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今日は、漱石が芥川龍之介の『』をほめた日です。

芥川龍之介は、東京帝国大学在学中の大正4(1915)年10月に『羅生門』を「帝国文学」に発表します。
そして、翌大正5(1916)年2月、成瀬正一久米正雄菊池寛松岡譲と共に同人誌「新思潮」(第4次)を発刊します。
この「新思潮」創刊号に芥川が掲載したのが『』です。

漱石は、この創刊号を読み、今から95年前の今日(1916年2月19日)、芥川に手紙を書き、『』を絶賛します。
芥川は、このことで小説家になる決意をしたといわれています。

今日は、その手紙を紹介します。

大正5年2月19日(土)に夏目漱石芥川龍之介に出した手紙

牛込区區早稲田南町七より 府下田端四三五芥川龍之介

 拜啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君ののものを讀んで見ましたあなたのものは大變面白いと思ひます落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます文章が要領を得て能く整つてゐます敬服しました。あヽいふものを是から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます然し「」丈では恐らく多數の人の眼に觸れないでせう觸れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい群衆は眼中に置かない方が身體の藥です
 久米君のも面白かつたことに事實といふ話を聽いてゐたから猶の事興味がありました然し書き方や其他の點になるとあなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀬君のものは失禮ながら三人の中で一番劣ります是は當人巻末で自白してゐるから蛇足ですが感じた通りを其儘つけ加へて置きます 以上
   二月十九日           夏目金之助
  芥川龍之介


この手紙の中で“久米君のもの”と書かれているのは、久米正雄がこの創刊号に掲載した『父の死』、“成瀬君のもの”と書かれているのは、成瀬正一が掲載した『骨晒し』のことと思われます。

このとき、芥川龍之介は23歳、夏目漱石は49歳でした。
漱石は、この手紙を書いた10か月後の12月9日に亡くなります。
この運命的な出会いがなければ、小説家・芥川龍之介が誕生していなかった可能性があると思うと人間の出会いの不思議さを感じます。



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今日は初氷の朝でした。

今朝の名古屋最低気温は、2.1℃で、初氷を観測をしました。
平年より8日遅く、昨年より2日遅い観測だったそうです。

今日は、昨日に引き続き、夏目漱石の『硝子戸の中』の21回目を紹介します。


硝子戸の中』(夏目漱石

二十一

 私の家に関する私の記憶は、惣じてこういう風に鄙びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町にあった。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半に起きて支度をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。
 彼らは筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
 大川へ出た船は、流を溯って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けたものだという。姉達はそこから上って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間に限られていた。これは彼らの服装なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。
 幕の間には役者に随いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬の模様のある着物の上に袴を穿いた男の後に跟いて、田之助とか訥升とかいう贔屓の役者の部屋へ行って、扇子に画などを描いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心だからと云って、下男がまた提灯を点けて迎に行く。宅へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分ではなかった。派出な付合をしなければならない名主という町人であった。私の知っている父は、禿頭の爺さんであったが、若い時分には、一中節を習ったり、馴染の女に縮緬の積夜具をしてやったりしたのだそうである。青山に田地があって、そこから上って来る米だけでも、家のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂く音を始終聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関玄関と称えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒や、袖搦や刺股や、また古ぼけた馬上提灯などが、並んで懸けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。



田之助”という役者は、時代的におそらく三代目澤村田之助〔弘化2年2月8日(1845年3月15日)~ 明治11(1878)年7月7日〕だと思います。
三代目澤村田之助は、美貌の女形として人気を博しますが、22歳のときに脱疽により四肢を切断することになります。
それでもなお舞台に立ちつづけ、悲劇の名優と呼ばれたそうです。
訥升”の方は、その三代目澤村田之助初代澤村訥升(後の五代目澤村宗十郎)の可能性もありますが、私は三代目澤村田之助二代目澤村訥升(急死のため、死後に六代目宗十郎を追贈)だと思います。

それにしても昔は高田馬場から浅草まで行くのは大変だったんですね。


今日は漱石忌です。

夏目漱石は、大正5(1916)年の12月9日に50歳で亡くなりました。
硝子戸の中』は、漱石が亡くなる前年の大正4(1915)年の1月~2月にかけて朝日新聞に連載した随筆です。
今日は、その20回目を紹介します。
19回目を紹介(2009年2月27日の日記参照)してから2年近く経ってしまいました。


硝子戸の中』(夏目漱石

二十

 この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人というのは、町内の鳶頭で、時々目暗縞の腹掛に赤い筋の入った印袢纏を着て、突っかけ草履か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤さんという娘があって、その人の容色がよく家のものの口に上った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後には養子を貰ったが、それが口髭を生やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席もやめて、しもうた屋になっていたようであるが、私はそこの宅の軒先にまだ薄暗い看板が淋しそうに懸っていた頃、よく母から小遣を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家はどこにあったか知らないが、どの見当から歩いて来るにしても、道普請ができて、家並の揃った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁え、と云われて八ツ橋なんざますえとふり返る、途端に切り込む刃の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教わったのか、それとも後になって落語家のやる講釈師の真似から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
 当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠とか、竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
 あの土手の上に二抱も三抱えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間隙間をまた大きな竹藪で塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうにきまっていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。
 そのくらい不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香が煙と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄に融け込んで行く趣なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。


この中に出てくる“「もうしもうし花魁え、と云われて八ツ橋なんざますえとふり返る、途端に切り込む刃の光」”という詞章は、講談の『吉原百人斬』のものだと思います。
この講談は、享保年間(1716~1735)に、吉原江戸町一丁目の茶屋で、下野(群馬県)佐野次郎左衛門という男が、兵庫屋八ツ橋という花魁を切り殺したという実際に起きた事件を脚色したものだそうです。
なお、この話は三世河竹新七が、初代市川左団次のために『籠釣瓶花街酔醒〔かごつるべさとのえいざめ〕』という題で歌舞伎化し、明治21(1888)年5月1日に東京千歳座(現在の明治座で初演されます。

半鐘と並んで高き冬木哉」の句は、明治29(1896)年1月3日の午後、子規庵で、内藤鳴雪森鴎外五百木瓢亭夏目漱石高浜虚子河東可全河東碧悟桐と催主(正岡子規)の8人が会しての初句会で漱石が詠んだ句です。



今日は、『永日小品』の18番目の短編「儲口」を紹介します。

漱石が、『永日小品』を朝日新聞に連載していたのは、明治42(1909)年の1月から3月にかけてです。
明治末期クリサツマイモを輸出していたとは知りませんでした。

永日小品・儲口』(夏目漱石

「あっちは栗の出る所でしてね。まあ相場がざっと両に四升ぐらいのもんでしょうかね。それをこっちへ持って来ると、升に一円五十銭もするんですよ。それでね、私がちょうど向うにいた時分でしたが、浜から千八百俵ばかり注文がありました。旨く行くと一升二円以上につくんですから、さっそくやりましたよ。千八百俵拵えて、私が自分で栗といっしょに浜まで持って行くと、――なに相手は支那人で、本国へ送り出すんでさあ。すると、支那人が出て来て、宜しいと云うから、もう済んだのかと思うと、蔵の前へ高さ一間もあろうと云う大きな樽を持ち出して、水をその中へどんどん汲み込ませるんです。――いえ何のためだか私にもいっこう分らなかったんで。何しろ大きな樽ですからね、水を張るんだって容易なこっちゃありません。かれこれ半日かかっちまいました。それから何をするかと思って見ていると、例の栗をね、俵をほどいて、どんどん樽の中へ放り込むんですよ。――私も実に驚いたが、支那人てえ奴は本当に食えないもんだと後になって、ようやく気がついたんです。栗を水の中に打ち込むとね、たしかな奴は尋常に沈みますが、虫の食った奴だけはみんな浮いちまうんです。それを支那人の野郎笊でしゃくってね、ペケだって、俵の目方から引いてしまうんだからたまりません。私は傍で見ていてはらはらしました。何しろ七分通り虫が入ってたんだから弱りました。大変な損でさあ。――虫の食ったんですか。いまいましいから、みんな打遣って来ました。支那人の事ですから、やっぱり知らん顔をして、俵にして、おおかた本国へ送ったでげしょう。」
「それから薩摩芋を買い込んだこともありまさあ。一俵四円で、二千俵の契約でね。ところが注文の来たのが月半、十四日でして二十五日までにと云うんだから、どう骨を折ったって二千俵と云う数が寄りっこありませんや。とうてい駄目だからって、一応断りました。実を云うと残念でしたがな。すると商館の番頭がいうには、否契約書には二十五日とあるけれども、けっしてその通りには厳行しないからと、再三勧めるもんだから、ついその気になりましてね。――いえ芋は支那へ行くんじゃありません。亜米利加でした。やッぱり亜米利加にも薩摩芋を食う奴があると見えるんですよ。妙な事があるもんで、――で、さっそく買収にかかりました。埼玉から川越の方をな。だが口でこそ二千俵ですが、いざ買い占めるとなるとなかなか大したもんですからな。でもようやくの事で、とうとう二十八日過ぎに約束通りの俵を持って、行きますと、――実に狡猾な奴がいるもんで、約定書のうちに、もしはなはだしい日限の違約があるときは、八千円の損害賠償を出すと云う項目があるんですよ。ところが彼はその条款を応用しちまって、どうしても代金を渡さないんです。もっとも手付は四千円取っておきましたがね。そうこうしている内に、先方では芋を船へ積み込んじまったから、どうする事もできない訳になりました。あんまり業腹だから、千円の保証金を納めましてね、現物取押を申請して、とうとう芋を取り押えてやりました。ところが上には上があるもんで、先方は八千円の保証金を納めて、構わず船を出しちまったんです。でいよいよ裁判になったにはなったんですが、何しろ約定書が入れてあるもんだから、しようがない。私は裁判官の前で泣きましたね。芋はただ取られる、裁判には負ける、こんな馬鹿な事はない、少しは、まあ私の身になって考えて見て下さいって。裁判官も腹のなかでは、だいぶ私の方に同情した様子でしたが、法律の力じゃ、どうする事もできないもんですからな。とうとう負けました」


漱石は、この作品で“うまい話には裏がある“という教訓を語りたかったのでしょうか。
私には、同じような話に引っかかる語り手の男への同情と、にもかかわわらずその失敗を深刻に考えていないその男の能天気なところへの愛着が感じられてなりません。



五感が呼び起こす記憶があります。

今日の名古屋は、昨夜からの雨が午前中には上がり、午後からは秋晴れとなりました。

今日は、主人公が秋晴れの空を見ていて故郷を思い出す、夏目漱石の『永日小品』の21番目の短編「」を紹介します。
永日小品』は、25編の短編からなる不思議な味わいのある作品です。

この話の主人公・豊三郎は引っ越してきたばかりです。
その新しい下宿の部屋の窓の外のアオギリの枝が剪定され、窓から秋晴れの空が見えるようになります。
豊三郎は、その空を見ていて遠い故郷を思い出します。


永日小品・声』(夏目漱石

 豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする。
 豊三郎は坐ったまま手を延して障子を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐の枝をおろしている。可なり大きく延びた奴を、惜気もなく股の根から、ごしごし引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい夥しくなった。同時に空しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した。豊三郎は机に頬杖を突いて、何気なく、梧桐の上を高く離れた秋晴を眺めていた。
 豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、懐かしい故郷の記憶が、点を打ったように、その一角にあらわれた。点は遥かの向にあるけれども、机の上に乗せたほど明らかに見えた。
 山の裾に大きな藁葺があって、村から二町ほど上ると、路は自分の門の前で尽きている。門を這入る馬がある。鞍の横に一叢の菊を結いつけて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隠れてしまった。日は高く屋の棟を照らしている。後の山を、こんもり隠す松の幹がことごとく光って見える。茸の時節である。豊三郎は机の上で今採ったばかりの茸の香を嗅いだ。そうして、豊、豊という母の声を聞いた。その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。――母は五年前に死んでしまった。
 豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻見た梧桐の先がまた眸に映った。延びようとする枝が、一所で伐り詰められているので、股の根は、瘤で埋まって、見悪いほど窮屈に力が入っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を隔てて、垣根の外を見下すと、汚ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団が遠慮なく秋の日に照りつけられている。傍に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた。
 ところどころ縞の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、乏しい髪を、大きな櫛のまわりに巻きつけて、茫然と、枝を透かした梧桐の頂辺を見たまま立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は蒼くむくんでいる。婆さんは腫れぼったい瞼の奥から細い眼を出して、眩しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した。
 三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど藁で括って貰って、徳利のような花瓶へ活けた。行李の底から、帆足万里の書いた小さい軸を出して、壁へ掛けた。これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻えして下から豊三郎を見上げた。



豊三郎は、故郷を“馬の鞍の横に結わえられていた菊の花”と“採ったばかりの茸の香り”と“亡くなった母親の声”という、視覚嗅覚聴覚、それぞれで思い出します。
その記憶は、あることをきっかけに連鎖的に蘇るようで、翌日、“菊の花なぜか私には黄色の菊のように思えます)”を買ってくると、再び、母の声が聞こえたように感じます。
豊三郎にとっては、“菊の花記憶のスイッチなのでしょう。

誰にでもその人なりの記憶のスイッチがあるのだと思います。


kinkun

Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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