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今日、詩人のまどみちおさんが100歳になられました。

童謡の「やぎさんゆうびん」や「ぞうさん」で知られる詩人のまど・みちお(本名:石田道雄)さんが、今日、100歳の誕生日を迎えられました。
やぎさんゆうびん」も「ぞうさん」も日本人ならば、誰でも知っている童謡です。


やぎさんゆうびん」(作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨

白やぎさんから お手紙 ついた
黒やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙かいた
さっきの 手紙の ご用事 なぁに

黒やぎさんから お手紙 ついた
白やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙かいた
さっきの 手紙の ご用事 なぁに



ぞうさん」(作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨

ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ



まど・みちおさんは、他にも「いちねんせいになったら」(作曲:山本直純)や「ふしぎなポケット」(作曲:渡辺茂)の作詞でも知られています。
どれもすぐ口ずさめる歌ですよね。


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忠度の登場する唱歌があります。

明治39(1906)に発表された『尋常小学唱歌 第四学年 上』「青葉の笛」(作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵)は、発表時のタイトルが「敦盛と忠度」だったことからもわかるように、1番は平敦盛が、2番は平忠度が主人公です。
昔、祖母が良く歌っていたのを思い出します。

青葉の笛

一の谷の 軍破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門を敲き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌


しかし、この歌、小学4年生には難しいと思います。
そもそも『「花や 今宵」の歌』というのは、平家物語に登場する

行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし

という忠度の詠んだ和歌のことですが、このことを知らないとこの歌の意味が全くわかりません。
昔の小学生は、この歌と共に平家物語の故事を学んだのでしょうか?

ところで、先日、彦根城博物館能舞台で行われた第43回彦根城能地謡を勤めた(2009年10月17日の日記参照)の能『忠度』もこの和歌が主題です。

能「忠度」の最後の部分

痛わしやあえなくも、六弥太たちを抜き持ち.遂に御首を打ち落す。
六弥太心に思うよう。痛わしやかの人の御死骸を見奉れば。
その年もまだしき。長月頃の薄曇り。降りみ降らずみ定めなき。
時雨ぞ通う村紅葉の。錦の直垂は.ただ世の常によもあらじ。
いか様これは公達の。御中にこそあるらめと御名ゆかしき所に。
箙をみればふしぎやな。短尺をつけられたり。
見れば旅宿の題をすえ。行き暮れて。木の下陰を。宿とせば。
花や今宵の。主ならまし。

忠度と書かれたり.さては疑い嵐の音に。
聞こえし薩摩の.守にてますぞ痛わしき。
御身この花の.陰に立ち寄り給いしを。
かく物語申さんとて.日を暮らしとどめしなり。今は疑いよもあらじ。
花は根に帰るなり.わが跡といてたび給え.木陰を旅の宿とせば。
花こそあるじなりけれ。


当時は、謡曲が暮らしの中に生きていたので、そもそもこの故事を知っている子が多かったのでしょうか?



今日は、童謡作家の海野厚が亡くなった日です。

海野厚〔明治29(1896)年~大正14(1925)年〕は、静岡県豊田村(現在の静岡市駿河区)出身の童謡作家で、『背くらべ』の作詞家として有名です。
28歳の若さで結核で亡くなりました。

背くらべ』(作詞:海野厚、作曲:中山晋平)

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽たべたべ 兄さんが
計つてくれた 背のたけ
きのふくらべりゃ 何のこと
やつと羽織の 紐のたけ

柱に凭れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸 してゐても
雪の帽子を ぬいでさへ
一はやつぱり 富士の山


海野は長男だったので、弟の視点から書いた詩と言われているそうです。


今日は、野口雨情の命日です。

野口雨情は、わが国を代表する童謡の作詞家で、昭和20(1945)年の1月27日に疎開先の栃木県河内郡姿川村鶴田(現在の宇都宮市)で亡くなりました。62歳でした。
十五夜お月さん』や『七つの子』、『赤い靴』、『シャボン玉』など、現在も多くの人に親しまれているたくさんの歌を残しました。

今日は、私の一番好きな『青い眼の人形』を紹介します。

青い眼の人形』(野口雨情)

青い眼をした
お人形は
アメリカ生れの
セルロイド

日本の港へ
ついたとき
一杯涙を
うかべてた

「わたしは言葉が
わからない
迷ひ子になつたら
なんとせう」

やさしい日本の
嬢ちやんよ
仲よく遊んで
やつとくれ


この詩は、児童雑誌『金の船』の大正10(1921)年12月号に発表され、これに本居長世〔もとおりながよ〕が、エキゾチックな感じのするメロディをつけて大ヒットしました。
ちなみに発表時の題名は、『青い目の人形』だったようです。
野口雨情本居長世のコンビによるヒット曲は、他に『七つの子』[大正10(1921)年]と『赤い靴』[大正11(1922)年]が知られています。
この歌は、雨情の三女で、当時2歳だった香穂子さんが、セルロイド製のキューピーと遊んでいる情景のを見てこの詞を書いたと伝わっています。
この曲のヒットにより、セルロイド製の青い眼の人形も大流行したのことです。



今日は、4年に一度の2月29日です。

今日の名古屋は、春を感じさせる暖かな一日でした。

今日は、昨日に続いて新美南吉の童話を紹介します。今日紹介する童話は、「のら犬」です。
のら犬」は、『赤い鳥』の昭和7(1932)年5月号に掲載されました。南吉が19歳のときの作品です。


『のら犬』(新美南吉)



 常念御坊は、碁がなによりもすきでした。きょうも、となり村の檀家へ法事でよばれてきて、お昼すぎから碁をうちつづけ、日がかげってきたので、びっくりしてこしをあげました。
「まあ、いいじゃありませんか。これからでは、とちゅうで夜になってしまいます。今夜は、とまっていらっしゃいましよ。」
と、ひきとめられました。
「でも、小僧がひとりで、さびしがりますから。さいわいに風もございませんので。」
と、おまんじゅうのつつみをもらって、かえっていきました。
 常念御坊は歩きながらも、碁のことばかり、考えつづけていました。さっきのいちばんしまいの、あすこのあの手はまずかった。むこうがああきた、そこであすこをパチンとおさえた、それからこうきたから、こうにげたが、あれはやっぱり、こっちのところへ、こうわたるべきだったなどと、むちゅうになって、歩いてきました。そのうちに、その村のはずれに近い、烏帽子をつくる家の前まできますと、もう冬の日も、とっぷりくれかけてきました。
 しばらくしてなんの気もなく、ふと、うしろをふりかえってみますと、じきうしろに、犬が一ぴきついてきています。きつね色の毛をした、耳のぴんとつったった、あばらの間のやせくぼんだ、ぶきみな、よろよろ犬です。どこかここいらの、かい犬だろうと思いながら、また碁のことを考えながらいきました。
 一、二丁いって、またふりむいてみますと、さっきのやせ犬が、まだとぼとぼあとを追ってきています。うす暗いおうらいのまん中で、二、三人の子どもが、こまをまわしています。
「おい、坊。この犬はどこの犬だい。」
 子どもたちは、こまを足でとめて、御坊の顔と犬とを見くらべながら、
「おらァ、知らねえ。」
「おいらも、知らねえ。」
といいました。
 常念御坊は、村を出はずれました。左右は麦畑のひくい岡で、人っ子ひとりおりません。うしろを見ると、犬がまだついてきています。
「しっ」といって、にらみつけましたが、にげようともしません。足をあげて追うと、二、三尺ひきさがって、じっと顔を見ています。
「ちょっ、きみのわるいやつだな。」
 常念御坊は、舌うちをして、歩きだしました。あたりはだんだんに、暗くなってきました。うしろには犬が、のそのそついてきているのが、見なくもわかっています。




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Author:kinkun
名古屋春栄会のホームページの管理人

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