君を探しに、洛中を方々歩きまはつた。
が、何処へどうしたのか、容易に行き方はわからなかつた。

すると何日か後の夕ぐれ、男はむら雨を避ける為に、朱雀門の前にある、西の曲殿の軒下に立つた。
其処にはまだ男の外にも、物乞ひらしい法師が一人、やはり雨止みを待ちわびてゐた。
雨は丹塗りの門の空に、寂しい音を立て続けた。
男は法師を尻目にしながら、苛立たしい思ひを紛らせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。
その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。
男は殆何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。



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九年目の晩秋


が、9年目にようやく帰ってきます。
東国で妻を迎えていたですが、姫君のことを忘れてしまっていたわけではなかったようです。
男は鄙にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。
男と常陸の妻の族と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日粟津に滞在した。
それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。
男は鄙にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇ろな消息をことづけてやつた。
が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。
それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦一層だつた。
男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。




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「唯静かに老い朽ちたい。」


姫君は、が帰ってこず、暮らし向きがどんどん苦しくなっているにもかかわらず、こう話します。
普通は、このような状況では、とても静かに老いていくことなどできないということがわかると思うのですが、姫君には、そうした世間のことはわからないようです。
その上、「わたしはもう何も入らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」と語るのです。このときの乳母の思いを考えるといたたまれなくなります。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



六年目の春は返つて来た。
が、奥へ下つた男は、遂に都へは帰らなかつた。
その間に召使ひは一人も残らず、ちりぢりに何処かへ立ち退いてしまふし、姫君の住んでゐた東の対も或年の大風に倒れてしまつた。
姫君はそれ以来乳母と一しよに侍の廊を住居にしてゐた。
其処は住居と云ふものの、手狭でもあれば住み荒してもあり、僅に雨露の凌げるだけだつた。
乳母はこの廊へ移つた当座、いたはしい姫君の姿を見ると、涙を落さずにはゐられなかつた。
が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。





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「なりゆきに任せる外はない。」


姫君は「宿命のせんなさ」について、こう話します。
だから、が陸奥の守に任ぜられたの父と共に東国に下ると聞いても、連れて行ってほしいとも、お金を置いていってほしいとも言えなかったのでしょうか。いや言うことすら思い浮かばなかったのかもしれません。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。
男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。
顔かたちもさすがにみやびてゐた。
その上姫君の美しさに、何も彼も忘れてゐる事は、殆誰の目にも明らかだつた。
姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。
時には頼もしいと思ふ事もあつた。
が、蝶鳥の几帳を立てた陰に、燈台の光を眩しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。




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『六の宮の姫君』といえば、芥川龍之介の

はずなのに、検索エンジンで『六の宮の姫君』を検索すると圧倒的に北村薫の『六の宮の姫君』が検索されます。
こちらは、「円紫師匠と私」シリーズ第4作で、芥川龍之介の『六の宮の姫君』の謎を探るという書誌学ミステリ。


芥川の『六の宮の姫君』は、中級貴族の娘が主人公です。
姫君の父は「古い宮腹」ということですし、「官も兵部大輔より昇らなかつた」ということなので、中級貴族といって良いと思います。
兵部大輔は、兵部省の長官である兵部卿の次ぐ、次官級の役職で正五位下相当です。


『六の宮の姫君』(芥川龍之介)



六の宮の姫君の父は、古い宮腹の生れだつた。
が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質の人だつたから、官も兵部大輔より昇らなかつた。
姫君はさう云ふ父母と一しよに、六の宮のほとりにある、木高い屋形に住まつてゐた。
六の宮の姫君と云ふのは、その土地の名前に拠つたのだつた。

父母は姫君を寵愛した。
しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあはせなかつた。
誰か云ひ寄る人があればと、心待ちに待つばかりだつた。
姫君も父母の教へ通り、つつましい朝夕を送つてゐた。
それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だつた。
が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかつた。
「父母さへ達者でゐてくれれば好い。」――姫君はさう思つてゐた。




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今日は芭蕉忌です。

松尾芭蕉は、元禄7年の10月12日(当時は旧暦なので、新暦では1694年11月28日)、旅先の大阪(当時の表記は、大坂)で亡くなります。51歳でした。
その芭蕉の辞世の句は、 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る です。

芭蕉の秋の句で最も有名な句は、 秋深き 隣は何を する人ぞ だと思います。
実はこの句は、芭蕉が起きて詠んだ最後の句です。
この句は、元禄7年9月28日の夜に芭蕉開かれた俳席で詠んだものですが、その翌日の29日に芭蕉は、体調を崩して床に就き、10月12日に亡くなるまで起きることができなかったからです。

芭蕉の秋の句で有名な句としては、 むざんやな 甲の下の きりぎりす もあげられます。
この句は『奥の細道』に収録されています。芭蕉が旅の途中で小松の多太神社に立ち寄り、斉藤実盛の甲を見てみて詠んだ句です。
この句は、横溝正史『獄門島』で使われたことでも有名です。
『獄門島』といえば、私は、石坂浩二金田一耕助を演じた、市川昆監督の映画を思い出します。



阿久悠さんも好きだったようです。

女優の大竹しのぶ の歌手デビュー作「みかん(作詞:阿久悠、作曲:大野克夫、編曲:細野晴臣;1976年)」は、先日亡くなった阿久悠芥川龍之介『蜜柑』に着想を得て詩を書いたとのこと。
本歌取りとでも言えばよいのでしょうか。

『みかん』(阿久悠)

〔4段落目〕
あなたと二人で汽車の旅
とび去る景色は春のいろ
小説みたいに このみかん
窓から投げたくなりました


もちろん、この小説を知らない人にとっては、なぜみかんを汽車の窓から投げるのかわからないだけなのかも知れません。


『蜜柑』(芥川龍之介) 〔後〕

それから幾分か過ぎた後であつた。
ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。
が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。
あの皸だらけの頬は愈赤くなつて、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。
これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。
しかし汽車が今将に隧道の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。
にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。
いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。
だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。
すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。
さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内へ漲り出した。
元来咽喉を害してゐた私は、手巾を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかつた。
が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。
その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかつたなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。




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店頭にみかんが並ぶ季節になりました。

近くのスーパーの果物売り場にもみかんが並んでいます。
名古屋では和歌山産や三重県産が多いようです。
みかんを見ると芥川龍之介の短編『蜜柑』を思い出します。
この短編は、雑誌「新潮」に大正8(1919)年5月に掲載されました。
芥川龍之介大正5(1916)年12月から大正8(1919)年3月まで、横須賀海軍機関学校の教師をしていましたので、芥川が実際に見かけたことを小説にしたのではないかとも言われています。

この無駄を削ぎ落とした文章は、私の理想とする文章の一つです。

『蜜柑』(芥川龍之介) 〔前〕

或曇つた冬の日暮である。
私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。
とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。
外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。
これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。
私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。
私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた。




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昨日、カマキリを見かけました。

カマキリは春にも夏にもいるはずなのに、なぜか秋になると良く見かけます。
だから、秋の季語なのでしょうか。

かりかりと 蟷螂蜂の 皃を食む(誓子)

カマキリは肉食なので、餌を食べている場面は結構残酷です。

ところで、昨日は体育の日でした。名古屋では午前中雨が降っていました。どうもハッピーマンデーで体育の日が10月10日から移って以来、雨の日が増えたような気がします。

夏目漱石『吾輩は猫である』の中に蟷螂狩りを運動として話す場面があります。
猫のサディスティックな一面のわかる場面です。


『吾輩は猫である』 (夏目漱石)から

新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。
第一に蟷螂狩り。
――蟷螂狩りは鼠狩りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。
夏の半から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。





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最後は被害者である金沢武弘

事件の関係者7人の話の最後は、この殺人事件の被害者である金沢武弘の話です。
…と言っても、金沢武弘は既に死んでいますから、その死霊が巫女の口を通して語ったことになっています。
常識的に言えば、被害者の証言が真実に違いないのですが、そもそも「死霊が巫女の口を通して」という設定が常識的ではないので、この話も真実かどうか疑問が残ります。
そして、ここでも小刀が凶器とされています。
『おれの前には妻が落した、小刀が一つ光っている。』
小刀は、多襄丸が打ち落としたままだったのでしょうか。
『わたしも多襄丸ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀を打ち落しました。』「多襄丸の白状」

『誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。』
小刀を引き抜いたのは誰なのでしょうか。
『それから、――そうそう、縄のほかにも櫛が一つございました。』「検非違使に問われたる木樵りの物語」
櫛が落ちていたことから、小刀を抜いたのは真砂とする説もあります。さらに、この木樵りの証言から、真砂真犯人説を唱える人もいます。
『小刀を喉に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。』 (「清水寺に来れる女の懺悔」
しかし、私は、真砂が小刀を持って自殺しようとしたと言っていることから、真砂が小刀を抜いて持ち去ったと思います(真犯人かどうかは別として…)。

一方、周辺にあまり血が飛び散っていないことから、霊が巫女の口を通して語ったとおり、金沢武弘は自殺で、小刀は血がすっかり流れ出た後に木樵りによって盗まれたという説もあります。
『死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳に滲みたようでございます。』「検非違使に問われたる木樵りの物語」

真実はやはり藪の中なのでしょうか。

黒澤明監督の映画『羅生門』では、金沢武弘森雅之が演じています。
森雅之は、本名、有島行光(ありしま ゆきてる)、小説家の有島武郎の長男です。


『藪の中』(芥川龍之介)

巫女の口を借りたる死霊の物語

――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。
おれは勿論口は利けない。
体も杉の根に縛られている。
が、おれはその間に、何度も妻へ目くばせをした。
この男の云う事を真に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。
しかし妻は悄然と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。
それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか?
おれは妬しさに身悶えをした。
が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。
一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。
そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか?
自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、
――盗人はとうとう大胆にも、そう云う話さえ持ち出した。
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡げた。
おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。
しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか?
おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚に燃えなかったためしはない。
妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」
(長き沈黙)



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kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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